早見慎司劇場5:キズナ

 あれは、九つか十ぐらいの頃ではなかっただろうか……今夜は緊張と興奮のせいか、どうも頭がぼんやりとして、肝腎なことが思い出せない。まだ二十三だというのに――。
 とにかく、そろそろ男女の違いを意識し始めた頃だった。私たちは四、五人で、近所の空き地で遊んでいた。
 十数年前とはいえ子どもが遊べる空き地などというものが今どきあるのか、と訝かしく思われるだろうが、そこは私の住むマンションのすぐ傍で、地上げはしたものの不況で買い手がつかず、更地にしたままほったらかしになっていた場所だったのだそうだ。それもずっと後に聴いた話で、その頃の私たちはただ近所に空き地があるのが物珍しく、立入禁止の看板の下から入り込んでは、たわいない遊びに興じていた。現代の子どもだからといって、誰もがいつも部屋にこもってテレビゲームで遊んでいるとは限らない。親、祖父、あるいは親戚……、どこからか昔の子どもの遊びを仕入れてくる。それがかえって目新しく思えるのだった。
 あれは……缶蹴りをしていたときだったはずだ。鬼の目を盗んで缶を蹴ろうと走った私は、地面から頭を出した、石か何かにつまずいて転んだ。土の上とはいえ、勢いよく倒れたので、しばらくは立ち上がれなかった。
 みんなが遊ぶのをやめて、心配そうに近づいてきた。
「大丈夫か?」
 私はようやく上半身を起こして、勇敢なところを見せようと笑ってみせた。
「なんてことないさ。続きを――」
 言ったとき激痛が走った。もう少し幼かったら泣き出していたと思う。それほど痛かったのだ。やっと起き上がったがまだ立ち上がれずに、尻餅をついた形で座っていた私の右の膝から、ガラスの破片か何かで切ったらしく、血があふれてきていた。生命に関わるような量ではないようだが、絆創膏程度で止まる勢いでもなさそうに見えた。そしてもちろん、私たちは絆創膏の一枚だって持ってはいなかった。
 幼い仲間たちの顔は青ざめていた。
「救急車、呼んだらきてくれるかなあ」
「あそこはどう? ニシヤマ医院。近所だもん」
「だめだよ、ニシヤマなんて。軽い傷でもすぐ縫っちゃう、って父さんが言ってた」
「でも、じゃあ――」
「ちょっと待って」
 時子姉さんが言った。私の姉弟ではなく、学年がひとつ上のショートカットがよく似合う同窓生だ。この年頃になれば年下の男の子たちの中に女の子が混じって遊ぶことなど普通はないことは誰もが知っているだろうが、時子姉さんは自分の同級生から『男女』と呼ばれるほど活発だったせいか、私たちに混ざっても違和感がなかった。
 時子姉さんは、辺りの草むらを目で探していたが、
「あった!」
 明るい声で言うと、楕円形でわりと大きめの草の葉を一枚むしり取って、私の前にしゃがみこんだ。
「まだ、痛い?」
「ううん」
 本当は痛いけれど、私は首を振った。理由はよく分からなかったが、時子姉さんの前では強い子でいたかったのだ。
「いい子だね。でも、血、けっこう出てるね。――ちょっと動かないでいて」
 言うなり時子姉さんは私の膝に顔を近づけ、驚いたことにあふれている血をなめ取った。正直に言うが、そのとき私は性的な快感をたぶん初めて味わったのではないか、と思う。それほどに時子姉さんの舌の柔らかさとざらついた感触の気持ちよさは、その頃の私には言い表わせない衝撃だった。
 あらかた血をなめてしまった時子姉さんは、それでもまだ血が傷口から出てくる私の膝に、草の葉を貼り付けた。膝をなめられたからなのか、血のせいなのか、葉はぴたりと私の膝に貼りついた。
「これで大丈夫。自然にはがれるまで、触らないでね」
「これって、薬草?」
 誰かが訊いた。
「薬草じゃないと思う。キズナ、って言うの。けがにはよく効くんだよ」
 傷菜、という表記を、そのときの私は思いつかなかった。そんなことを考えている余裕などなかったのだ。けがをしたことより、時子姉さんに膝をなめられたことで、胸の辺りが焼けつくように熱くなり、何を考えているのかも分からなくなった。周りの何もかもが自分から遠のいたようで、ただ、目の前の時子姉さんだけが、くっきりと見えていた。

ここから先は

3,597字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?