早見慎司
雑誌「コサージュ」に乗った、奇談小説家・早見裕司(現在:慎司)の最初期短篇集
マスク 早見慎司 20200907 「いらっしゃいませー」 「いらっしゃいませー」 街角の小さなスーパーで、店員がのどかな声で、客寄せをしている。 ぼんやりと違和感を感じるものの、近づくまではその正体に気づいていなかった。 時節柄、店員も白いマスクをしていた。鼻から顎まで完全に覆う、完璧なマスク……のはずだった。 目が悪いもので、見えてはいなかったのだ。マスクのちょうど口の辺りに、大きな切り抜きがあって、その穴から、店員が笑みを浮かべている、その笑顔の下半分が見え
あの頃の君 初稿 早見裕司 十年ぶりに、三人きりの同窓会があった。 同じ大学にいたことはあるが、同期ではない。十年前、私たちは同じ下宿で暮らしていたのだ。米野さんはもう卒業して、フリーターをしながらクリエイター系の仕事を探していたし、福川さんはオーバードクターというやつで、大学助手を狙いながら大学院に通っていた。私だけは現役の学生だったが、小説家志望でろくに授業にも出ていなかった。。 それぞれに、夢があったのだ。それが、気が付くと他のふたりはそれぞれ金融関係の会社
あれは、九つか十ぐらいの頃ではなかっただろうか……今夜は緊張と興奮のせいか、どうも頭がぼんやりとして、肝腎なことが思い出せない。まだ二十三だというのに――。 とにかく、そろそろ男女の違いを意識し始めた頃だった。私たちは四、五人で、近所の空き地で遊んでいた。 十数年前とはいえ子どもが遊べる空き地などというものが今どきあるのか、と訝かしく思われるだろうが、そこは私の住むマンションのすぐ傍で、地上げはしたものの不況で買い手がつかず、更地にしたままほったらかしになっていた場所だ
夜九時の終バスに間に合わせるつもりだったが、都心での編集者との打ち合わせが意外に長引き、中央線で国分寺駅に着いたときには、もう十時を回っていた。 タクシーに乗るほどの現金を持って出なかったので、後は西武多摩湖線に乗り換えてひと駅、そこから家まで歩くしかない。 だが、夜の電車は好きではない。必ず酔っぱらいがいる。 今夜も、多摩湖線への長い乗り換え通路を歩いていると、足許の定かでない中年の男が、くしゃくしゃの紙袋を握り、大声でわめきながらふらついていた。 「馬鹿野郎。何が
夏の少女 早見裕司 ちょうど十年前、暑い盛りだった。 大学二年生だった私は、夏休みにふと思い立って、東京からそう遠くない山の多い土地へ、ひとりで出かけた。せっかくの休みを、いかにエアコンが利いていても、部屋の中や街なかで過ごすのはごめんだ。行ったことのない場所へ、ふらりと旅に出たかったのだ。どうも私は、ひとつ所に落ちついていられない質なのかも知れない。 それほど高くはない山道を歩いていくと、広い草原〔ルビ「くさはら〕に出た。腰の辺りまである草が生い茂る中をかきわけ
イラスト 早見慎司 新刊の見本を著者や関係者に送り、予め著者からもらっていた献本リストの宛先にも本を送ると、今月の新刊の仕事は一段落した。編集部の中に、ほっとした空気が流れていた。 それまでの苦労があれば、尚更のことだ。私は明日、休みを取ることにしていた。幼稚園が夏休みの息子を遊園地に連れて行く約束をしていたのだ。 とりあえず、今日も既に仕事はなさそうだ。早めに上がろうと思っていると、さっきからひとりだけ何とも言えない表情で電話を受けていた新人の平井が、受話器を置い
朝、顔を洗っているとき、何となく違和感があった。突っ張るような、むくんだような、そんな感覚だった。 ――やっぱり、昨夜は飲み過ぎたかな。 夕食はいつも、近所の小料理屋で摂る。最初はOLらしく、ビールの小瓶一本を汁物代わりに飲んでいたのが、いつの間にか、中瓶を二本は空けないと、よく寝付けなくなった。昨日は寒かったので、それに加えてお銚子を一本。三十を間近にした女が、もう立派な親父並みの酒飲みになったかと思うと、何だか情けない気もする。 顔を拭いて、鏡を見直してみると、額
友人は、駅で待ってくれていた。 ほとんど二十年近く会っていないので、顔が分かるかどうか心配だったけれど、中学生の頃のおもかげは、まだ残っていた。 「変わらないね」 「お前のほうが変わらないよ。そのTシャツ、昔も着てなかったか」 「まさか」 僕は笑った。 夏の夕暮れの中を、彼の車に乗って、駅前から東へのびる人けの少ない商店街を走りぬけた。 「街のようす、あまり変わってないね」
ゆうべの雨はまだやまなかったが、涼しい風が吹いて、なんだか気持ちのいい朝だったので、久しぶりに吉祥寺へ遠出した。 駅の北口から出て、サンロードの大きなアーケードに入る。おもちゃ屋で、何か写真に使える小道具はないかと見たり、書店をのぞいたりしながら、ぶらぶらと歩いた。アーケードを抜けたところに、大きな古本屋がある。二階には昔の本があって、古い写真集なども見つかるのだが、昼近くならないと階段が開かない。それでも下の階で、何冊か本を買った。 いつもはここで帰るのだが、きょうは
秋も深まってからだと思うけれど、はっきりとした日付けは覚えていない。とにかくその日、僕は、東京の西のはずれにある、私立高校を訪ねた。 そのころ僕がしていた仕事は、最近売れ出したある小説家の雑誌連載に、写真をつけるというものだった。毎回、建物をモチーフにした読み切りの短編で、イメージに合う場所を見つけるのは、なかなかたいへんだったが、僕はいちおう建築物専門のカメラマンだから、それは楽しみでもあった。 その時の注文は図書館の書庫、それもできるだけ古びた所、ということだった。
『お前、本を一冊やる気はないか?』 電話の向こうで、師匠が言った。 「僕が……ですか?」 とまどいながら、僕はたずねた。 師匠――と言っても、僕が勝手に先輩扱いして、ときどき仕事を手伝わせてもらっているだけだが――は、人物写真でけっこう売れている。そこに来た話なら、人物の写真集なんだろう。けれど僕は、建物を専門に撮っている。しかも、まだ表紙に名前の出るような大きな仕事はしたことがない。何かのまちがいだろう、と思った。 『まあ、基本的には人物なんだがね』 師匠は答えた。
プラットホームの中ほどに小さな花壇があって、首が垂れそうなほどに育ったひまわりの花が、夕ぐれの陽ざしを追っている。 僕はベンチに座って、それをぼんやり眺めていた。 ここがどこなのか、僕にはよく分からない。……いや、ホームに立った白い駅名標示の板には「ひとりだに」――日取谷とあるのだが、かんじんの県名がないのだ。 そもそもこの駅にたどり着いたのは、小さな偶然からだった。 八月の初め、友だちから手紙をもらった。 彼は作家なのだが、小説が何冊かヒットしたのをきっかけに
また、梅雨の季節がやってきた。 バルコニーの向こうで、おだやかな六月の雨が、街を雨の色に染めている。群青と緑が混ざったような暗いモノトーンに、ビルも家並みも車も人も、すべてが塗りつぶされていく。 僕は、苦いコーヒーをいれて、窓のそばに座る。いつもは聞かない、古いレコードをとりだして、かけてみる。カーペンターズの優しい歌声。その後ろで、レコードのノイズが、静かな、雨のような音をたてている。 ベッドのある壁には、何枚もの写真がピンで留めてある。その中から僕は、一枚の
今夜も、あの少女を見た。
生垣の角を曲がったところで、僕は立ち止まった。 道の向こうに、それはみごとな、古い洋館が建っていたからだ。 もともとこのあたりは古い住宅の多い街並みで、通るたびに目をこらしてはいたのだが、今までこんな家があるとは気づかなかった。 ――僕は三十二才。建物専門のカメラマン、と名乗ってはいるが、まだキャリアも、名前もない。生活のためには、たとえば披露宴の記念写真だって撮る。 最近、この住宅街を抜けた所に、僕の師匠にあたる人がスタジオを構えたので、手伝いに行ったり、作品を見
テラスへ上がったときから、林のことは、気になっていた。 人が二、三人しか立てない、屋上の小さな石のテラスだ。両わきには、正体のしれない怪物の石像が、強い陽ざしを浴びて、うずくまっている。中庭と、それを囲む校舎を守っているのだろうが、僕には、校舎の後ろの林へ視線を放っているように見えた。 林は、今がさかりの草木が、ジャングルのように伸び放題になって、陰を作っているいる。そのうっそうとしたようすが、この古い校舎とよく合っていた。同じ時間を刻んできた、校舎の一部という感じだ。