早見慎司未発表短篇「マスク」

マスク  早見慎司 20200907

「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
 街角の小さなスーパーで、店員がのどかな声で、客寄せをしている。
 ぼんやりと違和感を感じるものの、近づくまではその正体に気づいていなかった。
 時節柄、店員も白いマスクをしていた。鼻から顎まで完全に覆う、完璧なマスク……のはずだった。
 目が悪いもので、見えてはいなかったのだ。マスクのちょうど口の辺りに、大きな切り抜きがあって、その穴から、店員が笑みを浮かべている、その笑顔の下半分が見えることに。
 笑顔の唇は、光る歯も生えそろい、どこから見ても、満面の笑みというものだった。ただ、何故か凍り付いたように、半開きのままの大きな唇が、揃いも揃ってこちらへ向けられているのは、いかがなものか。
 それではマスクの効用がない。それだけではない。口まで裂けた笑顔、というものに恐怖を感じる人間――まあ、自分は少数派なのだろうが――は、どうしたらいいのだろう。
 そこまで見た所で、きびすを返して隣の駅のスーパーへ行くべきだったかも知れない。
 だが、心のどこかで、声がした。ジェミニー・クリケットのような声だった。
――お前はまだ、あんなものが怖いのか――
 途端に記憶が数十年、過去へと飛んだ。まだ子どもだったが、父の実家に帰った冬休み、なまはげが襲来したのだ。
――泣く子はいねがああ――
――悪い子はいねがああ――
 荒々しい声で、静かな茶の間にいきなり襲いかかってきた悪鬼を見て、自分は泣いた。『火のついたような』号泣だった――というのは、後で今は亡き両親が、「なまはげは悪い鬼ではないんだよ」というお題目と共に、教えてくれたことだ。
 悪い鬼ではない? 平和な一家の団欒を無にしたばかりか、確かまだ四つの子どもに、心からの恐怖を味わわせる行為が、『いいこと』にどうやって結び付くと言うのだ。少なくとも、こちらは受け入れられない。
 あれから三十年近く、経っている。なまはげが悪い鬼ではない理屈は、頭では理解した。しかし、もっと上の方、情緒のレベルでは、見たくはない。テレビのローカルニュースでなまはげが登場すると、チャンネルを変えてしまう。それほどに怖い原体験だ。なまはげは。
 それに比べれば、マスクの笑顔など何でもない――はずだ。
 オトナは変な所で意地を張る。私の足は、店へと向かっていた。
「いらっしゃいませー」
 明るい声をかける店員の顔を、かすかな体の震えを隠しながら、にらみつけてやった。そして、――気が付いた。
 マスクは、切り抜かれていたのではない。通常のマスクの上から、同じ笑顔の『仮面』をプリントしてあるのだった。
 それに気づいた瞬間、足が動かなくなった。
「お客様、どうかされましたか」
 笑顔の店員が、近づいて来た。どうやら、たぶん青い顔をしていたのだろう。子どもを取って食う鬼ではなく、その声は、平静な若い女性の声だった。
 しかし……私は気が付いてしまった。
 マスクの下では、彼女はどんな表情をしているのだろう。声の通りの穏やかな表情だろうか。この弱虫を嘲笑っているのだろうか。それとも……まさか、全くの無表情……。
 怖いのは、お仕着せの笑顔そのものではない。ほんとうの顔がどうなのか、その正体がさっぱり見えないことなのだ。
 考えていると、怖さはどんどん膨らんで、はちきれそうになった。店員に飛びかかって、マスクをはがしてやりたい程だった。
 こちらがマスクをしていなければ、いまの表情を店員に見せつけ、どんな反応をしているかに気づいてもらえたかも知れない。しかし、そんなことで、せっかくの『お・も・て・な・し』にケチを付けるほど、若くはない。
「どうされました? お客さん」
 彼女は、いや、彼女の仮面は、ソーシャルディスタンスを超えようとしていた。声を振り絞って叫んだ。
「近付きすぎるぞ! 笑い仮面」
 『笑い仮面』とは、はるか昔に流行った恐怖漫画だ。主人公が、いつも笑顔の仮面を付けているのだった。それも、しばらく忘れていた。
 彼女は、どうやら眉をひそめたらしいことが、かろうじて分かった。
 しかし、返事を待っていられる状態ではなかった。
 不意に、頭の中に、スーパーの店内が浮かんだ。数人、いや数十人の店員が、皆同じ笑い仮面をつけてレジに立ち、声だけは威勢良く華やいでいる。
『いらっしゃいませー』
『五千二百円ちょうどになります』
 その笑い仮面の群れが、こちらに顔を向ける――妄想が浮かんだのが限界だった。震える体をどうにか支え、何も言わずに逃げ出していた。

 帰宅して、料理の支度をしていると、寝室で、がたがたと音がした。まだ、妻が帰ってくるのには早いが――と思いながら、見ていると。
 いきなり寝室のドアを開けて、鬼の面にわらの蓑を着け、ぎらりと光包丁を提げた人間……いや、悪鬼が、勢いよくDKへと出て来た。
 わっ、とかそういう声を上げたのは覚えている。
 面を付けたままのなまはげは、くぐもった声で言った。
「そんなに驚くこと、ないじゃない。ただのコスプレなのに。あのねえ……」
「いいから、出て行け! 俺は悪い子じゃない!」
 震える声で言うと、なまはげは、首を横に振った。
「何よ、あなた。ずいぶん臆病なのね」
 恐怖に怒りが加わって、混乱していた。思わず手にした包丁を、なまはげめがけて突き出していた。
「あ・な・た……」
 なまはげは横向きに倒れ、胸の蓑から血があふれ出し、そして、外れた面の下から、驚きが凍り付いた妻の顔が洗われた。
 しばらく、その場に立ち尽くしていると、妻はそのまま動かなくなり、マスクを外している自分の表情は、表情は……。
「悪い子は、ここにいた……」
 がっくりと膝を突き、包丁を振り上げた。
 命を絶つ瞬間に、あの笑い仮面が頭に浮かんだ。
 みんなが、こちらを取り囲んで見下ろし、ひい……というような笑い声を上げている。
 そこで感情が切り替わって、恐怖から、ただ恐怖から逃れようと、私は包丁を振り下ろした。


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