8:泥棒と金魚

 ゆうべの雨はまだやまなかったが、涼しい風が吹いて、なんだか気持ちのいい朝だったので、久しぶりに吉祥寺へ遠出した。
 駅の北口から出て、サンロードの大きなアーケードに入る。おもちゃ屋で、何か写真に使える小道具はないかと見たり、書店をのぞいたりしながら、ぶらぶらと歩いた。アーケードを抜けたところに、大きな古本屋がある。二階には昔の本があって、古い写真集なども見つかるのだが、昼近くならないと階段が開かない。それでも下の階で、何冊か本を買った。
 いつもはここで帰るのだが、きょうは、吉祥寺の町をもっと探索することにした。
 僕が捜しているのは、古い洋館だ。もう、有名な所はだいたい写真に撮ったので、あとはあちこち歩いてみて、捜し当てるしかない。家並みの中を行き当たりばったりにふらついていた。
 しばらく行くと、いい家が見つかった。
 背の低い、白く塗られた木の柵の中が、雑草がのびほうだいの庭になっていて、樹も何本かあるその奥に、薄いピンクのペンキがところどころはげたような、横板を並べた壁の二階家がある。樹のせいで全体は見えないが、けっこう年代がたっているようだった。
 庭の手入れがされていないのを見ると、空き家かもしれない。
 柵の壊れたところがあったので、とりあえず入ってみることにした。何か言われたら、あやまって逃げてくればいい。
 雨に濡れた草を踏み分けて、家へと近づいた。赤いトタン屋根がさびていて、土台のあたりにはコケがはえている。人の気配はなかった。
 まず、全体像を撮ろうと、構図を考えていると、
「何をしているんです?」
 声をかけられた。
 びっくりして振り向くと、男がひとり、立っていた。
 ひょろっと背が高く、僕とあまり変わらない年頃で――僕は三十三になったばかりだ――、濃い茶色のジャケットを着ていた。街で会っても印象に残らないような、目立たない顔立ちだった。
「あ、……ちょっと通りかかって、見ているだけなんです。僕は――」
「いけませんね」
 男は、首を振った。
「見ているだけ、というのはよくありません。他人の家に入り込むからには、何か、目的がなければね」
「はあ、すいません。――ここの方ですか?」
「いや。この家とは無関係です」
「じゃあ……」
「私は、泥棒です」
 男は言った。
「泥棒……さんですか?」
「はい」
「あの……こんな昼間から?」
「泥棒は夜中に入るものと、思っていらっしゃいますね。しかし、昼間のほうが、かえって入りやすいものなんです。家の人が外出していることが多いですからね」
「はあ」
 しかし泥棒が、盗みに入った所で、人に話しかけていいものなんだろうか。
「それで、これから、――泥棒をなさるわけですか」
「今日のところは、下見だけにしておこうかと思っているのです。この家は、なかなかに魅力的ですね。そうは思いませんか?」
 僕はうなずいた。
 たしかに、この家には、人をひきつけるものがある。ふつうの人なら、ただ古いだけだと思うかもしれないが、新築の多い住宅地の中で、ここだけがぽっかりと、まるで森の中の家、みたいになっているのがおもしろい。
「で、目的のないあなた。どうします? 警察を呼びますか?」
 男がきいてきた。
「いえ。あれは、言いわけなんです。僕はカメラマンで、洋館を撮っているんです。そうしたら、ここにいい家があったので」
「なるほど。それでは、泥棒とあまり変わりませんね」
「そうかもしれません」
 勝手に他人の家を撮るのだから、僕も共犯のようなものだ。それに、この泥棒と名乗る人物は、なんだか「怪しさ」みたいなものはなかった。友だちにでもなれそうな感じなのだ。
「それでは、あなたはあなたで撮影をお続けください。私は、私で、やります」
「誰か、出てこないでしょうか」
「静かとはいえ、雨が降っています。感づかれることは、ないと――」
 泥棒氏が答えたとき、二階の、カーテンが開いた窓に、人影が見えた。
 縦縞のパジャマを着た女の子が、こちらを見おろした。あっと思ったが、もう窓を開けて、大きな声を出した。
「お客さま?」
「いえ、ただちょっと――」
 僕はためらいながら言ったが、女の子は、
「待っててくださいね。今、行きますから」
 事情が分かっているのかいないのか、そう言うと、窓を閉めた。
「どうしましょう」
 僕は、泥棒氏にきいた。
「こういうときは、逃げてはいけません。かえって怪しまれます。落ちついて、事情を話すのがいいでしょう」
「そりゃ、僕はいいですけれど、あなたは?」
「言いますよ。泥棒だと」
「だいじょうぶなんですか?」
「まあ、たいていの泥棒は、何かのふりをして逃げるものなんですがね。たとえば、セールスマンだとか。しかし、私は、いつもはっきりと、泥棒だと名乗ることにしています。私の美学が、それを言わせるのですね」
 よく分からない人だ。
 まもなく、庭に面したベランダから、さっきの女の子が、白いパーカーとGパンで現われた。
 僕は、人物をあまり撮らないので、彼女の年齢はよく分からなかった。十代の後半にも見えるし、あるいは、童顔なだけで、もっとずっと年上かもしれない。少なくとも、化粧っ気はなかった。
「今日は、いいことがありそうな気がしたの」
 彼女はうれしそうに、いきなり言った。
「こういう日は、雨でも、空が明るいでしょう。空気も、なんだかすっとしていて。それで、ずっとベッドで、けしきを見ていたんだけど、そしたら、あなたたちが来ていて。誰か来るのは、うれしいな。ここへは、あまりお客さまが来ないから。――ああ、ごめんなさい。それで、どちらさまですか?」
「僕は、カメラマンです」
「私は、泥棒」
 すると彼女は、ますますうれしそうな顔になった。
「本物のカメラマンさんも、本物の泥棒さんも、初めて。じゃあ、用事があるのね」
「ええ。この家を、撮らせていただきたいと思って」
「私も、『とりに』きたんですがね」
 泥棒氏が言った。
「とる物は違います」
「ええ。何か、盗んで行くんでしょう。あ、でも、こうやって、お迎えしてはいけないのかしら。だって、泥棒って、こっそり盗んで行くものなんでしょう」
「場合によります。堂々と盗むこともあります」
「それじゃ、家の中をご案内してもいいかしら。そういうことがしたいの」
「おひとりで、お住まいなんですか?」
 僕はきいた。
「そうなの。だから、心配しなくても、ゆっくり見られるわ。じゃあ、入ってください」「どうします?」
 僕は、泥棒氏にきいた。
「臨機応変、ということです」
 泥棒氏は、平然と答えた。
「相手によって、盗みかたも変わってくるのですよ」
 それで、僕らは、彼女のあとについて、家に入ることにした。
「あっ」
 ベランダに上がったとき、彼女は声をあげた。
「どうしましょう。ふだん、こういうことってないから、カメラマンさんが撮れるようなものも、泥棒さんに盗んでもらうものも、用意してなかったの」
「いいんです。こっちが気に入ったものを撮りますから」
「私も、同じですよ」
 泥棒氏が言った。
「こちらで、盗む値打ちのあるものを捜します。その値打ちは、自分で決めます。泥棒というのは、そういうものです」
 彼女は、ほっとしたような顔になった。
「では、ひととおり、見てくださいな」

 中へ入って見ると、思った通り、被写体の宝庫だった。アメリカンスタイルで、よけいな装飾はなかったが、居間の暖炉や、大きな柱時計が目についた。いわゆる「グランドファーザーズ・クロック」――おじいさんの時計と言うやつだ。
 日本調の家にも、柱時計は似合うが、ここのは、どこか西洋風だった。
 僕がシャッターを切っているあいだ、泥棒氏は、ジャケットのポケットに手をつっこんで、部屋の中を見回していた。
「何か、盗むものはあります?」
 彼女がきいた。
「考えているところです。――その、金魚鉢は、古そうですね」
 泥棒氏は、暖炉の上の丸いガラス鉢を指した。
「ええ。私が生まれる前からあったの。私、金魚です」
「金魚?」
 僕はきき返した。
「そういう名前なの。へんでしょう」
「私の友人には、『こまいぬ』という名前の男がいますよ」
 泥棒氏は答えた。
「もっと、奥へも行きましょうね」
 金魚は、居間から廊下へと出た。家の中なのに、デッキシューズの泥もぬぐわず、歩き回っていた。
「ここが、仏壇のへや」
 そこも洋室だったのだが、部屋の一方が高くなっていて、そこに大きな仏壇があった。「仏教徒なんですか?」
「おかしい?」
「いえ」
 なんだか似合わない気がしたが、ひとの宗旨に文句は言えない。
「いい仏壇でしょう。両親がいるの。写真に撮る?」
「人が写っていたら、いやですから」
 答えると、金魚はびっくりした顔で、
「仏壇に、人がいるのはあたりまえでしょう? そのためにあるんだから」
「まさに、そのとおりですね」
 泥棒氏が、深くうなずいた。
「そうだ。私、お客さまのしたく、しなくちゃ。あとは、勝手に見てください。泥棒さんなら、間取りなんか分かるでしょう」
 そう言うと、金魚は、ぱたぱたと出ていった。
「どうしましょう」
 僕は、つぶやいた。
「そうですね」
 泥棒氏は腕組みをして、
「このさい、ひととおり、見せてもらうのが礼儀でしょう。――風呂場はどこかな」
「風呂場に、盗むものが?」
「いえいえ。逃げ道を確保しておく必要があるんです。風呂場の窓なんかがいいんですよ」
「だって……あなたは、逃げないでしょう」
「なぜです」
「彼女が、今さら警察に通報すると思いますか」
「それは、しないかもしれませんがね」
 泥棒氏は静かに言って、
「一応、万全の準備をするのが、泥棒の心得です。それに、玄関からのこのこ帰っていくわけにもいかないでしょう」
 へんな人ですね、と言おうとしたが、よく考えたら、相手はもともと、ふつうの人ではないのだ。それを聞いている僕も、どこかふつうではない。
 とにかく、風呂場へ行ってみた。さすが泥棒氏、迷いもせずにたどりついた。
 タイルの床に、ステンレスの浴槽がある。ここだけ改装したのか、とてもきれいな風呂場だった。
 泥棒氏は窓を見て、
「ああ――これはいけませんねえ」
 首を振った。
「どうかしましたか?」
 風呂場の窓は、新しいものだった。細い直方体の、不透明な板ガラスが何枚も連なっている。開けると、よろい戸のようになるしかけだ。
「これを、ジャロジーウィンドウと言うんですがね」
 泥棒氏は、窓を開けて、
「ドライバー一本あれば、あっというまにガラスを外せるんですよ」
「でも、出られないでしょう」
 窓の幅は、三十センチぐらいしかなかった。
「いやいや。人はね、頭と片腕さえ入れば、通れるものなんです。やってみせましょうか」
「いえ、けっこうです」
「何をしているの?」
 金魚がやってきた。
「下着なんかないからね」
「そういう仕事はしておりません」
 泥棒氏は、礼儀正しく答えた。
「少し、お休みしません? お茶のしたくをしたんだけど」
「え? でも、それじゃ、あんまり……」
 僕が言うと、金魚は首を振った。
「家は見せたんだから、今度は私につきあって」
「泥棒がお茶をいただくのは、あまり例のないことですが、私は紳士でもありますから、お招きをお断わりするわけにはいきませんね」
 泥棒氏が答えた。
 それで僕らは、金魚のあとをついて、庭へ出た。

 庭には丸いテーブルがあって、ティーポットやビスケットが用意されていた。
 すでに雨は上がり、樹の間から見える雲はまぶしいほど明るい灰色になっていた。
「どうぞ」
 すすめられたお茶を口に含んで、僕はびっくりした。紅茶だと思っていたのに、かびくさいような、渋い味がしたからだ。
「なんですか、これ」
「プーアル茶。中国のお茶なんだけど、ちょっと濃すぎたかしら」
 見ると、泥棒氏は、ゆったりとくつろいだようすで、カップを口に運んでいた。
「ねえ」
 金魚が、泥棒氏にきいた。
「あなた、本当の泥棒さん?」
「はい。名刺はありませんが、泥棒です」
「どうして、この家に入ったの? それはたしかに、一度、泥棒さんでも来ないかな、って思っていたんだけど」
「どうしてでしょうか。あまり、泥棒の入りやすい家でもないんですがね」
「入りやすい家って、あるの?」
「まず、塀が高くなければなりません。塀が低かったら、外からようすが見えてしまいますからね」
「でも、へいを高くしたら、外の道とかが、見えなくなっちゃう。私、道を犬が歩いているの、見るのが好きなの」
「――次に進みましょう。昼間に雨戸が閉まっていると、泥棒は入りたくなるものなんです。忍びこんでも、外から見えませんからね。落ちついて、仕事ができます」
「うーん……でも、雨戸やカーテンを閉めていたら、お天気が見えないよ」
「ぜいたくを言われても困ります。こちらのつごうというものもありましてね」
「ふうん。泥棒さんに入ってもらうのもたいへんなんだ」
「でもね」
 泥棒氏はカップを置いて、
「ここには、樹があります。二階の窓に、樹をつたって入れるでしょう。それは、合格ですよ。大事なものは、二階にあることが多いですからね」
「樹を登るの? そんなこと、できるの?」
「もちろんです」
「じゃあ、やってみて」
 金魚は、わくわくしたような目で言った。
「そうですか。では、失礼して」
 泥棒氏は、カップを置くと、家のそばにあるエノキの樹にとりすがった。するすると登って、あっという間に、二階の窓へと入って行った。
「すごいですねえ」
 見上げて、僕は感心した。
「うん、すごい。私も子どものときから、よく木登りしたけど、あんな早くは登れないもの」
 金魚は、お茶のカップを手に、窓を見上げていた。
「ところで金魚さん、ここはあなたの家なんですか」
「うん。今は、私ひとりの家。だから、好きなだけ、写真とか撮っていいよ」
「じゃあ、そうさせていただきます」
「でもねえ」
 金魚はテーブルにひじをついて、
「ひとりっきりだから、誰も来ないんだよね。あなたたちみたいに、勝手に入ってくる人もいないし。だから、たいくつなときもある」
「このあたりに、お友だちは?」
「いないよ」
 金魚は、きっぱりと言った。
「夕方とか、みんなじぶんのうちへ帰るのを見ていると、ちょっとさびしい。――ねえ、お友だちになってくれる?」
「どうしたらいいんですか?」
「気持ちのいい天気の日に、遊びに来てくれたらそれでいいの」
「約束します」
 そんな話をしているうちに、泥棒氏はまた窓から木にとりすがり、すばやく降りてきた。
「お待たせしました」
「ベランダから出てくればいいのに」
「それは、あまり泥棒らしくありません」
 ジャケットのすそを直しながら、泥棒氏が言った。
「何か、盗んできてくれた?」
「これは、いかがでしょう」
 泥棒氏は、ポケットから小さな物を取り出して、見せた。
 それは、ハーモニカだった。手のひらに入るぐらいの大きさで、口を当てる部分は木が赤く塗ってある。両側に打ち付けたブリキの板には、鮮やかな色でマンガのような絵が描いてあった。ハーモニカのおもちゃ、という感じだった。
 金魚は、目を輝かせた。
「どこにあったの? 見つからなくなって、さがしていたのに」
「泥棒は、その人のだいじなものを見つけだすことができるんですよ」
 ハーモニカを受け取って、金魚は、口に当てて短いメロディを吹いた。
 思ったよりも大きな、柔らかい音がした。
「いい音ですね」
 僕は感心した。
「中国のハーモニカなの」
「おみやげですか」
「ううん。大中で買ったの」
 大中というのは、吉祥寺のアーケード街にある、中国の輸入品を扱っている店だ。要するに、近所で買ってきただけのことだった。
「本当に、中国に友だちがいたらいいのに」
「私の友人は、チベットへわたって、遊牧民をやっていますよ」
 泥棒氏が言った。
「元は小説家だったんですがね」
 彼の言うことは、どこまでほんとうか分からない。
「泥棒さんって、役にも立つんだね。私が捜していたものを、見つけだしてくれたんだもの。――お礼に、お茶をもっとどうぞ」
「不本意ですね。泥棒が、ひとの役に立ってはいけません。でも、お茶はいただきます」「ひとの役に立つ泥棒さんもいるでしょう? ルパン三世とか」
「彼は邪道です」
「お知り合い?」
「宗教がちがいます」
「私は仏教徒だけど」
「神社めぐりは好きですね」
「さい銭泥棒もするの?」
「あれは、暮らしに困ったときにやるものです」
「じゃあ、お金持ちなんだ」
「いえいえ。働くのがきらいでして。ねえ」
 いきなりこちらへ話を振られたので、僕は少々あわてた。
「僕ですか? 写真を撮るのは好きだけれど、なかなか仕事がないんです。建物の写真では、あまりもうからないので」
「じゃあ、泥棒さんのお手伝いをしたら? お金のありそうな家をさがすの」
「そんなこと、分かりませんよ」
「慣れれば、分かるようになります」
 泥棒氏が言った。
「でも、この家に入ったじゃない。お金、ないよ」
「必ずしも、金銭でなければならないというものでもありません。要するに、その人が大切にしているものを盗み出すのが、泥棒ですから」
「それ、悪いことじゃない?」
「もちろん」
「どうして、悪いことだと分かっていて、するの?」
「そういう、本質的なことを聞かれると、困るのですがね」
 泥棒氏は、むずかしい顔をして、
「金魚さんは、宝石箱を持っていますか?」
「持ってない。でも、似たのならある。中国のお香が入ってた箱。指輪とか入っているけど、みんな安物だよ」
「値段は、どうでもよろしい」
 泥棒氏は、庭から石をひとつ、拾いあげた。
「この石は、どこにでもある、ただの石ですね」
「そんなことないよ。私の庭で、泥棒が拾った石だよ」
 泥棒氏は、ちょっと困ったようだった。
「まあ、金魚さんは、そう思ってくれるでしょうね。でもねえ、そのへんにいる人たちにこれを見せても、どこにでもある小石だとしか思ってくれないでしょう」
「そう思う?」
 聞かれて、僕はうなずいた。
「思います」
「じゃ、そういうことにする。それで?」
「しかしですよ。この石が、金魚さんの宝石箱に入っていたらどうでしょう。あるいは、金庫の中に」
「うちに、金庫はないけど」
「じゃあ、今度どこかで見つけたら、持ってきましょう」「金庫って、あんまり好きじゃない。さわると、冷たいんだもの」
「話をつづけましょう」
 泥棒氏は、実に忍耐強い人だと、僕は思った。
「この平凡な石を、たとえば今日の記念として、箱におさめておきます。すると、石は、特別な石として、だいじに守られる。そうなると、もうふつうの石ではないんですね。金魚さんの宝物になるわけです。それで、盗む値打ちが出てくるのですよ」
「分かったみたいな……」
「つまりですね。箱の中に入っているから宝物だと分かるんですよ。そこいら一面に、五百円玉が落ちていたとして、それを拾っても、盗みにはならないんです。あなたのさいふの中にある、あなたの五百円玉を盗んでこそ、泥棒と言えるんです」
 金魚はじっと聞いていたが、手を突き出した。
「その石、ちょうだい」
 渡された石を、ぎゅっと握りこんだ。
「私、これ、箱に入れておく。特別な石だから」
「どうやら、分かっていただけたようですね」
「うん。分かった。――泥棒さんって、むずかしいこと考えているんだね。大学の先生になったら?」
「そこまで犯罪者ではありません」
 泥棒氏は、きっぱりと言った。
「天気のいい日に人を教室に閉じこめて、説教するなんて、最高の犯罪ですよ」
「あの……僕の知り合いに大学の講師がいるんですが」
 僕は口をはさんだ。
「何を教えていらっしゃるのですか?」
「西洋美術史です」
「美術は語るものではありません。盗むものです」
 怒る気もしない。
「カメラマンさん、いい写真、撮れた?」
「ええ、撮らせてもらいました。でも、お茶をいただいたことのほうが、うれしいですね」
「それはそうですよ」
 泥棒氏が言った。
「この庭が、箱とすれば、金魚さんが宝物なんですから」「それじゃやっぱり、ルパン三世じゃない」
「一度、対決してみないといけませんね。どっちが正しい泥棒か」
「何か、大きなものを、盗んだことがある? モナリザとか」
「今、初夏の朝のふんいきというやつを、盗んでいます。これは大きくありませんか?」「そうね。でも、お茶だけでは、まだまだだと思う」
「そうでしょうか」
「こういう日は、こうしないと、本当にふんいきを盗んだことにはならないよ」
 金魚は、雨に濡れた草の上に寝ころんだ。
「パーカーが汚れますよ」
 つい、僕は注意した。
「だから、いいんじゃないの。泥棒さん、できる?」
「もちろん」
 泥棒氏も、ジャケットのまま、そこへ転がった。
「なるほど。草の匂いがしますね」
「でしょう? これが、今日の宝物。――カメラマンさんは、やらないの?」
 こういうとき、僕はなんだか臆病のような気持ちになる。
「いいんです。僕は、カメラを通して、ものを体験するんです。だから、自分でやってみなくてもいいんですよ」
「つまんないの。ねえ」
「写真は、撮らせてあげませんよ。指名手配されると、困りますからね」
 ……。
 つまり今、僕は仲間はずれにされているのだが、それはそれで悪くない。見ているだけで、僕は同じふんいきを味わうことができる。
「空が青いねえ」
「樹に切りとられて、わずかしか見えないから、かえって青く見えるんですよ」
 僕は、樹の間に見える空にカメラを向けて、シャッターを切った。この写真を見るたびに、僕は今日のことを思い出すだろう。奇妙な二人の会話も。
 写真というのは、いつも直接にものをとらえるだけではないのだ。
 泥棒氏が立ち上がった。
「さて、じゅうぶんおもてなしもいただきましたし、そろそろおいとましましょうか」
「また、来てくれる?」
 寝ころがったままで、金魚がきいた。
「そうですねえ」
 泥棒氏は、首をかしげて、
「宝物の石もできたことですから、それを盗りにこなければいけませんね。今度は、夏のさかりのふんいきも、いただきにうかがいましょう」
「じゃあ、お茶を冷やしておくね」
「中国の?」
「うん。カメラマンさんも、来てね」
 それでは、と僕らは、庭を出た。
 金魚は、いつまでも僕らを見送っていた。
 庭の外は、雨を吸って重苦しい、つまらない家並みが並んでいた。
「僕は写真が撮れたけれど、あなたは何も盗めませんでしたね」
「私は上品な泥棒ですからね」
 泥棒氏は、すまして言った。
「泥棒も、上品になると、人からお招きを受けることがあるのです。今日は、金魚さんのお茶会に招かれた。それでいいではありませんか。それに、言いましたでしょう? 雨あがりの初夏の朝のふんいきを、今日はいただいたのですよ」
 僕はうなずいた。
 そして、思いついて、言ってみた。
「今度、僕のうちにも来て下さいませんか」
「お招きですか? 盗みのほうですか?」
「どっちでもかまいません」
「そうですねえ」
 泥棒氏は、首をかしげた。
「では、いちばんいい写真を、どこかへ隠しておいてください。それを盗みにうかがいましょう」
「どこか、って――」
 そのとき、僕は、今日はじめて気のきいたセリフというやつを思いついた。
「写真を隠すには、写真の中ですね」
「そうです」
 泥棒氏は、微笑んだ。
「あなたも、盗まれ方を、ひとつ覚えたようですね」

 それから僕は、金魚の家を訪ねていない。
 約束はしたのだけれど……。
 あの家が、あそこにあると思うだけで、いい気持ちになれる。それを壊したくないと思うのだ。
 だが――。
 泥棒氏には、この前、電車の中でばったり会った。
 きちんとした黒の礼服を着て、髪を分け、白いネクタイを締めていた。
「お久しぶりです。お祝い事ですか?」
「結婚式です」
「お友だちか誰かの?」
 すると泥棒氏は、にっこり笑った。
「何を言ってるんです。ご祝儀泥棒ですよ」

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