1:水に流した音楽

 テラスへ上がったときから、林のことは、気になっていた。
 人が二、三人しか立てない、屋上の小さな石のテラスだ。両わきには、正体のしれない怪物の石像が、強い陽ざしを浴びて、うずくまっている。中庭と、それを囲む校舎を守っているのだろうが、僕には、校舎の後ろの林へ視線を放っているように見えた。
 林は、今がさかりの草木が、ジャングルのように伸び放題になって、陰を作っているいる。そのうっそうとしたようすが、この古い校舎とよく合っていた。同じ時間を刻んできた、校舎の一部という感じだ。
 林に向けてシャッターを切り、僕は顔から噴き出してくる汗をふいた。
 ――僕はかけ出しのカメラマンだ。人物はあまり撮らない。建物、とくに古い洋館を撮るのが好きだ。といっても、建築の勉強をしたわけではなく、いつのまにか好きになっていたというだけのことだ。
 その日は、東京の郊外にある私立大学の建物が取り壊されて新しい建物になるというので、古い建物を撮っておこうという、雑誌の仕事で出かけてきたのだった。
 来てみると、さすがに名のある建築家が建てただけあって、細かいところまで凝ったものだった。たとえばトイレの床にある排水口のフタが、青銅の美しい透かし彫りになっているとか、くすんだ金色のドアチェック――ドアの上についていて、ドアを自動的に閉めるしかけのことだ――の、ちょっと変わったデザインとか。
 そして、このテラス。窓を乗り越えなければ出られないようになっている。一見、むだなもののようだが、建物を美しく飾り、守っているのだった。
 そのテラスから見える林も、校舎の一部として、長い間に育まれてきた、景色の思い、とでもいうものを守っていた。
「あの林は――」
 僕が指をさすと、案内の事務職員が答えた。
「ああ、裏の玉川上水から続く、ヤブですよ。昔から手を入れていないんで、あんなになってしまって。もちろん新校舎ができたら、あそこも切り払って、明るいキャンパスにしようと思っていますがね」
「そうですか……」
 僕はあいまいにうなずいた。
 残念だけれど、手つかずの林は、確かに新しい校舎には似合わないだろう。
 この建物も林も、もうじきなくなってしまう。残るのは、僕の写真だけだ。
(さようなら)
 心の中で、僕はつぶやいた。
 ここにたくわえられた景色の思いを、うまくとらえることはできただろうか。
「下へ行きませんか。ここは暑くてしょうがない」
 職員が言った。
「新校舎は全館空調が入りますから、こんな思いはしなくてすみますよ」
 じゃあ、この人には、夏休みの古い校舎を歩くときにふと感じるひんやりとした涼しさは、分からないんだな――カメラケースをかつぎ上げて、僕はそう思った。

 大学からの帰り、僕は気が向いて、玉川上水のほとりを歩いてみることにした。大学の裏の林が、上水から続いているという職員のことばを思い出したせいだ。
 なるほど、水路に沿った道は、樹がのびほうだいに伸びて、狭い歩道の上に覆いかぶさっている。昼間だと言うのに、あたりは薄暗い。
 世界じゅうのセミが一度に鳴きだしたような午後で、それがかえってあたりを静かに感じさせた。見ると、道の外の街並みは、道も、新築の団地もガードレールも、焼けるような白い陽ざしに光っている。
 土手と水路との境には柵があって、「立ち入らないように」書かれていた。
 日かげの橋の上に立って、流れる水を眺めながら、僕は額の汗をふいた。
 狭い橋なのに、後ろをバイクがずいぶんなスピードで渡って行く。引っかからないように、僕は肩に提げたアルミのカメラケースを押さえた。
 水路は、まっすぐに続いている。両脇から樹々が水の上に枝葉を伸ばして、緑のトンネルのように見える。すてきな眺めだ。
 僕はカメラを構えてみた。
(この高さだと、撮れないな)
 緑を映す水面は、橋のずっと下のほうにあって、そのまっすぐに伸びているようすが、うまく構図に収まってくれない。
 下へおりてみようか。どうせ、一日でいちばん暑い時間で、人もたいして通らない。とがめられることもないだろう。
 ふと、セミの声がとぎれた。
 そこに、かすかな音楽が聞こえた。
 僕は、橋の下を見おろした。
 橋のたもとを降りた、土手の草むらの中に、女の子がひとり、しゃがみこんでいる。音楽は、そこから聞こえてくるようだ。
 僕は、橋から道のほうへ回って、柵を乗り越え、少女のそばへおりてみた。
 薄いグリーンのワンピースを着て、年の頃は十二、三。少女は川の縁にしゃがみこんでいた。なんだか、やせこけて、こわれそうな体つきだった。
 よく見ると、彼女が手にしているのは、オルゴールの部品らしかった。細かく切れ目の入った鉄の板と、それをはじいて音を出すための、突起のついた円筒。
 円筒を回す小さなハンドルを、骨ばった手で、少女はゆっくり動かしていた。ぽつぽつと、小さな音がきこえている。
「オルゴールかい?」
 僕は声をかけた。
 ことわっておくが、僕が若い女の子にすぐ声をかけるタイプだとは思わないでほしい。ただ、なんだかこの風景の中に、少女のふんいきはぴったりと合っていて、しぜんと言葉が出てしまったのだった。
 振り向いた少女は、当たり前だというふうに答えた。
「シリンダっていうんだよ。これを箱につけたら、オルゴールになるの」
 そうか。オルゴールは、シリンダの鳴らす音が、箱に共鳴して、あんなに大きく聞こえるのだ。
「どうして箱をつけないんだい?」
「箱なんか、いらないの」
 少女は答えた。
「もっとよく聞こえる方法を、知っているから」
 彼女は、シリンダの台座の端を、白い歯でくわえて、ハンドルを回した。
 聞いている僕には、やはりかすかな音しか聞こえなかった。
「やってみる?」
 彼女はシリンダを、僕に渡してよこした。
 そこで、僕もシリンダの台座を歯でくわえて、小さなハンドルを回してみた。
 驚くほど大きな音が、頭蓋骨に共鳴して、頭の中いっぱいに鳴り響いた。曲は『戦場のメリークリスマス』。オルゴールの音色と、よく合っていた。
「びっくりしたでしょう」
「ああ、すごいね」
「おじさんは、カメラマンなんだね」
 どうして、と聞きかけて、僕はカメラケースと三脚を持っているのに気づいた。
 それにしても、おじさんはないだろう。僕はまだ、三十二だ。
「君を、撮ってもいいかな」
 僕はきいた。
 少女は眉をひそめて、僕を見た。
「私なんか撮って、どうするの?」
「どうもしないよ。気に入ったら撮る。それだけのことさ。どっかへ出したいわけでも、何に使うつもりでもないよ。ただ、撮りたいんだ」
「ふうん……」
 少女は首をかしげた。
「まあ、いいや。――どうぞ」
 そこで僕はカメラをかまえた。
 少女は硬い表情で、こちらを向いている。
「笑ってごらん」
「おかしくもないのに、笑えない」
 それはそうだ。
 人物専門のカメラマンだったら、こういうとき、うまく相手の表情を操る方法を知っているのだろうが、僕はそういうのが苦手だった。
「じゃあ、笑わなくてもいいよ。どこでもいいから、君が見たい方向を、ようく見てごらん」
 すると少女は僕の肩ごしに、ずっと遠くを、何かを捜すように見つめた。
 僕はシャッターを押した。
「ありがとう」
 僕は言って、ファインダーから目を離した。
「いつも、ここにいるの?」
「うん。今、夏休みだから、毎日来るよ。どうして?」
「写真ができたら、持って来るからさ」
 少女は首を振った。
「いらない。自分の顔なんか、見てもつまらないもん」
「じゃあ、またシリンダの音を聞きに来るよ。それならいいかな」
 僕は実のところ、少女がなんとなく気に入りはじめていたのだった。
「好きにすれば?」
 ちょっと無愛想に言うと、少女はまた川面に向かって、シリンダを回し始めた。

 都心に近い自分のマンションで、僕は、少女のフィルムを焼き付けた。
 建物を撮ったフィルムはカラーなので、現像所に回している。自分でネガを紙に焼き付けるのは、モノクロームの、自分のための写真だけだった。
 暗室を、暗いオレンジの光が照らしている。定着液を張った浅い水槽の中で、印画紙に映像が浮かび上がってくる。この瞬間が、いちばん好きだ。
 少女の顔が、しだいに形になってきた。膝の上に、自分だけの宝物のように、シリンダを両手でだいじに持っている。背後には、夏のさかりの勢いのいい草がシャープに映っている。
 いい写真だ、と僕は自分で思った。
 はっきり言って、少女は、そんなにかわいいわけではなかった。顔の輪郭がやせこけていて、あまり健康ではなさそうに見える。
 それでもその表情は、僕を引きつけるのにじゅうぶんだった。
 きっと、彼女の中にある何かを、とらえることができたのだ。
 それは、視線に現われていた。まっすぐに、何かを求めるようなまなざし。そこに、ふだんの少女の姿かたちからは分からないだろう、とても強い思いがこもっているように見えた。
 僕は満足した。

 二、三日たって、時刻も同じころ、僕はまた、玉川上水を訪れた。
 やはり少女は、橋のたもとで、シリンダを回していた。退屈そうではなく、機械的にでもなく、じっと、魚を待つ釣り人のようにゆっくりと。
 僕は柵のこっちから、声をかけた。
「写真、できたよ」
 振り向いた少女は、驚いたような顔をした。
「ずいぶん、早いんだね」
「あっという間さ。パネルにしてある。ほらね――あげるよ」
 僕は、抱えていたモノクロームのパネルを見せた。
「いらない」
 少女は首を振った。
「うちに飾る場所なんかないし、自分の顔なんか見たくないもの。お葬式の写真みたいじゃない」
「そうか……残念だな。僕にしては、傑作なんだけど」
 そう言うと、少女は初めて笑顔を見せた。
「ね、おじさんが持っていて。どこかに自分がいる、って思うほうが、楽しいから」
「分かった」
 僕はうなずいて、柵を越え、少女の隣に座った。
「ここはいい場所だね」
 そう、僕はつぶやいた。
「こんなに緑があって、水辺に近くて。何度でも来たくなるような所だ」
 それは実感だった。
 仕事のつごうもあるので、僕は都内に住んでいる。広さも、かけ出しのカメラマンにしては、ちょっとぜいたくなほどのマンションだ。
 けれど、ときおり、広い部屋の中に座っていても、バルコニーへの窓を開けてさえ、息苦しさを感じることがある。マンションの建物に――というより東京の街の中には、何かが足りないようなのだ。
 きっと僕は、心のどこかで、こんな風景を望んでいたのだろう。
「私には分かんない」
 ハンドルを回しながら、少女は言った。
「ここで生まれて育って、他のところに住んだこと、ないから」
「でも、休みの日なんかは、出かけるだろう? 吉祥寺とか、新宿とか」
「あんまり行ったこと、ない。なんだか、人がいっぱいいて、こわいみたいな気がして」
「友だちと行けばいいじゃないか」
「そんなの、いないよ」
 少女は、つまらなそうに答えた。
「でも、ひとりでどこへでも行けるようになりたいな。東京じゅうを回ってみたいの。それができないから、まだ自分には無理だから、こうしているんだけれど」
「きっと、行けるようになるよ。ふつうの女の子は、みんなそうしているんだからさ」
「でも私、ふつうじゃないって思う。みんな、そう言うよ」
 少女はシリンダを回す手を止めて、首をかしげた。
「ねえ、どうして私なんか撮ったの? 私、かわいくないよ」
「そんなことないさ」
「ううん、自分で知ってるよ。かわいくない、っていうこと」
「でも、写真には、よく撮れたよ」
「ほんと? どうしてかなあ」
「そうだなあ――写真は、恋なんだよ」
 僕は少しかっこをつけて答えた。
「報われない、永遠の恋さ。僕が見ているものは、レンズの中にだけ存在するんだ。僕は建物を撮るのが好きなんだけど、建物に向かって、『君が好きだ』ってどんなに言っても、建物は答えてくれない。それに、僕が思いを寄せた建物たちは、みんなそのうちになくなってしまう。取り壊されて、そこには真新しいビルが建ったり、駐車場になったり……結局、残るのは、写真だけだ。写真にこめた、僕の思いだけなんだよ。それだけが、時間を越えて残っていくんだ。建物と、そのまわりの景色が持っていた思いを、引きついでいくんだよ」
「それじゃ、おじさん、私にも恋してくれたの?」
「っていうより、君の中に見えた何かにね」
「はっきり言うなあ」
 少女はすこし、口をとがらせて、
「でも、じゃあきっと、私が考えてることが写ったんだね」
「たぶんね。でも、本当のことは分からない。君の思いはなんだろう。どうして君は、ここでこんなことをしているの?」
「この音を、伝えたいの。東京じゅう、全部に」
「音を?」
 少女はうなずいた。
「去年の夏、この水路のほとりで、ある人が、私にシリンダの聞きかたを教えてくれたの。おんなじように、歯でかんで。とってもおもしろかったし、うれしかった。でも、その人は、どこかへ行ってしまったの。東京の中の、どこかへ。だから、私が今度は音を伝えるの。流れる水にのって、この音は、東京じゅうに聞こえるはずなの。きっと、その人にも届くだろう、って――」
「どこへ行ったか、知らないのかい?」
「……うん……」
 少女が哀しそうな顔をしたので、僕はそれ以上はきかなかった。
 僕は、他人のプライバシーには、あまり関わらないことにしている。
 だから、どんな相手なのか、どうしてこんな方法しかとれないのかも、尋ねはしなかった。
 そこには、何か物語があるのだろう。けれども、その全部を知る必要はない。知る権利も、たぶん僕にはないだろう。
 ただ、今ここに、ひとつの深い思いを抱いた少女がいる。思いを遠くへ届けようとしている。
 その場にめぐり会えたことだけで、僕はいい気持ちになれた。
 ――僕らはしばらく黙って、川面を見つめていた。
 水は静かに、波も立てずに、流れていく。
「この水は、どこまで行くんだろう」
「上水だもの。東京の街の中へ入っていって、水道になって、細い管を通って、あっちこっちの家に届くんだよ。あの人にも、きっと伝わる。私は、そう思っているの」
 少女は、夢見るよりも強い目をして、言った。

 川に詳しい友だちに会う機会があったので、僕は玉川上水のことを聞いてみた。
「ああ。玉川上水って言うけれど、あそこを流れているのは、下水を処理した水だよ。水道用の水は、小河内ダムから多摩湖へ回っているからね。あの水路は、一時は完全に干上がっていたんだが、今はその処理水を流して、景観を保とうとしているんだ。たしか、高井戸のあたりで、神田川と合流しているはずだね」
「で、その先は?」
「ちょうど柳橋のところで、隅田川と合流するんだ。その先は海だよ」
 それなら、彼女の願いはかなうまい。あの水は、街の中へ網の目のように広がる上水路へ続くのではなく、川を乗り換えながら、海へ流されてしまうのだ。
 けれど、その事実を、僕は彼女に伝える気にはなれなかった。
 事実より、夢を選ぶことにした。
 いい写真を撮らせてくれたことへの、お礼のつもりだった。

 僕は、玉川上水へ行った。
 少女は、やはり同じ場所にいた。
「おじさんと、デートしてくれないかな」
 『おじさん』という言葉に抵抗を感じながら、僕は言った。なんといっても、僕は三十二なのだ。悪あがきするようだが、まだ二十代のほうに近いのだ。
「どこへ? 街だったら、行きたくない」
「小河内ダム。この上水をさかのぼった、水源だよ」
 それは今では、違うと分かってしまっていたが、僕はうそをつき通すことにした。
 悪いうそではないと思ったから。
「うん。行く」
 少女は、目を輝かせた。
 そこで僕らは電車に乗って、奥多摩の山を上り、小河内ダムへと向かった。
 
 小河内ダムは、大きな人造の湖だ。水面は、青緑色に静まりかえっている。
 コンクリートの長い堤の上には、観光客がたくさんいた。山の中で日ざしが強いので、ほとんどの人が、麦わら帽子をかぶっていた。
 湖面をながめる少女は、帽子もなく、顔と、半袖のワンピースからむきだしになった素肌を陽の光にさらして、水に見入っていた。
 やがて、言った。
「この底に、村はあるのかなあ」
「ああ――」
 僕は答えた。
「何年か前に、雨が降らなくて底まで渇れてしまったとき、道や畑の跡が見えたそうだよ。ただ、家はないよ。ダムを作るときに、みんな取り壊してしまうんだ。そうしないと、補償金が出ないからなんだってさ」
「この水の中に、まだ、村があるって思いたい……」
 彼女はつぶやいた。
「そこでオルゴールを鳴らしたら、水を伝わって東京じゅうに聞こえる。あの人にも届くね――きっと」
 少女は湖面に、自分の願いを映しているようだった。
 その横顔に、僕は見とれていた。
 やはり、思いを抱いた人間の顔は、そのぶんきれいだと思う。
 少女は、ワンピースのポケットからシリンダを取り出し、湖面へ身を乗り出すようにして、ハンドルを回した。
 とても小さな、とても美しい音がした。

 陽ざしのさかんな日を選んで、僕はまた、玉川上水路へと向かった。
 まだ夏休みは終わっていない。もう一度、あの子に会えるのではないかと、期待していた。会ってどうしようというのでもないけれど、何か話し足りないような気がしてしようがなかったのだ。
 こんな気持ちになるのは、久しぶりだ。
 ――僕は少しばかり、うかれすぎていたかもしれない。
 橋の下に、彼女はいなかった。
 その代わり、橋の渡り口の、名前を書いた親柱に添って、白い菊の花が二、三本と、スナック菓子の箱などが供えてあった。親柱には、たぶん、バイクの強くこすった跡がついていた。
 僕は、何が起こったのか、直感した。
 ――彼女は、もうここにはいない。
 いくら待っても、来はしないのだ。
 ふっと僕は、彼女の名前も、どこに住んでいるのかも聞かなかったことに、気づいた。
 激しい感情が、僕を包んだ。
 とぎれた音、届かない思いだけを残して、少女は消えてしまったのだ。

 部屋へ帰った僕は、ベッドに寝ころんで、壁にかけたパネルに目をやった。
 少女は遠い目をして、カメラの向こうにあるどこか、誰かのいる場所を、見つめている。その視線は、ここにとらえられて、残っている。
 でも、これでは、何かが足りない。
 彼女のひそかな思いを、僕だけのものにして、しまいこんでおくのでは、いけないような気がした。

 工作の得意な友人に、僕はあるものを作ってくれるように頼んだ。
「そんなもの、何に使うんだい?」
 へんな顔をしたが、彼は僕が注文した通りのものを作ってくれた。
 それを持って、僕は小河内ダムへ行った。
 音がよく響くように、厚い鉄板でできた箱。水に沈むよう、おもりもついている。
 スイッチを入れるとシリンダが回り、オルゴールは『戦場のメリークリスマス』を演奏しはじめた。
 防水になっているし、大きな電池が仕込んであるから、しばらくの間は鳴り続けるだろう。
 オルゴールの箱を、僕はできるだけそっと、水面へ沈めた。
 ぱしゃっ、としぶきを上げて、箱はすぐに見えなくなった。
 耳をすましてみる。
 セミの声や、鳥のさえずりに混じって、かすかにオルゴールの音が聞こえるような気がした。
 水の中の、音楽。
 箱入りの電気じかけではあるけれど、少しは彼女の思いに近づくことができたはずだ。このダムの水は、水道のための水源だ。東京じゅうに張りめぐらされた上水道の網につながっているのだから。
 僕は目を閉じた。
 ……湖底に眠る、昔と変わらない村。カヤぶきの家が並び、畑には緑の葉が並んでいる。水を通して、陽の光が、月光のように青くゆらめいている。その光を浴びた少女が、シリンダを回している。ゆっくりと、ゆっくりと、いつかそのかなでる音が、遠い人の耳に届くまで……。
 目を開いてみると、白い太陽の光の下で、濃い緑の山に囲まれて、湖は静かに波立っていた。

 それからというもの、真夜中になると、僕はときどき台所へ行って、水道の蛇口に耳を当ててみる。
 オルゴールが聞こえるのではないかと思いながら。
 もちろん、何の音もしない。
 けれども、ときどき、静寂の中に、音楽のようなものが、とてもかすかに聞こえるような気がする。
 マンションは、それぞれの部屋が水道管でつながっているから、他の部屋の住人がかけたCDかなんかの音が伝わってくるのかも知れない。
 だが、僕は信じたい。
 彼女が音にこめたもの、僕が引き継いだ彼女のひそかな思いが、この街を走る水路の網の中で生き続けて、やがては彼女の捜していた「誰か」に伝わることを。
 その時まで、シリンダは回り続け、音も、思いもまためぐり続けるのだ。
                              1991・9


解題:

正真正銘、初めて書いた短篇です。

舞台は小平辺りの玉川上水と、津田塾大学です。津田は女子大ですが、学園祭のとき、中をのぞいてきました。

オルゴールは、当時、国分寺の丸井かどこかで買ったもので、実際、歯で噛んで馴らすと、驚くほど大きな音が聴こえます。

当時は、仕事がなかったので、「コサージュ」の一作ずつには、長い時間をかけています。なので、文章が稚拙だとすれば、それが当時の実力と言うことでしょう。

なお、有料ノートの件ですが、読者の方のご意見を参考に、3作で100円にしようと思ったのですが、その仕組みがないようなので、3作ごとに一作、100円にしました。こういうお話が好きな方、あるいはまあ少しは作者の口に糊してやろうか、と思われた方は、有料のノートを買ってやって下さい。

よろしくお願いいたします。

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