7:待つひと

 秋も深まってからだと思うけれど、はっきりとした日付けは覚えていない。とにかくその日、僕は、東京の西のはずれにある、私立高校を訪ねた。
 そのころ僕がしていた仕事は、最近売れ出したある小説家の雑誌連載に、写真をつけるというものだった。毎回、建物をモチーフにした読み切りの短編で、イメージに合う場所を見つけるのは、なかなかたいへんだったが、僕はいちおう建築物専門のカメラマンだから、それは楽しみでもあった。
 その時の注文は図書館の書庫、それもできるだけ古びた所、ということだった。都内を回ってみたが、これがなかなか見つからない。近所の公共図書館は、みな新築だし、たまによさそうな建物があっても、書庫の中を見せてはもらえなかった。ストロボをたくとなると、なおさら断わられる。本がいたむ、というのだ。そんなこともないと思うのだが――。
 考えた末に思い当たったのが、森本だった。
 彼とは小学校・中学と同級だったのだが、いわゆる本の虫で、授業中も教科書で隠して小説を読んでいた。僕は窓ぎわの席で、やはりこっそりと、トイカメラを校庭に向けていた。おもちゃだから、しばらく固定しておかないと映らないのだ。……お互いに、そんなふうだったからか、みょうに気が合っていて、今でも年賀状をやりとりしている。
 その森本が、自分の出た高校に、図書館の司書教諭として舞い戻っていることを思いだしたので、依頼の手紙を出してみた。すぐに、オーケーの返事が来た。近々改築するので、早めに撮りに来いとのことだった。
 それで、出かけたわけだ。

 校門を入ると正面に、総ガラス張りのモダンな玄関が見えた。げた箱から向こう側の壁まで透けて見える。その玄関へと続くアスファルトの小道には、両わきに桜の樹が並んでいた。もう葉も落ちたこずえを、風が低い口笛のような音を立てて吹き抜けている。
 まだ授業中なのか、人けはなかったが、ひとり、桜の一本に寄りそっている女生徒がいた。小柄で幼く、ちょっと中学生のようにも見えた。髪を、男の子のようなショートカットにしている。
 女生徒は、桜の幹に耳を当てて、じっと首を傾けていた。
「ねえ、君。何をしているの?」
 声をかけると、女生徒はこちらを見た。あどけない顔には少し不釣り合いな鋭い視線が、僕へまっすぐにとびこんできた。
「声を、きいているんです」
「……樹の、かい?」
「そうです。いまは秋だから、桜はねむってしまったみたいに見えるけれど、ひとりごとを言っています」
「どんなことを?」
「この樹は、さびしがっています。そばに、だれもいないから」
「君がいるじゃないか」
「私では、だめなんです。私は、桜の樹とはそんなになかよくないから」
 まるでなぞなぞのような答えだ。
 そこで女生徒は、ふっとわれに返ったようすで、きいてきた。
「学校に、用事ですか」
「ああ……司書の森本先生に、会いにきたんだ。事務室はどこ?」
「森本先生なら――」
 女生徒は、校舎の向こうを指さした。
「あの角を曲がっていくと、図書館があります。先生は司書室にいます。だれかにことわらなくても、そのまま行って、だいじょうぶです。そういうことに、なっているんです」 どうやら僕の旧友は、学校の中でちょっと変わった地位にあるらしい。
「ありがとう」
 歩きだして振り向くと、女生徒はまた、桜の幹に耳を当てていた。
「君、名前は?」
 きいてみると、
「水淵季里といいます」
 女生徒は答えた。

「まあ、コーヒーでもどうだい」
 森本が言った。
「インスタントじゃないぞ。知り合いの喫茶店から分けてもらっているんだ。何なら酒だってある」
「酒は遠慮しておくよ。コーヒーでいい」
 言いながら、司書室を見回すと、そこは森本の生活の場所になっているようだった。流し台に放り出されたナベにはカレーの残りがこびりついているし、その脇には、拾ってきたとしか思えない、小型の冷蔵庫がある。奥はたたみ敷きの小部屋になっていて、ふとんが敷いてあった。
「ここには、しょっちゅう泊まるのかい?」
「そうだな。家に戻ることのほうが少ないよ」
「学校が、よく文句を言わないね」
「ま、いろいろ事情もあるんだ。ほとんど俺ひとりで本のめんどうを見なくちゃいけないが、おかげで気楽にさせてもらってるよ」
 森本は、椅子にくつろいで、
「それで、書庫を撮るんだったな。どうせ閉架式で、人は入れないから、好きなだけ見てくれてかまわないよ」
「ストロボをたくんだけれど」
「どうぞ。火事にならなければ、問題はないさ」
「助かるよ」
 僕が心から言うと、森本は、軽いため息をついた。
「最後の機会だからね。改築してしまうと、どうせ近代的かつ合理的な建物になるんだろうし、あんな凝ったデザインにはならないさ」
 彼が見上げた天井には、四隅の柱頭に植物を形どった彫刻がほどこされ、さらにフクロウの彫像が乗っている。ただ、中央のあたりにベニヤ板が打ちつけてあった。穴が空いたらしい。
「みごとな彫刻だね。保存はできないのかい?」
「保存も何も、土台だって壁だってしっかりしたもんだし、使えなくなったわけじゃないさ。だが、なんでも新しくしたがる連中はいるもんでね。『最新の設備こそ、子どもを育てる』って言うんだ。ちょうど、事故で天井に穴が空いたのを口実に、建て替えるってことに決められちまった。移転する先もないんでね」
「残念だな。……先に、建物を見て回っていいかな。なんか、写真に残したいものがいろいろありそうだ」
「こっちからお願いしたいくらいだよ」
 それで僕は、図書館の中を歩いてみた。
 廊下の隅の彫刻や、重そうな木のドアにはめこまれたダイヤモンド・ガラス、閲覧室のどっしりと重い椅子……ひとつずつがよく考えられ、ていねいに作られたものだ。それらが、ひとつひとつ激しく自己主張するというのではなく、建物の中で、しっくりと調和している。
 図書館に住みついた森本の気持ちが、僕にもよく分かった。

 そうしているうちに、陽も傾きかけて来たので、そろそろ仕事にかかることにした。
 書庫の中は、飾りけはないが、落ちついたふんいきだった。本のかびくさいような匂いはせず、しんと静止した空気が、すずしく、乾いていた。外の音は、いっさい聞こえない。
 天井まである本棚の間を歩きながら、どの辺を撮ろうかと考えていた。
 かなり奥まで入ってみた。そこにセーラー服の少女がいて、本の背をながめていた。
 ――思わずカメラをかまえて、シャッターを切った。そうしたくなるほど、きれいな子だった。この、外の世界とは切り離された空間に、しっくりととけ込んでいた。
 ストロボの光があたっても、彼女はこちらを見もせず、本棚に目を走らせている。
 僕は、しずかに声をかけた。
「……きみ。きみを撮っても、よかったかな」
 彼女は、聞こえないのか、答えなかった。
「図書委員なの?」
「――」
「僕はカメラマンなんだ。きみを見たら、撮りたくなってね。いけなかったかな」
 何を言っても、彼女は知らん顔で、あいかわらず本を捜しているようだ。
 無視されるのは、あまり気分がよくなかったが、じゃまをしてはいけないようなふんいきだったので、とりあえずその場を離れた。

 製本された雑誌のきれいに並んだ棚や、高い所の本を取るための低い脚立といった、こまごまとしたものを撮り、また司書室に戻ってくると、森本がコーヒーをいれて待っていた。
「どうだい? 少しは役に立ったかな」
「ああ、とてもね。書庫っていうのは、足元に窓があるんだね。その光のぐあいがよかったよ」
「本に直接、光が当たらないようにしているのさ」
「なるほどね。そうだ――」
 僕は、深煎りのコーヒーを飲んで、
「あれは、図書委員かな。女の子がひとりいたんで、つい撮ってしまったけれど、使っていいかどうか聞いてみてくれないか。なんか、僕には口をきいてくれないんだよ」
「おかしいな。この時間には、誰もいないはずだが」
 森本はふしぎそうな顔をして、ようすを見に行った。
 まもなく、首をかしげながら帰ってきた。
「誰もいないぞ」
「見落としたんだろう」
「そんなことはないよ。だいたい、鍵は俺が持っているんだから。何年生だった? バッジの色は?」
「バッジなんか、してたっけな。セーラー服のえりは、えんじ色だったよ」
「セーラー服?」
 森本は一瞬きょとんとしていたが、やがて、ああ、と、うなずいた。
「また、出たのか」
「出た、って?」
「幽霊だよ」
 今度は、こっちが驚く番だった。
「俺も、二、三回、見たことがある」
 森本は、あたりまえのことのように言った。
「日本文学の棚の前で本を捜している、髪がこのぐらいの子だろう? セーラー服は、昔の制服なんだ。たぶん、ずっと前からいるんじゃないかと思うんだが」
「あれが、幽霊?」
「他にもいろいろ、出るよ。図書館だからね」
 説明になっていないじゃないか。
「俺が思うに――」
 森本は言った。
「本っていうのは、それぞれ一つの世界が閉じこめられたもんだ。それがこんなに集まっているんだから、おかしなものを引きつける磁場みたいなものができるんじゃないのかな。特に夜なんかはすごいもんだよ。彫刻のライオンが歩いてきたり、廊下が川になって水が流れたり……どうやら子どもらしい足音が走り回って、うるさくて眠れないこともあるんだが、まあ慣れてしまえば平気なもんだ。――しかし、昼間に出たとは珍しいな。君、霊感が強いんじゃないか?」
「そんな覚えはないね」
 僕は答えた。
 ばかばかしい話のような気はしたが、森本は、人をからかうような性格ではないし、こうも平然と言われると、信じないわけにもいかないような気がする。
「僕の声も姿も、向こうには通じないようだったよ」
「ふうん。一度、なぜ出るのかきいてみたほうがいいかもしれないな」
 森本は、あいかわらず大まじめに言った。
「もし、何かの理由で成仏できないでいるんだったら、かわいそうだからな。……しかし、どうするか……」
 そのとき、司書室のドアがノックされた。
「部室の鍵を借りにきました」
 声と共に入ってきたのは、さっき桜並木のところで会った、水淵季里という女生徒だった。僕の顔を見て、ぺこんと頭を下げた。見れば確かに、制服は黒のジャンパースカートだ。
「君、水淵と知り合いなのか?」
 森本がたずねた。
「さっき、ちょっと会っただけだよ」
「そうか。水淵なら、話せるかもしれないな」
「なんですか? 先生」
「いや、こいつが書庫で、幽霊に会ったというんだがね。君、ちょっと説明してくれ。水淵はだいじょうぶだ。そっちのほうには強いんだよ」
 そこで僕は、セーラー服の子について、話した。
 季里はじっと聞いていたが、
「ああ……あの子なら知っています」
 深くうなずいた。
「前に、見たことがあるの?」
「はい。会いました。でも、なにかだいじな用があるみたいだったから、話はしませんでした」
 この子も、かなり変わっている。
 けれど、その表情は、ごく真剣なものだった。少なくとも、この子は本気で信じこんでいる。桜の樹と話せるということも、幽霊のことも。
 だったら、まかせてみるしかない。
「きいてみてくれないか、あの子に」
 僕は言った。
「何をしているのか。僕とは、話してもらえないんだ」
「やってみます」
 季里は、うなずいた。

 書庫の中へ入った季里は、まっすぐに、日本文学の棚へと向かった。
 あの子は、まだ、そこにいた。
 季里は無造作に近寄り、声をかけた。
「なにをしているの?」
 すると幽霊は、こちらを向いた。
 口を動かしているのは見えたが、声は聞こえなかった。だが、季里はしきりにうなずいている。
「――そうだったの……ううん、じゃまをしに来たわけじゃないの。ただ、知りたいだけ。――ああ。そうなの。ありがとう、おしえてくれて」
 話し終わってこちらへ戻ってきた季里の顔は、少し青白くなっていた。
「だいじょうぶかい?」
 僕がきくと、こくんとうなずいた。
「ちょっと、くたびれただけです」
「司書室へ行こう」
 森本が眉をひそめた。
「やっぱり疲れるか。幽霊と話すのは」
「はい。でも、どうしてあそこにいるのかは、教えてくれました」
「分かった、分かった。とにかく、座ったほうがいい」
 森本は、季里を抱きかかえるようにして、書庫を出た。

「あの子は待っているんです。本が返ってくるのを」
 司書室の椅子に落ちついた季里は、大きなコップで水を飲みながら話した。水しか飲まないのだそうだ。
「どの本か、分かるか?」
 森本がきいた。
「『かじい・もとじろう・ぜんしゅう』ですって」
「梶井基次郎ね……」
 森本は、机の上に置いてあった引き出し状のカードボックスをめくって、
「昭和三十四年発行、全三巻か。確かに、欠本だ。昭和四十五年からゆくえ不明になっているな。誰かが持ち出したんだろう」
「あの子が図書委員だったとき――」
 季里は続けた。
「たのまれて、貸したんだそうです。そのころは、一冊ずつしか借りられなかったから、とくべつに。……だけど、本はかえってきませんでした。だから、まだ待っているんだそうです」
「約束を破られたから、っていうこと?」
 僕はきいた。
「それだけかな」
 森本が言う。
「その生徒と、あの子との間には、何かあったんじゃないか?」
「そこまでは、きけません」
 季里は、きっぱりと言った。
「死んだ人にだって、話したくないことはあります」
 そういうものかもしれない。
「とにかく、だ」
 森本が言った。
「そいつが本を返しに来なければ、あの子はあそこから離れられないっていうことか」
「そうだと思います」
「だが、あの書庫も、もうすぐ改築になるんだ。幽霊っていうのは、場所とか建物につくっていうが、新築の建物になったら、さぞいごこちが悪いだろう」
「そうしたら、あの人は、死にます」
 季里は答えた。
「死ぬ? 幽霊が?」
 僕にはよく分からなかった。
「幽霊には、いるところが必要なんです。思いをこめておける場所が。それがなくなったら、じぶんがそこにいる意味もなくなって、ぬけがら――幽霊の幽霊になってしまいます」
「それは……よくないね」
 僕は、いごこちの悪さを感じながら、言った。
 季里の話を、みんな信じていいのかどうか、分からなかったのだ。だが、季里は真剣だった。
「なんとかならないんですか? 先生。書庫の、あそこだけでも、残しておけないんですか」
「無理だな」
 森本は、首を振った。
「そんな話をしたところで、他の連中がきいてくれるとは思えない。俺たちだけだ、分かるのは」
「かわいそう……」
 季里は、下を向いて、ぽつんとつぶやいた。

 話をほんとうに信じる気になったのは、家へ帰って、写真を現像してからだ。
 セーラー服の女の子を撮ったはずの写真には、ただ本棚だけが映っていたのだ。
 考えたあげく僕は、この写真を使うことにした。
 ひょっとすると、誰かには見えないとも限らない。そうしたら、僕の見たものは、たしかに幽霊だったと分かるだろう。そう思った。

 出版社に写真を送って数日後――。
 小説家から、電話がきた。
『あの写真だけどね、モデルは誰です?』
 話したのは初めてだ。ていねいだが、自己主張の強そうな声で、僕はあまり好きになれそうになかった。
「――見えるんですか?」
『どういう意味?』
 そこで僕は、高校の図書館のこと、彼女が幽霊だと言われたこと、季里がきいた話の中身などを話した。
「信じないかもしれないけれど、ほんとうなんです」
 受話器の向こうで、小説家はしばらく黙っていた。
「あれが見えるということは、あなたも――」
『やめてくれ』
 小説家の声が、不きげんになった。
『たちの悪い、いたずらだな。確かに僕はあの高校の卒業生だよ。君はそれを知って、おかしな話をでっちあげたんじゃないか。何が目的なのかは知らないが、こういうことは、僕はきらいだね。写真は返すよ。君がそんなことをする人間だとは知らなかった。もう、悪ふざけは、やめてもらおう』
「いたずらじゃ、ありません。ほんとうに――」
 だが、電話は一方的に切れた。
 僕は、小説家があの高校の卒業生だなんて知らなかった。けれど、こうなってみると、彼が怒るのには、何か理由があるとしか思えない。
 ――ひょっとして、あの子が待っていたのは、彼だったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
 もしもそうだとしたら、本を返しに来てほしい。いや、会いに来るだけでもいい。そう思って、僕は手紙を出した。返事は来なかった。
 その後すぐに、僕はその連載からおろされた。
「写真のできに問題があるわけじゃないんですが、まあ、いろいろとありまして――」
 編集者はことばを濁したが、僕にはその理由が分かっていた。
 そして、小説家が、おそらくは無意識に、図書館の書庫を物語の舞台に選んだ理由も分かったような気がした。

 冬休みが来る前に、僕は何度か、図書館へ足を運んだ。改築工事が始まるまでに、撮っておきたい場所がたくさんあったからだ。
 森本は、いったん家へ帰るというので、荷物を片づけていたが、僕が小説家の話をすると、眉をしかめた。
「なんだか、いやな話だな」
「どうしたら、いいのかな……」
「来ないというんだから、しょうがないだろう。彼女のことは、なんとかするさ」
 森本には、何か考えがあるようだった。
「まだ、いるのかい?」
「ああ。工事が始まるのを悟ったのか、最近は昼間もしょっちゅう見かけるよ。会っていったらどうだ」
 僕は書庫へと行った。
 彼女はあいかわらず、日本文学の棚の前にいた。僕が近づいても、気づくようすはなかった。
 気のせいだろうか。本棚を見る彼女の目は、もっと遠いところを見ているようだった。悲しみも、さびしさも、そこには感じられず、ただ、じっと遠くを見つめている。
「いくら待っても、しかたがないんだよ」
 聞こえないとは知っていたが、僕は話しかけた。
「彼は、来ないんだ。これからも、ずっとね」
 もう何年、いや、何十年こうしていたのだろう。これからも待つのだろうか。けれども、その待つ場所さえ、なくなってしまうのだ。
 耐えられない気がした。どんな物語があるのかは知らないが、彼女の思いが永遠に報われないのだと思うと、やりきれなかった。
 僕はしばらく、息をひそめて、彼女の姿を見ていた。

 やがて、春になった。
 森本から手紙をもらって、僕はまた、高校へと足を運んだ。
 玄関前の桜はすっかり開いて、華やかに頭の上へと花をかぶせていた。

「どうだい。いいアイディアだろう」
 アルミサッシに変わった司書室の窓から外を見て、森本が言った。
 改築された図書館には、小さな中庭が作られていた。
 雑草が生えているその中に、一本だけ、桜の樹が植えられている。
 ここにも陽の光はさし、花をいっぱいにつけた枝が重たげにしなだれている。その下に、季里が、本を広げて座っていた。
「どうして、一本だけ?」
「気がつかないか。あそこはちょうど、あの子のいた場所なんだよ」
「ああ……」
 僕は、窓の脇のドアを開けて、季里のそばへと行った。
 顔をあげた季里は、柔らかくほほえんだ。
 僕は、彼女に並んで座った。
「静かだね」
 まわりを図書館の棟に囲まれた中庭は、とても静かだった。四角に切り取られた空だけが、ぽっかりと空いている。
「人を待つのには、いいところです」
「ああ。ここは、あの子のいた所だそうだね」
「そうです。今も、います」
 季里は手をのばし、桜の幹に触れた。
「この樹の中にいるんです。感じませんか?」
「残念だけど、分からないよ。どんなようす?」
「待っています。まだ、ずっと待っているんです」
「そうか……かわいそうに」
 僕はため息をついた。
 けれど、季里は首を振った。
「きっと、これでいいんです」
「どうして?」
「この人には、待つところが必要だったんです。でも、古い図書館がなくなったら、いるところがなくなってしまうでしょう。死んでしまった人は、かんたんにひっこすことはできないんです。だから、私と森本先生は相談して、桜を植えました。桜は、人の思いをおぼえていてくれる樹なんです」
 季里は、広げた本を読んだ。
「『桜の樹の下には死体が埋まっている』――これは、かえってこなかった本と同じものです。そう書いてあります。でも、ほんとうはちがうんです。桜が春に咲くのは、一本ずつの樹に、人の思いがやどっているからなんです。それは、一年のあいだじゅう、ねむっています。でも、春になると思いがかきたてられて、話しだすんです。だから、花がこんなに咲くんです」
「それで、きみは桜の見張り番をしているのかい?」
「そういうわけじゃないけれど、ここにいて、この樹にこめられた思いを感じていると、とてもおちつくんです」
「幽霊だから?」
「そうです、きっと」
 季里は、僕の目を見つめた。
「幽霊と、生きている人と、どこがちがうかわかりますか?」
「さあ……」
「生きている人は、心がどんどん変わっていきます」
 季里は言った。
「きのうときょう、きょうと、あした。一日ごとに変わっていって、とてもだいじなことだと思って心に決めていたことも、いつかまた流れて消えます。でも、幽霊には、あしたというものはありません。とても強い思いが、そのままいつまでも残っていくんです。――この人は、待つことだけを思っています。きっと、もう、どうして待つことにしたのかさえ、忘れているかもしれません。それでも、待とうとしているんです。それは、生きているうちにあったいろんなことを洗い流して、とてもきれいになっています。ただ、待ちつづけることだけ。それだけが、たいせつなことなんです。……私は、それを見ていたいんです」
「でも、きみも、いつかは変わるだろうね」
 僕は、そう言わないわけにはいかなかった。
 季里の、純粋な心を、すなおに受け止めるには、僕は歳をとりすぎたようだ。
「やがて君も高校を卒業する。自分の人生を歩き始めるんだ。そのときには、この樹にこめられた心を、思いだすこともなくなるかもしれない」
「――いいえ」
 季里は静かに言った。
「私は忘れません。ここに一本の桜があって、一つの思いが封じこめられていることを。――私、たぶん、あきらめが悪いんです。だから、いつも思いだして、いつでも帰ってきます。帰ってきて、いっしょに待ちます。たとえ、かなわない思いでも、それがここにあるんだ、って考えるだけで、なんだかとてもきれいな気持ちになれるんです。これからも、きっとそうだと思います」
 もしそうだとしたら――僕は心の中で思った。きみは、おとなにはなれないのかもしれない。けれどそれは、もしかしたら、すばらしいことなのかもしれない。
 僕らは簡単に、気づかないうちに歳をとってしまう。そうして、いろんなことが見えなくなってしまう。それは、しかたのないことだとしても、ひとりぐらい、こんな子がいてもいいじゃないか。
 ――頭の上で、鳥が鳴いた。
 風はなく、暖かな陽ざしの中で、花びらが少しずつ、舞い降りてくる。
「ここは、いい場所だね」
 僕は、つぶやいた。
 ひとつの思いを、静かに保ちつづけるのには、最高の場所だ。そして今は、――季里がいる。
 思いを見守る、ひとりの女の子がいる。
 僕は黙って、頭上の花を見上げた。
 うっすらと白い雲がかかって、空をごく淡い水色にしている。その中に、咲き匂う桜の花びらが重なり合っていた。
 幾度もめぐりくる春に、僕もまた、思い出すだろう。どうして桜の花が咲き誇るのか。そこには、どんな思いがこめられているのか。
「――ここは、いい場所だ」
 僕は、もう一度つぶやいた。
 季里は、わずかにうなずいた。
 風はなく、花びらがひらひらと少しずつ散っている。柔らかい陽ざしの中で、僕らはいつまでも、座っていた。

解題:

私のライフワークである水淵季里のシリーズから、スピンオフしたような形で書きました。シリーズは、単行本6冊あり、いずれも絶版ですが、Jコミ(http://www.j-comi.jp/)で、無料で閲覧できます(一部は紙の本で読めるサービスも、行なっています)。

しかし、この小説を書いた頃には、今になるまで書き続けるとは、思ってはいませんでした。業のようなものです。



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