6:オリフィスは歌う


『お前、本を一冊やる気はないか?』
 電話の向こうで、師匠が言った。
「僕が……ですか?」
 とまどいながら、僕はたずねた。
 師匠――と言っても、僕が勝手に先輩扱いして、ときどき仕事を手伝わせてもらっているだけだが――は、人物写真でけっこう売れている。そこに来た話なら、人物の写真集なんだろう。けれど僕は、建物を専門に撮っている。しかも、まだ表紙に名前の出るような大きな仕事はしたことがない。何かのまちがいだろう、と思った。
『まあ、基本的には人物なんだがね』
 師匠は答えた。
『風景とか建物をきれいに撮れるやつがほしい、って言うんだ。それならお前さんのほうが粘れるだろうし、そろそろ一つ、任せてもいい頃だと思ってな。それになあ……先方が、お前さんを指名してきたんだよ』
 僕を? それこそ冗談だ。
「どうしてでしょう」
『そんなことは、向こうへ聞けよ。で、どうする? 事務所に名前は置いてるが、お前さんは俺の子分ってわけじゃないんだから、断わっても、俺は困りゃしないんだがね』
「いえ、やります」
 反射的に、僕は答えていた。よほどのことがない限り、来た仕事はなんでも受けることにしている。なんでも撮れるようにと練習する意味もあるが、正直言って、名前も売りたいし、経済的なこともある。
『じゃ、あとはお前さんに任せるわ。とりあえず、顔合わせしてみてくれ』
 師匠は、先方の名前と、打ち合わせの日時、場所を手短かに言って、電話を切った。

 指定された場所は、六本木に近いレコーディングスタジオだった。相手は女性の作詞家だそうで、忙しいから仕事先で会おう、ということのようだ。まあ、こっちはひまだから、いつでもどこでもかまわない。メモ代わりの小型カメラをポケットにつっこんで、出かけた。
 十二月の初めとはいえ、もう、ダウンジャケットを着なければならない寒さだった。六本木の通りを埋める人たちも、首をすくめて歩いている。僕も、そんなふうにしていただろう。
 耳元で、男の声がした。
「山歩きするようなかっこうで、六本木、歩くんじゃねえよ」
 振り返ったが、人の波にのまれて、誰が声をかけたのかもう、分からなかった。
 冗談じゃない。自慢ではないが、こっちは六本木に首都高速ができた頃から歩き慣れているのだ。
 こういうことがあると、仕事がうまくいかないような気がする。
 通りから外れて、麻布のほうへ歩いていくと、今ふうに飾りたてた建物の並ぶ中に、小さな神社があった。僕は手を合わせて拝んだ。
 『きょうの仕事が、うまく行きますように』――。
 祈りでもしなければ、この、人でいっぱいの街の中で、生きていく気がしない。
 少し歩いて、坂を上ると、スタジオがあった。
 一階は広いロビーになっていて、喫茶コーナーを兼ねていた。録音の時間待ちなんかに使うのだろう。レコード会社の社員なのか、背広をきちんと着た人のとなりで、バンダナを額に巻いた革ジャンの男がコーヒーを飲んでいる。椅子にギターケースが立てかけてあった。
 体が冷えている。適当な所に座り、レモンティーを頼んで、ふと、これから会う相手との目印を決めておくのを忘れたのに気づいた。作詞家とは聞いていたが、顔は知らない。向こうも当然、僕の顔など知らないだろう。少しでも気づくかと思って、テーブルの上に、カメラを置いておいた。
 けれども、心配することはなかったのだ。
「――さん?」
 二階から降りて来た女性がためらいもなく声をかけてきて、僕の向かいに座った。
「どうも、お忙しい所、すみません」
 彼女はそう言って、名刺を出した。
「あ、すみません。僕、名刺を忘れてきて」
「連絡先は知っていますから――タバコ、喫ってもいいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
 僕が言うと、彼女はポケットから、無地の平たいブリキ缶を出し、一本つまんで、火をつけた。強い、タバコ本来の香りがする。かっこうをつけるために喫っているのではなく、生活の一部になっているのだろう。実に似合っていた。
 タバコをくわえた口元は、チェリーレッドの口紅だった。化粧が薄いので、唇が鮮やかに見える。髪はショートボブ、濃い赤のジャケットに、紫のタートルネック、黒いミニスカートという服装だ。どこから見ても、『業界の人』という感じだった。
「それで、仕事の話ですけれど」
 僕は、言った。
「どうして僕なんかに? まだ、かけ出しですから、そちらが思うような仕事ができるかどうかは分からないんですが」
「あなたの力は、よく知ってます。――ずっと昔から」
「えっ?」
 すると彼女は、フロアいっぱいに響くような声で笑い出したのだった。僕は、ぼうぜんとしていた。
「おかしい、ほんとに。……まだ、分からない?」
 僕はきょとんとしていただろう。
「私。――なの」
「……?」
 心の底からびっくりした。
「君が?」
「名刺は、ペンネーム。思い出してくれた?」
 思い出すも何も、彼女のことは、今もよく覚えている人はいた。ただ、あまりにも印象が変わっていたので、まるで気がつかなかったのだ。
「そうか。だから僕を知っていたんだ」
「ええ。詞のイメージを引き出すために、写真はよく見るんだけど、あなたの名前が出てるのがあって。それで、まだやってるんだなって分かったから、もう一回、いっしょに仕事がしたくなったの」
 僕はまだ、目の前の女性と、あの頃の彼女が重ならずにいた。
 十五年前の冬。僕らは映画を撮っていた――。

 高校二年の時だ。子どもの頃からカメラをいじっていた、というので、僕はできたばかりの映画研究会に勧誘された。学校には写真部がなかったので、まあ近いだろうと入ったのだが、8ミリカメラ――ビデオではない。映画の8ミリだ――などさわったこともなかった。しかたなく、自主映画の作り方、という本を読んで、カメラの扱いから映像の構成まで、即席で覚えた。
 とにかく監督がひとりで急に作ったクラブなので、かき集めてきた部員はほとんどしろうとで、ちょっと技術を覚えた僕が、相談役として、脚本までいっしょに作った。
 どうにか準備はできたのだが、かんじんの出演者がいない。ちょうど学園祭が近づいていて、演劇部なども忙しいので、人を借りてくることもできなかった。僕と監督は、それこそ廊下を歩いている生徒にも、かたっぱしから声をかけていた。もちろん、ほとんど断わられたが。
 そんなとき、監督が連れてきたのが、彼女だった。
 ……ひとめ見た瞬間、この子はだめだと僕は思った。文芸部の部員だそうだが、それにしては自己主張をしようというふんいきがまったくない。おとなしくて、骨格が見えそうなほど、やせていた。立っているのがふしぎなくらいだった。目は大きくてきれいだったが、いつも視線を伏せて、ぼそぼそとものを言うので、演技をつけるのも、セリフを言わせるのも無理なように思えた。
 監督がひどく気に入っていたので、彼女を主演にして撮影は始めたが、ぬけがらのように棒立ちになって、表情もなく小声でつぶやくだけだ。さすがの監督も、困ったようすだった。
「うまく行くまで、撮り直し、するしかないね」
 二日めぐらいに、監督が言った。
「そんな予算がある?」
 たしかその頃、8ミリフィルムは、三分二十秒で千五百円ぐらいだったと思う。単純に計算しても三十分の映画では一万円以上、実際には、ふつう三倍ぐらいのフィルムは使うから三万円を超える。正式なクラブではなく、活動費が出ていない映研としては、たいへんな出費だ。
「ちょっと、役について話し合ってみてくれないか。俺より、君のほうが適任だと思う」 監督は、僕に言った。
 責任のがれをしているとは思わなかった。監督は部長でもありプロデューサーでもあり、他の部員の教育や、エキストラ集め、映研を正式なクラブにするための運動など、いっさいの雑用をしなければならなかったのだ。それにある意味では、出演者のことは、カメラマンがいちばんよく知っているのかもしれない。
 そうはいっても、僕にうまい案があるわけでもなかった。とりあえず、彼女と話してみるぐらいしか、思いつかなかった。

 学校のそばの喫茶店に、僕は彼女を呼びだした。制服の彼女は、いつものように元気のないようすで、現われた。
「コーヒー、飲む?」
「紅茶を……」
 彼女は、小声で言った。
「映画――むずかしい?」
「……こういうの、初めてだから」
「でも、やる気はあったんでしょう?」
「監督が、どうしても、って言ったから、できるかもしれないって思って。でも、やっぱりだめみたい」
 話しているあいだにも、彼女はどんどん小さくなっていくようだった。
 僕は、話を変えた。
「もうすぐ学園祭でしょう。文芸部は部誌、出すんだよね。君も書いてるの?」
 彼女はかすかにうなずいた。
「小説?」
「詩を、少し……」
「今、持ってる?」
 たずねると、彼女は困ったようすで、知られるのがいやだというふうだった。
「声に出して読んだりしないから、ちょっとだけ、見せてくれないかな。そうすると、役のふんいきも、合わせられると思うんだ」
 僕がなおも言うと、彼女は恥ずかしそうに、カバンから薄緑のルーズリーフを一枚、取り出した。細長い文字で、ことばが書きつけてあった。

  むかし 神さまがいました
  神さまは ひとりぼっちでした
  それで 人間を創りました
  けれども やっぱり神さまは ひとりぼっちだったの
  です

  それで 神さまは 人間を消してしまいました
  ひとりぼっちの世界で また ひとりぼっちになって
  やっと 神さまは 安心しました

 僕には、詩のいい悪いなんて分からなかった。
 けれど、彼女の孤独は感じられた。
「これ、タイトルは?」
「――『雪』」
「じゃあ、雪が人間を消してしまう、っていうこと?」
「うん。だから神さまは、雪を降らせるんだと思って」
 かぼそい彼女と、詩のイメージは、よく合っている。そして、監督がこういうイメージの子を撮りたかったことも、いっしょに脚本を作った僕には分かっていた。
 けれど、映画に必要なのは、その外見とはうらはらの、心の強さなのだ。
「君は、このままでいいよ」
 僕はそう言ってみた。
「だけど、もう少しだけ、役をつかんでくれないかな。いや、自分を出してくれれば、それでいい。この詩みたいな気持ちを、外に出せたら、いちばんいいんだけど」
「どうしたらいいのか、わからない……」
 彼女は、泣きそうな声で言った。
「じぶんが何なのかも、わからないんだもの。わからない自分を出すことなんて、できない」
 たぶん彼女は、映画に対しても、自分についても、いっしょうけんめい正直に立ち向かっているのだ。それを変えるうまい方法は、僕にも分からなかった。
「まあ、もう少しやってみようよ」
 結局、僕はそう言った。
「だめだったら、シナリオを変えてもいいんだ。この映画は、君のためにあるんだから」「そんな……」
 彼女はますます、恥ずかしそうに小さくなった。

 本当は学園祭に間に合わせたかったのだが、僕らの技術から言っても、彼女や他のキャストにしてもそれまで、完成させるのはむりだった。来年の四月、クラブ勧誘のために上映する機械があったから、それまでにはまにあわせようということになった。
 けれど、やはり彼女は、自信なさそうにカメラの向こうに立っているだけだった。
「しょうがないね」
「しょうがないだろうね」
 僕と監督は、顔を見合わせて、ため息をついた。

 そんな頃。古い理科室の中で撮影しているときだった。
 僕が露出計で、彼女の顔に当たる光を計っていると、ふっ、と彼女が言った。
「……いい砂時計ね」
「ああ、いい色だろう。冬の映画だから、小道具も、色を抑えたんだよ」
 彼女は、目の前の机から、砂時計を取り上げた。
 白木の台に、フラスコ型のガラスがはまっていて、中にはグレイの砂鉄が入っている。彼女は、その中心のくびれた所を指でつまんだ。
「砂が通るここを、オリフィスっていうの。ここを砂が流れているうちは、私は私でいられる。でも、砂が落ちてしまったら、終わり。……いま、詩とか書いていても、いつかは書けなくなるんじゃないかって思う。それが、とってもこわいの」
「じゃあ、こうすれば?」
 僕は、砂時計をひっくりかえした。さらさらと、聞こえない音をたてて、砂が落ち始めた。
「これでまた、時間がはじまるよ」
「でも、誰がひっくりかえしてくれるの?」
 そう言ったときの彼女の表情を、僕は今でもよく覚えている。
 めだたないけれど、ほんとうは、自分を思いきり表現したくて、世界に向かって叫びたくて、でも、それがこわい――そんな表情だった。
「きっと、神さまが、ひっくりかえしてくれるよ」
「神さま……」
 彼女は、考えているようだった。
「うん。だから、君はなくなりはしないんだよ」
 僕は、たしか、そう言ったはずだった。

 僕のことばが、なぐさめになったのかどうかは、分からない。
 ただ、その日をさかいに、彼女は、少し、変わった。
 ――十日めに、初めて屋外のシーンを撮った。
 僕の高校は、校庭の奥に林がある。その林のあたりで、校庭を振り返って、
『あ。……夕日がきれい』
 というのが、彼女のせりふだった。
 僕は校庭側にカメラを据えて、振り返る彼女の表情をクローズアップでとらえようとしていた。
「用意。――はい!」
 監督の声がかかって、彼女は振り向いた。
 その時、それが起きた。
 いつものように無表情に振り向いた彼女が、あっ、という感じで、見る間にうれしそうな顔になったのだ。
「ああ……きれい……」
 それは、心から出た言葉に聞こえた。
「カット!」
 監督の声がかかり、僕がカメラを止めても、彼女はしばらくそのままで、遠くを見ていた。
「オッケー。すごく、よかったよ」
 近寄ってきた監督が言うと、彼女は夢見るような顔で、
「だって、ほんとうに、きれいなんだもの。――ほら」
 指さした先には、校舎の向こうに沈んで行く、夕陽の最後の輝きがあった。
 その光に照らされて、彼女は、とてもきれいだった。
 彼女はまだ、消えて行く夕陽の、最後の紫の光を見ていた。
「あそこに、神さまがいる……」
 彼女は、つぶやいた。

 それから、彼女はしだいに、積極的になった。せりふのいい悪いを監督と相談したり、カメラの僕にも、どっちへ顔を向けたらいいのかなどと、たずねるようになった。
 僕もだんだん、撮り方が分かってきた。機械のことだけではない。たとえば、「このカットでは、無限に遠くを見て」とか、指示ができるようになったのだった。

「私でいいのかなぁ……」
 ある時、撮影の合い間に、彼女がつぶやいた。
「どうして?」
 僕がきくと、
「私なんて、そんなにきれいじゃないもの」
 彼女は、自信がなさそうにつぶやいた。
「だいじょうぶだよ。そのぶん、背景をきれいに撮るからさ」
「ああ……それなら、いいね」
 彼女はなんだか、うれしそうな顔をした。

 もう、十二月に入って、息が白くなる頃、近所の小川で、撮影をした。
「ここは、川に入ってほしいんだけどな……」
 監督は、シナリオをめくりながら、首をひねった。
「ちょっと、冷たすぎるだろう?」
 僕は言った。
「……やる」
 聞いていた彼女が、きっぱりと言った。
 おどろいている僕らの前で、彼女は靴を脱ぎ、靴下を脱いで、はだしになった。そのまま土手を降りて、川の中に立った。
 足もとが、みるみる白くなっていく。
「お願いします」
 彼女は、静かな声で言った。
「……あ、じゃあ、カメラ回して」
 あっけにとられていた監督が、気づいて言った。
 ここは、カメラの細かい操作がいる。それは、カメラマンである僕の仕事だ。失敗はできないと思った。
 まわりにいる部員たちにも、緊張が走った。
「用意――はい!」
 僕はレンズを見つめ、カメラを回し、彼女のアップから全景へと動かした。
 川に足を踏みしめて、彼女は叫んだ。
「どうして! どうして私は、川といっしょになれないの? 世界の中にいるのに、どうして世界といっしょになれないの!」
「カット!」
 監督が大声で合図をした。
「早く上がって」
 監督の声に、彼女は、ほっ、とため息をついて、はだしのまま、土手へ上がってきた。「タオル巻いて。冷たかっただろう」
「ううん。何も感じなかった。なんにも考えないでいたの。そしたら、ことばが勝手に出てきた」
「それが、役になりきる、っていうことだよ」
 監督が言い、彼女はちょっと微笑んで、僕のほうを見た。
 僕は、うなずいてみせた。

 ようやく撮影が終わると、編集が待っていた。
 撮ったフィルムは二時間足らず。一秒十八コマで回しているから、全部のコマ数は――自分で数えて見てほしい。それを、一コマずつチェックして、切ってはつないで行くのだ。
 僕は監督の部屋にこもって、いっしょに作業を続けた。
「ここ、いらないね」
 監督が、彼女のカットを見て、言った。
「よく表情が出てるじゃない」
「うん。だけど、映画には、いらないんだよ」
「じゃあ、僕にくれないか」
 それは、いちばん気に入っていた、彼女の表情のクローズアップだった。カットがかかったあとで、ほっとした表情だった。
 監督が切ったフィルムを、僕は生徒手帳にはさんだ。

 音をつけて、完成した映画の試写は、クリスマスの日、もう冬休みの学校の視聴覚室で行なわれた。
 気分を出そうと、監督は小さなクリスマスツリーを用意した。フィルムが回るまでのあいだ、暗幕を張った部屋の中で、ツリーに巻き付けられた色とりどりの電球が、光をにじませて点滅していた。
 映画が始まると、つめかけたキャストやスタッフのあいだから、ざわざわと声が起こった。
 実際に編集されて、音を入れられたフィルムには、参加した彼ら自身も予想しなかった新しい魅力があったのだ。
 スクリーンに見入っていた僕は、ふと、彼女が客席にいないのに気づいた。
 教室を出てみると、廊下の窓の下で、彼女はうずくまっていた。
「どうしたの?」
 声をかけると、見上げた顔は、瞳がうるんでいた。
「ほんとうに、きれいに撮ってくれたんだね」
「そう言われると、うれしいな」
「でも、けしきや建物が、もっときれい」
「くやしい?」
「ううん」
 彼女は首を振った。
「あのね、世界があって、それがとってもきれいで、その中にじぶんがいると思うと、すごくうれしい。私がきれいかどうかっていうんじゃなくって、世界の中に私がいられるのが、とってもよかった」
 僕は、何かいいことをしたような気がした。
 その後、彼女とは廊下ですれちがうくらいで話もせず、卒業と共に顔も合わせることはなくなった――。

「あの後、大学を卒業してから……」
 気がつくと、『今』の彼女が話していた。
「小さい広告代理店に入って、コピーの仕事をしてたんだけれど、バンドをやってる友だちに頼まれて、歌詞を書いたの。バンドブームでそのバンドが売れて、私にも作詞の仕事がくるようになったわけ」
「今まで、どれくらい書いた?」
「三十……四十かな」
「君の書いた詞は、聞いたことがあるよ」
 僕は答えた。たしかテレビで、アイドルの曲に彼女のペンネームがクレジットされていたはずだ。
「売れているんだろう。よかったじゃないか」
「まあね」
 彼女は軽く笑って、
「歌詞は、曲のテンポに合わせる技術がいるけど、あとは自分を少しずつ、出していけばいいんだから。とにかく、食べて行けるくらいにはなってるわね」
 僕は、何かが心に引っかかるような気がした。はっきりとは分からないのだけれど。
「君は、変わったね」
 それだけ、僕は言った。
「どこが?」
 僕にもうまく言えなかった。それに、彼女は自分の道を見つけて、進んできたのだ。何も悪いことはない。
 ただ、自分が世界に向けて叫びたい、というような押さえきれない思いを、今の彼女は持っていないのではないかと、僕は思った。
「あなたは変わらないみたいね」
「ああ。だから、売れないんだろうな」
「もう少し、世間に合わせていけばいいんじゃない? それでも自分を出すことはできるでしょう」
「そうだね」
 彼女の言うとおりだ。世の中とうまく折り合いをつけて、その中に自分を出していく。それが、プロのやりかただ。
「僕はプロじゃないよ、まだ」
「いつか、売れるようになるよ」
 彼女は励ましてくれた。――そのつもりなのだろう。
「たとえば、今度の私の仕事を、うまく利用することもできるんじゃないかな」
 そうだった。そのために僕は、ここへ来たんだ。
「そのことだけれど、作詞家が何の用? 君の写真を撮るのかい?」
「ううん。そうじゃないの」
 彼女は首を振った。
「出版社からね、詩集みたいなものを出してみないか、って言われたんだけれど、私の歌詞を載せてもしょうがないと思うの。歌の歌詞と、字で読む詩はちがうんだよね。それで、写真と短い文章で構成したものを作ったらどうかと思って。――モデルはもう、用意してあるの。まだ新人の女の子なんだけど、被写体としてはすごくいいと思う。本人もやる気だし。その子を風景の中に置いて、写してみたいの」
「君は顔を出さないのかい」
「もう、おばさんだもの。撮っても、しょうがないでしょう」
 そんなことはない、今の君は今でじゅうぶんきれいだ、と思ったが、言わないでおいた。
「ちょうど今、上でレコーディングしているから、見てくれる?」
 僕は彼女を引っ張って、上のスタジオへ連れて行った。
 扉を開けるとミキサー室だった。
「どうしたの? 新しい彼氏?」
「新しい、はないでしょう」
 もう顔なじみらしい彼女は、スタッフと軽口を叩きながら、片隅の、足が五本ある椅子に座った。僕も隣に腰かけた。
 窓の向こうのスタジオで、ヘッドフォンをかけた若い女の子が、マイクに向かっていた。自分はどうしてここにいるのだろう、という顔をした、地味な子だった。映画を撮っていた頃の彼女に、どこか似ている表情だ。
 薄暗いミキサー室には、機材が詰め込まれ、赤や黄色、緑の小さなランプが点滅していた。
「クリスマスみたいでしょう」
 彼女が言った。
「これで、思い出したの。クリスマスの日の上映会。あの頃、私はまだなんにも分からなかったけど、すごく純粋だった気がする。映画についても、詩についても。ああいうものを、もういっぺん、形にしてみたいと思うの。あの子をモデルにして、昔の詩なんかも、形を変えて入れて」
 ……。
 僕は思い返した。何も言えなかった彼女。すてきな表情を見せた彼女。そして、クリスマスの日に映画を見て、瞳をうるませていた彼女――。
 僕は席を立った。
「どうしたの?」
「悪いけど、誰か他の人に頼んだほうがいいよ。僕にはできない」
 それだけ言って、僕はスタジオを出た。

 もう外は日暮れて、深い青にすべてのものが染まっている。地平線のあたりから、暗い紫がさしていた。
 モノトーンの街。建物も人も、色を失っている。それがかえって、本当の姿を明らかにしてくれるように思う。
「そうだな」
 僕は、口の中でつぶやいた。
「砂時計は、砂鉄色のほうがいい」
 彼女は、自分の色をみつけた。人生のどこかで、砂時計はひっくり返ったのだ。それを嫌うつもりは、僕にはない。
 けれど、オリフィスを流れ落ちる砂は、下から上へと戻ることはない。今になって、昔に帰ることはできないだろう。
 もしも、彼女の言う通りに写真を撮ったところで、きっと彼女は、昔の自分とはちがう、と思うだろう。僕は、僕にとっての、昔の彼女しか撮れないのだ。
 家へ帰ったら、押し入れの中から、あの日切りとったフィルムの断片を捜してみようと僕は思った。
 そこには、僕だけの彼女が写っている。誰も代わることのできない、彼女自身でさえ知ることのない、あの日の彼女が。
 そのフィルムを、今の彼女につなぐことはできない。
 夕暮れの街は寒い。ポケットに手をつっこむと、結局使わなかった小型カメラがあった。
 振り返ると、スタジオの向こうで陽は沈み、わずかなあいだ見える、薄暗い赤紫の残映が残っていた。
 カメラを向けてみたが、このカメラでは、こんなにかすかな光を写せないことは分かっていた。いや、機械のせいだけではない――。
 僕は、ふと、砂時計がほしくなった。白木の台にフラスコ型、砂は砂鉄色。
 これから捜しに行こうと、僕は夕暮れを後に、地下鉄の駅へと歩きだした。

解題: 今回は、女の子って、変われば変わるよなーという話です。あまり、女の子向け雑誌に書くことじゃないし、その変化を否定的にとらえるのはいやだったんですが、締切があったのでしょうがなく、それでまとめてしまいました。
 冬の東京、麻布にあるアオイスタジオがモデル(ガイバーCDの録音で行ったことがある)。ここの一階の喫茶コーナーは、なかなかいいんです。
 女の子も、昔のほうはオリジナルですが、今のほうは、知り合いの女性編集者を参考にしました。あまりいいニュアンスではないので、本人には秘密ですが。
 小道具は、砂時計。砂時計は、一時、集めてたんですね。今も実家に飾られています。BGMは、谷山浩子「つめたい水の中をきみと歩いていく」。いい曲ですね。あの緊張感は、東京の冬に合っていると思います。

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