早坂恭一

宮城県出身。薬の営業したり、イギリスで勉強したり、NGOでミャンマーにいたり。 クラリ…

早坂恭一

宮城県出身。薬の営業したり、イギリスで勉強したり、NGOでミャンマーにいたり。 クラリネットとニャンコをこよなく愛しながら、日々奮闘中。

最近の記事

雨と焔

数日前から、猛烈な暑さが鳴りを潜めている。 窓の外の曇天はいつしか雨に変わり、雨季の訪れを濃厚に感じさせる涼しげな風が吹き始める。気温もようやく“まとも”と呼べる水準にまで落ち着き、おかげでエアコンの設定温度も26℃で十分である。 爆発 ここ数日、ミャンマーでは爆破事件が相次いでいる。 山間の地域では計画的な空爆が。また、ヤンゴンを含む各都市でも、有名なショッピングセンターや町の中心部で爆発が報告されるようになった。外国人も利用するビストロで起きた例もある。 加えて、地区

    • 闇に沈んで

      謎 夜の停電は厄介だ。陽が落ちて気温が日中よりも低いのはいいが、けして涼しさを感じるわけではないし、騒音からジェネレーターを稼働させるわけにもいかず、真っ暗闇の中で耐えるしかない。 ネットも切れて、予定していたオンライン講座も諦める。漆黒に沈む土曜の夜。静けさと暑さの中、ぼんやりすることすらままならない時間を過ごす。 雨が降り出すと、なぜか停電になる。不可解すぎるこの連関に興味を持ち、以前誰かに理由を聞いた気がするが、忘れてしまった。 この日の雨は風もセットで、時折天に「電

      • 言葉は暑さと決意に消えて

        酷暑 暑い…。雨季はもうすぐというこの時期、朝から厳しい暑さが続く。 日中は、エアコンの設定温度22℃で何とか耐えられる室温になり(ミャンマーでデフォルトの16℃にはしないようにしておく)、少しでも外に出れば、強烈な日差しに溶けそうになり。 時折やってくる「お約束」の停電に舌打ちをしながら、早期の復帰をひたすら祈ることの繰り返し。しかし、睡眠時間帯の12-6時に当たると、もはやなす術はない。それに加えて、牛乳を買ってくるタイミングに限って停電が直撃するのは一体何なのだろうか

        • 皐月〜されど眦はゆるまず

          苦悶 日曜月曜と、2夜連続の停電であった。23時頃に暗黒世界に落ちては、朝6時まで戻れない。 夜の気温が30℃近くあるこの時期、じりじりとした暑さに包まれ、汗まみれで夜中に目を覚ます。ジェネレーターも動かせず、寝るに寝れない数時間が続く。さらには、夜間のインターネット遮断が解除されたという噂の検証も、wifiの固定回線が動かないため不可。何かとギブアップな夜を過ごした。 疲れがとれないまま朝を迎え、水シャワーを浴び、コーヒーを流し込んで仕事に立ち向かう。朝からの授業のため、

          「夏のサイン」に

          1つ1つ 月曜は正月連休の最終日。月曜だが休日で、休みでも勢いよく仕事に出るという、1周回る感じのオープニングとなった。それにしても、毎日本当に暑い。 朝からDream Trainへと出かけ、キャリア教育の初回第2部(前回と違うグループが対象)を実施した。 構成には一工夫加えてみたものの、受講者の年齢が下がったこともあったのか、リアクションは薄い。事前準備も含め、段取り自体は改善したが、今度は本番中の課題が浮かび上がる。なかなか難しいものだな。 打ち込めば画面上に表示され

          「夏のサイン」に

          年越し狂騒曲

          沈黙 13日から、ミャンマーは正月休みに入った。 16日が大晦日で、17日が正月である。本来ならば、街のあちこちにスタンドが設営され、ホースを構えた人々が見境なく水をかけ合い、道を歩いていても方々から問答無用で「水攻め」にあうという祭りが展開される。 しかし昨年に引き続き、今年もその様子はまったく見られない。地方の一部では行われていたようだが、ヤンゴンではそれらしき雰囲気は露とない。 いつもなら閉店を決め込むスーパーも営業し、フードデリバリーも稼働していた。昨年はコロナによ

          年越し狂騒曲

          “揺らぎ”

          稲光 日曜夜は雷雨となった。短い間隔できらめく稲光と激しい雨が続き、さて来るかと思った矢先に停電となった。この時期にしては珍しい降りようと、落雷の刹那に「輝き」を放つヤンゴンの街並みを、しばし眺めていた。 すでに23時を回っていたため、諦めがつくのも早かった。天からの「消灯」の仰せと受け止め、そのまま眠りに就いた。 目を覚ませば、朝から曇天。そのおかげで、暑さはかなり押さえ込まれている。だいぶ過ごしやすいスタートになった。 電力は復帰するも、“立ち上がりあるある”で、午前い

          “揺らぎ”

          鈍色の下のキャンバスに

          定点観測 4連休明けの火曜は、近くのショッピングモールへ。 外出時の動線を極力短くしながら物資調達を済ませることができ、しかもカード決済で現金の節約が叶い、市内の日常の定点観測も可能になるという点で便利な場所だ。先週と比べると、利用可能な出入り口と利用客が増えた印象を受ける。 長らく機能していなかった、入り口横のATMも復活。待ち時間10分ほどで出金を済ますことができた。単なる偶然かもしれないが、市内各所で見かける「出金行列」とは無縁のスムーズさであった。 内部の開店率は

          鈍色の下のキャンバスに

          種蒔人

          夏へ ミャンマーは26日から4連休に入った。 春めく日本とは違い、盛夏に向かって日に日に暑さは増し、日中は40℃近くになる。朝も洗濯物を干しに出るだけで汗が滲み、建屋の1Fと2Fの温度差に驚く。 この状況下、21時から半日の停電は痛い。 ネットの不通に加え、とてつもない寝苦しさ。水シャワーを試みるも冷水は出ず(外付けタンクにためてある水を使うため、外気温で“ぬるま湯”となっている)、あまり効果はなく、薄い意識のまま、朝5時半のシュプレヒコールを機にあきらめて起き出した。

          戦時下にて

          下り坂 沈鬱な面持ちで、車窓に流れていく街の様子を眺めていた。 路上には土嚢や瓦礫が散乱し、“お手製”のバリケードが所々で道を塞ぐ。いつか映画で観た市街戦の光景だなと、まじまじと見れば見るほど薄れゆく現実感に、月曜から妙な気分になった。 前日の日曜、ヤンゴン市内で過去最多の犠牲者が発生した。 加えて、ヤンゴンの複数の地区に戒厳令が発出され、さらにはモバイルネットワークも遮断。自宅兼事務所の固定回線は使えるが、外出時のアクセスは不可。それにより、街中からリアルタイムで発せられ

          戦時下にて

          拝啓 “あの日”の君へ

          銃声 緊張の夜が明け、月曜を迎えた。 昨夜、ヤンゴン市内各所で銃声が鳴り響き、私の耳にもその音は突き刺さった。 「ついにここまで来たか…」 衝突の激しい地域からは距離をとってきたものの、向こうから迫ってきた。 どうやら同時間帯に、市内12地区で行われていた模様。特定の標的を狙っているものではなく、威嚇が目的のようであった。 しかし、“まさか”はあり得る。跳弾も見越して、窓から離れた場所に寝る場所を変更する他、かつて『ゴルゴ13』で読みかじった防衛策を講じ、眠りについた。

          拝啓 “あの日”の君へ

          「春」

          惨劇の月またぎ 2月28日、クーデター発生月の最終日は、多くの犠牲とともに締めくくられた。 SNSのタイムラインは、報道機関では掲載不可であろう凄惨な現場写真や映像と、悲痛な声で埋め尽くされた。これほどつらい月末は、過去にあったであろうか。 翌月曜からは3月へ。 「あの日」からちょうど1ヶ月。昨日の悲劇に嘆息しながら迎える朝は、その心の写鏡か、やたら湿気っぽい。 2月いっぱいと目された深夜から朝にかけてのネット遮断は継続され、今日まで途切れることはない。この異様な状態は、

          「修羅の国」の光

          222 深夜から朝にかけての回線遮断は、週明け22日の月曜に限り、昼の12時まで続いた。 この日はミャンマー全土で大規模なデモが計画されていたため、いつもより延長し、その勢いを削ぎにかかったと考えるのが妥当であろう。 なぜこの日に一斉デモなのか。 それは、同じ数字が並ぶ日付(今回なら2)に特別な意味を見出し、契機としてきたミャンマーの伝統によるものだ。1988年の民主化運動の時も、行動を起こしたのは8月8日(8888運動と呼ばれる)である。 ネットで情報が取れない中でも、

          「修羅の国」の光

          何のために、誰を救うために

          ニュー・ノーマル 今週から新たな生活リズムが追加された。午前1時から9時の間、ネット回線が遮断され、それが月末まで継続されるらしい。 国民の健康を考慮した“官製デジタルデトックス”なのだろう。 特に最近はFacebookの利用時間も増えているし、夜も物騒になっているから、深夜くらいはネットを離れたほうが健康的という配慮に違いない。そういえば、ナチスも国民の健康管理にはとても敏感だった。 そんな空々しさに包まれながら迎えた、回線停止初日の月曜。通信が復帰した途端、SNS上に

          何のために、誰を救うために

          流れる星は生きている

          先週の今頃は「情報の孤島」にいた。 妙な静けさに包まれながら、ダウンロードしておいたkindleの本を読み、楽器を吹いて、世界から取り残された感覚を生きていた。 それから1週間。この間の経緯を綴るだけで本が1冊書けようかと思えるほど、目まぐるしく世の中が動いていった。 月曜には、正式な夜間外出禁止令(20時から4時まで)と、公共の場における5人以上の集会禁止令が発出された。 感染防止対策とはまったく意味合いの異なる緊張感が漂う。目下日本で行われている、賛否の嵐や毀誉褒貶相

          流れる星は生きている

          Pray for Myanmar

          2月6日10時過ぎから、ヤンゴン市内ではネットが不通となった。通信は電話のみに限られ、とんだデジタルデトックス生活に突入する。 いつまた途絶えるやも知れぬ、世界との接続が保たれている間に、世界が一変した月曜の早朝から今までの顛末を、思うさま書いてみる。 未明の激震 2月1日早朝、国軍によるアウンサンスーチー氏と与党幹部拘束のニュースに、慄然と飛び起きる。 政権転覆、非常事態制限、空港の閉鎖が次々と明らかになる中、まずは7時に電話が止まる。Viberやメッセンジャーに移行して

          Pray for Myanmar