見出し画像

日本を救った交渉人🇯🇵🌈

江戸の末期に起きた、『ある事件』の話です。

当時、庶民が大名行列に遭遇した際は、土下座をして、大名行列が通り過ぎるのを待つのが当たり前でした。

そんな中、藩(大名の支配領域)に使える武士『藩士』が、イギリスから来た商人たちに対して、馬から下り、道の脇に移動するよう告げました。

彼らはそれを無視し、そのまま大名行列に入り込んで列を乱し、さらに藩主が乗った駕籠(かご)の近くまで差し迫ったんです。

これに腹を立てた藩士たちが、彼らを死傷させてしまいます。

これが、『生麦事件』と呼ばれる事件です。

この生麦事件で、イギリスの代理公使は、江戸幕府に対し10万ポンドの賠償金を要求。

さらに、薩摩藩に対しては、

  • 2万5,000ポンドの賠償金

  • 犯人の引渡し

  • イギリス士官立会いのもと、藩士を処刑

この3つを要求しました。

しかし、まだ江戸幕府に力がなく、薩摩藩を従えることが困難でした。

薩摩藩がこの要求に応じなかったことで、戦争にまで発展してしまいます。


1863年(文久3年)7月2日に起きた『薩英戦争』。

イギリスが7隻の船を使って、海から薩摩藩に大砲を放ったんです。

それに応戦したのは幕府ではなく、薩摩藩でした。

イギリスの船は、市街地からわずか1kmの地点に停泊し、薩摩藩に圧力を与えます。

勢力的に、どうみてもイギリスの戦艦には勝てません。薩摩藩は、窮地に追いやられます。

しかしこの時、偶然の産物が現れたんです。

それは、日本特有の気候でした。

『台風』です。

これにより、イギリスの戦艦が沖へと流され、大砲が届かなかったんです。

結果、引き分けという形で幕を閉じ、イギリスの戦艦を撤退させることができました。


薩英戦争から3ヵ月経った11月11日。

薩摩藩は、この2つの事件への解決のため、イギリスとの交渉に入りました。

その交渉に参加したのが、重野厚之丞という人物です。

交渉に入る前、彼は薩摩藩に対し、こう説得しました。

「このまま敵対することで、薩摩藩は壊滅する。ここはイギリスと和平交渉をして、大砲や艦の技術を吸収し、薩摩藩を発展させていくべきだ」

最初は猛反対した薩摩藩。

うまく折り合いがつかず、何度も交渉が決裂しそうになりました。

それでも、重野は必死に説得を繰り返し、4回目の交渉で、ようやくお互いが譲歩をする形で、交渉が成立しました。


もし、あのまま交渉が成立せず、イギリスとの戦争が続いていたら、日本はイギリスの植民地だったのかもしれません。

重野厚之丞という交渉人が、事件を防いだことで、日本という国は守られたんですね😌

最後まで読んでいただきありがとうございました🌈

もしよろしければサポートをお願いします😌🌈