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日野市川辺堀之内地誌

東京都日野市川辺堀之内の歴史、地名、神社仏閣、施設などを紹介しています。

川辺堀之内城(川辺堀之内館)

川辺堀之内の歴史

川辺堀之内の先史

川辺堀之内の成立は定かではない。「堀之内」、「川辺堀之内」と地名も資料により異なり由来は定かではない。隣接する八王子市にも堀之内という同名地名があり、由木堀之内とも称するが当地との歴史的関係はみられない。
縄文時代から古墳時代にかけての出土品から日野台までの段丘沿いに人々が生活していたことが確認されていたが、平成20年(2010)代に開始された川辺堀之内区画整理事業に伴う一連の調査により浅川流域の低地地帯にも縄文時代から平安時代にかけての集落跡などが発見された。
律令における区分としては武蔵国多摩郡得恒郷 (徳常郷)となる。

川辺堀之内城と高麗氏

江戸後期に編纂された『史籍雑纂』に記される天文年間(1532-1555)の「高幡高麗一族屋敷・下地等絵図」に「堀之内村」と記され、また、現在の川辺堀之内の範囲と推定される「中之屋敷」「あらいの内」「瀧坂」の記載がある。
「高幡高麗一族高幡不動座敷次第覚書写」には「ほかの内村」と記される。
同覚書写には高麗左衛門という人物とその「悴者(かせもの=従者)」として伊藤という人物が堀之内村の者として記されている。また、同記あらいの村には高麗山城守とその「家の子」として田中源六の名がある。あらいの内の地名は浅川対岸、現在の南平にも記されているが、下地等絵図には現在の日野市新井に相当する箇所に「新井之屋敷」と記述があり、先述の「あらいの内」とは区別されているが、同覚書写にあらいの村と記された高麗山城守が現在の川辺堀之内域を影響下としたかは不明である。
多摩地域の高麗氏は文永元年(1264)以降から資料に確認され、武蔵国高麗郡(埼玉県日高市周辺)から衰退した日奉氏に代わって入部したとみられる一族で、上杉氏のもとで当地一帯を影響下に置き、高幡不動を再興するなどしている。当地域の高麗氏は小田原後北条氏進出後衰微し、後に岩槻太田氏、彦根井伊氏に仕えた。
川辺堀之内には通称・川辺堀之内城(川辺堀之内館)が存在するが文献資料はなく、高麗左衛門の居館があった推定されている。小字に駒形(こまがた)という地名があるがこちらの関係も定かではない。堀之内という地名との関係も定かではない。
周辺を流れる豊田用水は農業用水で、掘に相当したかは不明である。城館跡南西部にかけての低地は浅川の古流路とみられ、区画整理前は水田として利用された。
発掘調査では堀(薬研堀)とみられる遺構が複数発掘されている。この城館跡堀のひとつは幅1.48m、深さ1.24mのV字上のもので、この城館跡堀からほぼ一直線上の延命寺付近でも堀が発掘されており、接続すると約150mに及ぶ堀となる。
現在、城館跡は日野ゴルフ練習場と増田氏墓所が所在するが、この直下2箇所から屋敷地が発見されており、城館跡直下の屋敷地は方形居館と推測され、川辺堀之内城と関係する居館と推測される。この屋敷跡からは母屋建築と推定される建物跡が出土するなど、武士階級と推定される有力者の存在を窺わせる。またこの屋敷地跡の東側の屋敷地も同年代のもので、その規模は小さく、先述の家臣に相当するものであると考えられる。
先述の通り文献資料に川辺堀之内城に関するものはないが、発掘調査の結果、城館と対応したと思われる堀や建造物跡、工作物跡の存在が確認された。
戦国時代に日野市域は滝山城・八王子城主北条氏照の支配下に入り、のちに新選組副長・土方歳三を輩出する土方氏が属したとさる三沢十騎衆のほかに「川辺七郷ノ十騎(川辺十騎衆)」が存在したとされるが、これは『新編武蔵風土記稿』の隣村上田村(日野市上田)の平野氏についての記述である。

川辺堀之内の近世

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると「武蔵国多西郡たかはた村 同河辺七ヶ村」あての禁制が発せられる。この禁制の記される高幡村の周辺”河辺”七村と上田平野氏が後世主張した”川辺”七郷に川辺堀之内が含まれるかは不明である。
後北条氏が滅亡し、徳川家康が当地を領すると幕臣旗本・代官の知行と千葉氏の知行が続き、高札場は小字原村にあった。資料にみえる千葉氏の出自は不明である。
八王子千人同心も所在し、嘉永7年(1854)の番組合之縮図には「阿川熊次郎」の名がある。
江戸時代の川辺堀之内は豊田用水や上田用水のほかに湧水が23箇所あったという。
また、志村又衛門貞慎という旗本が農家の東伊藤清左衛門の娘・理代(潤徳院殿清節寿慶大姉)に惚れ、二人で馬に相乗りし浅川を駆け抜け江戸の屋敷に向かい結婚したという昔話がある。この志村貞慎は八王子千人同人取締方肝煎となり509石、10村を知行した人物である。
同時代の昔話として、隣村豊田村との境界争いが絶えず、豊田村の遠藤和泉という人物が土地境界を示す桜炭を密かに川辺堀之内村へ寄せて埋め、役人に境界を確認させた。後に川辺堀之内側に工作が露呈し、追われた和泉はえんどう畑に逃げたところ、足を取られ捕まり松の木に磔となった。この場所が現在の国道20号日野バイパス泉塚交差点とされる。遠藤一族は和泉の屋敷に祠を建て、遠藤権現として祀り、この故事から遠藤家ではエンドウ豆を作らず、食さない、一方の川辺堀之内では境界が確定してしまい村域が縮小されたことから、和泉を磔にした松を斬り倒し、村内に松を植えず、正月に松飾りをしないという禁忌伝承がある。
現在の川辺堀之内と上田の境には「中屋敷」と称される一帯があり、平成期の区画整理により消滅した稲毛道と上田用水にかかる橋に中屋敷橋と呼ばれる橋があった。この周辺の遺構として江戸時代のものの瓦や陶器が発掘されている。
明治元年(1868)時点では伊豆韮山代官・江川太郎左ヱ門(江川英龍)111石、千葉伊三郎86石、日枝神社社領7石に別れていた。

江戸時代の川辺堀之内村の領主一覧

寛永元年(1624) 町野惣右衛門
寛永四年(1627) 折井五郎七郎・千葉左門
寛文6年(1666) 成瀬八左衛門
貞享元年(1684) 池田新兵衛
元禄4年(1691) 松平清三郎
元禄9年(1696) 古川武兵衛(古川氏成)
宝永5年(1708) 折井吉三郎
享保3年(1718) 堀内六郎兵衛・千葉兵衛
享保12年(1727) 岩手藤左衛門(岩手信猶)
享保18年(1733) 上坂安左衛門(上坂政形)
延享3年(1746) 伊奈半左衛門(伊奈忠辰・関東郡代)
寛政5年(1793) 伊奈友之助(伊奈忠富・関東郡代付代官)
文化10年(1813) 小野田三郎右衛門(小野田信利・飯島陣屋代官)・千葉左門
明治元年(1868) 江川太郎左ヱ門(江川英龍・韮山代官)・千葉伊三郎

川辺堀之内の幕末・天然理心流

幕末の多摩地域で流行した剣術・天然理心流は新選組局長近藤勇が宗家として指導し、石田村の土方歳三、日野宿の井上源三郎も修練とするなど、現在の日野市域と新選組を語る上では重要な剣術流派と言える。文久3年(1863)、浪士組が結成され、近藤勇、土方歳三、井上源三郎らが上洛するにあたり、留守中の指導者として日野宿の名主佐藤彦五郎が指名され、その際に門人となったことを記した巻物「神文帳」が3巻残り、文久同年の巻では川辺堀之内村の門人として増田紋之助・岸野新治郎・伊藤百平・伊藤治郎の4名が記されている。増田紋之助は後に桑田村で重役を務めるなど地域で重きをなした。川辺堀之内城には増田家累代の墓石がある。
慶応3年(1867)の巻にも川辺堀之内村門人として伊藤常蔵という人物が確認できる。

明治維新後の川辺堀之内

川辺堀之内には絵図や文字資料が少ない。これは庄屋の火災や無住時代の延命寺の資料散逸、再建時の物品処分などが理由としてあげられている。
明治維新からは品川県、韮山県、明治4年(1871)には神奈川県、明治22年(1889)4月1日には町村制施行にともない神奈川県南多摩郡桑田村に編入、桑田村発足時、役場は延命寺に置かれたがのちに上田に移転した。明治24年(1893)4月1日には東京府となり、明治34年(1901)に東京府日野町と合併、改めて日野町となり、昭和18年(1943)東京都制施行を経て、昭和33年(1958)、川向かいの七生村と合併、現在の日野市域となり、域中央に位置することとなった。昭和38年(1963)日野市制施行により東京都日野市大字川辺堀之内となるなど行政管轄が目まぐるしく変更された。
明治時代以降は多摩地域の農村として平成中期までその姿をと留めていた。
明治43年(1910)6月から大正2年(1913)3月には川辺堀之内・豊田一体にかけて、耕地整理が行われた。当時の東京府下では最大の区画整理で、最も早く成功し、農業収益の増加をもたらした。
以降八王子と同様養蚕業が行われたが、昭和期には稲作や畑作、ハイス栽培に順次移行した。
平成5年(1993)には当地農家が宮中新嘗祭献穀者となり粟が献穀された。
国道20号日野バイパスは平成19年(2007)に坂下交差点開通により全線開通となった。
平成21年(2010)から国道20号線日野バイパス(延伸)工事とともに区画整理が実施されている。

川辺堀之内の地名

東村・西村・中村

現在の清水坂の道を境に大まかに東西に村を分けていた。中村は現在の延命寺付近を称した。

中屋敷

市民プール(駒形公園)から展望する中屋敷一帯。

「高幡高麗一族屋敷・下地等絵図」には堀之内村に隣接して「中之屋敷」との記述があり、同地と推定される。上田用水沿いの川辺堀之内と上田の境界付近を称した。発掘調査により柱穴群や大溝、堀、瓦、硯、陶磁器などが発掘されており、多くは江戸時代のものと推定され、屋敷が存在していたことが明らかになった。

駒形・駒形前

小字。清水坂道の東側。かつては駒形神社・竹林公園周辺を指したが後に南側に拡大し現在の駒形公園・市民プールを含めた浅川左岸までを境となった。

林際

小字。清水坂道の西側と区分とする。西村・中村域に相当する。地名の由来は不明。

原村

日野バイパスから展望する原村

小字。川辺堀之内の段丘、台地部分。単に原、上ともいう。北側の神明上第9緑地の付近を原ノ谷ツと称し、黒川用水が流れる。

谷ノ田

小字。現在の国道20号線日野バイパス坂下信号付近をいう。日野台への登り口にあたり、段丘からは縄文時代から平安時代にかけての遺跡が発掘されている。現在のバイパス北側の坂を滝坂(瀧坂)と称し、この滝坂登ったところを谷ノ上、坂の下を谷ノ下又は下谷という。

庄安関

小字。飛地。現在の多摩平陸橋周辺および多摩平7丁目の一部。

上大久保・中大久保・下大久保

小字。飛地。上大久保は現在の多摩平5丁目の多摩平第二公園付近。中大久保は多摩平6丁目の多摩平第四公園付近。下大久保は日野市立日野第五小学校校庭部分を称した。

上向川原・下向川原

小字。飛地。現在の南平5丁目の向川原団地市営住宅。かつては共有地で、この土地を売却し、売却資金を研修所建設の一部にあてたという。

トトロの森・カブト山

主に小学生が使う地名。川辺堀之内城付近をいう場合や東豊田4丁目の段丘部、竹林公園、日野バイパス滝坂などの緑地を指すが世代によって場所が異なる。トトロの森の由来は樹木がトトロ(スタジオジブリの映画に登場するキャラクター)にみえるからとか、トトロが住んでそうだからなど人によって異なる。カブト山の由来はカブトムシからきている。

稲毛道(消滅)

稲毛道跡(上田方面から堀之内研修所)

稲毛往還ともいう。国道20号線日野バイパス(延伸)建設と区画整理によりほとんどが消滅した。往時は南平から浅川を渡河し、上田を経て現在の研修所を曲がり、清水坂を経て八王子に至る道であった。消滅区間は道幅2mほどの小道であった。稲毛領(現在の川崎市の北部丘陵部)からの道であったため、稲毛道と称された。

清水坂

清水坂

都道159号線市民プール交差点から東豊田4丁目(吹上)までの市道41号線にある坂。江戸期では東村と西村の境。段丘部から湧水があるため清水と称された。現在でも湧水がある。この道はかつての字境で東側を駒形、西側が林際、登った台地部を原村とした。日野バイパス(延伸)の計画では清水坂と国道の交差点が「堀之内交差点(仮称)」となる。

稲荷坂

稲荷坂

延命寺から原村部分の稲毛道までを結ぶ道。現在は宅地となったが、かつて坂の東側中腹に稲荷が祀られていたのが稲荷坂の名の由来である。

川辺堀之内の神社と寺院

日枝神社

川辺堀之内の鎮守・日枝神社

川辺堀之内の鎮守社である日枝神社の創建年代は不明ながら、江戸時代初期に川辺堀之内開村にあたり名主が近江・日吉大社から大山咋命の神霊を勧請し、社を建立したと伝承がある。近代社格制度では村社。山王宮、山王社とも記される。江戸時代の別当寺は隣接する延命寺。現存しないが末社に天王社があったとされ、祭礼を天王祭と称したという。現在は日野市本町の八坂神社宮司が当社の宮司を兼務しており、祭礼は氏子会を中心に行われる。
毎年1月15日近辺の日曜日に行われる「お焚き上げ」はどんど焼、サイノカミなどと称される。記録の上では明治20年(1887)代にはすでに行われている。現在では神社の行事として氏子会を中心に神社境内で行われるが、かつては神社近くの空き地や田畑で行われていた。製作は氏子が行うが特に決まりは存在せず、口伝やその年のメンバーの発想で組み立てられる。
境内には樹齢300年以上と推定されるムクノキがあり、高さ約28m、幹周155cmと日野市内最大のもので、昭和50年(1975)10月1日に市天然記念物に指定された。
境内南側の浅川土手には豊田用水分水排水口があり、神社西側の「堀之内緑道」は豊田用水分水暗渠となっており排水口を通じて用水が浅川に排出される。また、同所は上田用水の取水口であり神社南側より上田用水が始まる。

駒形神社(駒形明神社)

現在は駒形竹林公園に石祠として奉祀されるがかつては近辺の阿川家・清水家によって祭祀が行われていた。祭神は不明。近辺の旧家には「博労」「金クツ屋」など、馬に関係する屋号を持つ家があり、近辺の小字原村はかつて牧場があったという伝承がある。駒形という地名と共に馬に関係があるのではないかとされている。
昔話として、国府(府中市)で行われた名馬の駒競べで堀之内村から選ばれた毛並みがよく足も長いたくましい馬がいた。その馬は駒競べで先頭を走りそのまま柵を越え場外へ出てそのまま堀之内村に帰り、飼い主の家にたどり着き力尽き倒れた。哀れんだ村人はこの駒を祀り駒形神社を建立したという。

神明社(廃絶)

鎮座地や創建年代、廃絶時期は不明であるが、文化文政期(1804~1829)に記された『新編武蔵風土記稿』には稲毛道の側に鎮座し、正蔵院のもとにあったが、正蔵院が廃絶し、延命寺の管理となったことが記されている。

延命寺

延命寺(川辺堀之内)

山号は有王山。真言宗智山派。高幡不動の末寺で本尊は木造延命地蔵尊坐像。建立年代は不明であるが本尊の作風が鎌倉時代のものとされることから、中世の創建と考えられている。枕返し地蔵とも称される本尊は秘仏であり住職交代のときのみ開帳される。前立本尊として木彫地蔵菩薩坐像があるがこれはかつて境内の外にあった地蔵堂の本尊ではないかとされ、享保年間(1716~1736)に正蔵院の持仏を移したものではなかとされるが確証はない。

日野市指定史跡(歴史資料)・延命寺文明二年結衆板碑

市指定の史跡である文明二年(1470)の板碑は結衆板碑という当時流行した講の結衆が自らの死後の往生の願い建立したもので、日野市内では唯一のものである。また、平成24年(2012)の川辺堀之内区画整理事業において新たに寛正7年(1466)と文亀元年(1501)の銘を持つ板碑が発掘された。両碑とも女性を供養主とする逆修供養を目的とし、文明二年(1470)の結衆板碑とは異なり個人供養の板碑となっている。
現在の本堂は平成23年(2011)に建立された。

正蔵院(廃寺)

延命寺境内伝正蔵院不動明王石碑

創建年代、山号本尊ともに不明。高幡不動の末寺と伝わるが『新編武蔵風土記稿』が記された文化文政期(1804~1829)より100年ほど前(西暦1700年代)に廃寺となり、往時は神明社の側にあったと記される。
文化10年(1813)建立の正蔵院不動明王石碑と伝わる石碑が延命寺境内にあり、昭和40年代(1965-1974)に土地の所有者が延命寺に移したものという。
明治5年(1872)の「丸山雄重家文書」に記される 川辺堀之内村誌に正蔵院は大幡山賓生寺の門徒で、本尊は90cmの木造立像の不動明王、同じく西暦1700年代に廃寺の後、本尊は延命寺に移されたと記されている。
 平成24年(2012)の川辺堀之内区画整理事業による発掘調査で正蔵院廃寺跡地推定地域より江戸時代初期から中期にかけての墓と思われる骨片、墓杭、棺、銭貨、カワラケが発掘された。副葬品と推定される銭貨は寛永通宝で、特に寛文期間(1661〜1673) のものが多い。カワラケも同時期に江戸圏内で生産されたものが多く、また棺には改葬された形跡があるなど、正蔵院の廃寺との関係が推測される。

水神(廃絶)

水神跡(駒形竹林公園)

正蔵院に参拝する前に黒川水路で身を清めたとされる場所。現在の駒形竹林公園東側入り口付近にあり、近世に廃絶し基盤が残ったが、公園整備により消滅した。
黒川水路沿いの峡谷は黒川の古流跡で水路は用水路として改修され、現在は豊田用水と合流するが、縄文時代は滝坂下付近に流れ込み、湿地帯を形成していた。

地蔵堂

地蔵堂。覆い外は左から嘉永2年の馬頭観音、文政5年の庚申塔。

地蔵堂の名は通称。かつての字堺にあった庚申を一箇所にまとめたもの。
地蔵像は宝暦9年(1759)の建立で場所不明の石橋建立供養に際して建立されたものである。国道20号線日野バイパス(延伸)建設のため移転した。現在は西向きだが移転前は東向きだった。地蔵両脇の馬頭観音は安政3年(1858)と明治33年(1900)のものである。
堂の横の庚申塔は清水坂上小字駒形と小字原村の堺にあったもので文政5年(1822)の建立である。
同じく堂の横の馬頭観音は嘉永2年(1849)のもので元々は竹林公園付近にあった。

市民プールの庚申

損壊が激しい市民プール入り口の石仏

市民プールに入り上田用水をまたぐ場にあり、浅川側を向いている。二基とも最近に破損しており、石仏は青面金剛の庚申とされるが年代等は不明。石祠は村内安全を祈念し文殊菩薩、弁財天を安置していたようだが現存しない。建立者は川辺堀之内住民だけでなく隣村の宮の住民の名も記される。

堀之内緑道の馬頭観音

堀之内緑道の馬頭観音

延命寺と堀之内緑道、川辺堀之内と東豊田の境にある三基の馬頭観音。

川辺堀之内の施設

堀之内研修所

堀之内研修所

堀之内農事研修会が若手農業経営者と農業後継者育成のため昭和33年(1958)に堀之内青年研修所として建設した。
同時に生活改善運動の一環で、昭和36年(1961)に「堀之内研修所」と改称、農業関係者に加え、自治会や集会、イベントなどでも使用している。
研修所入り口の看板は日野町長を務めた有山亮の書と伝わる。有山亮は日野5社を誘致し、日野台の工業化を進めた。
令和3年(2021)1月まで裏手に消防団詰所、北側に火の見櫓があり、区画整理前は当地を中心に「堀之内銀座」と付近を称していた。

講椀蔵

講椀蔵

研修所横にある倉庫。かつては当地と原の二箇所にあった。元々は村内の冠婚葬祭に用いる器などを収納していた。また、消防団の消防用ポンプ倉庫としても利用された。

市民プール

昭和40年(1965)に開設。オープンには古橋広之進を招待した。昭和55年(1980)にはプール開業期間中に浅川から南平と川辺堀之内を結ぶ駒形渡し船が開始された。平成3年(1991)には老朽化した「こまがた号」から「日野カワセミ号」に代替わりしたが、たびたびの増水と河川工事にため平成24年(2012)に廃止された。平成5年(1993)7月16日に駒形公園の整備の一環で現在地に移転改築された。当初は現在のプールに加え、ウォータースライダーなどの施設の建設計画もあったが中止された。

川辺堀之内消防団(日野市消防団第四分団第一部)

日野市消防団第四分団第一部(堀之内消防団)詰所と消防車

川辺堀之内・東豊田・豊田・旭が丘1丁目・3丁目・4丁目・5丁目を東豊田所在の第二部(豊田消防団)とともに管轄している消防団。川辺堀之内と周辺の住民が本業の傍ら所属する非常備消防。
現在は常備消防として東京消防庁日野消防署があるが、業務委託前、堀之内消防団は第12部、委託後に現在の第四分団第一部に改組編成された。当初第四分団は3部制で、昭和53年(1978)ごろには豊田駅南口近く(豊田3丁目)に三部が存在した。

川辺堀之内消防団の半鐘

前身組織の日野町警防団では第五分団に属し、川辺堀之内・宮・上田・谷仲山を管轄としていた。昭和14年(1939)警防団が改組設置された際の詰所は青年倶楽部兼用とした。火の見櫓は昭和54年(1979)に建て替えられ令和3年(2021)1月まで存在した。現在は大正2年(1913)の半鐘が残る。

【参考文献・資料】

▼日野市企画財政部広報課『広報ひの縮刷版13』平成6年
▼日野市史編さん委員会発行『日野市史 史料集 地誌編』昭和52年
▼日野市役所『日野市消防団の概要』昭和51年 
▼日野市教育委員会『日野市戦後教育史』平成9年
▼日野市郷土資料館『日野市域の八王子千人同心関係史料集』平成30年
▼日野市郷土資料館『日野市域におけるサイノカミ・どんど焼き行事調査報告書』令和2年 
▼法政大学エコ地域デザイン研究所編『水の郷 日野 農ある風景の価値とその継承』2010年 鹿島出版会
▼犬飼康祐「平成元年度 日野市民文化祭参加行事 石仏散歩(四)豊田、川辺堀之内、上田、宮」『日野史談会 日野の歴史と文化』平成元年  
▼土淵英夫『土淵英夫 八坂の杜から -多摩郷土史研究-』1998年
▼日野の昭和史を綴る会『日野市旧桑田村の地名 -豊田・川辺堀之内・上田・宮・下田・万願寺・新井・石田』平成24年
▼『図説 八王子・日野の歴史』2007年 郷土出版社
▼株式会社CEL『東京都日野市 No.16遺跡・川辺堀之内遺跡』平成25年 日野市川辺堀之内区画整理組合
▼東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター編「日野市川辺堀之内遺跡・No.16遺跡 (東京都埋蔵文化財センター調査報告) 一般国道20号(日野バイパス(延伸))建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査 第1分冊(川辺堀之内遺跡)」『東京都埋蔵文化財センター調査報告』2022年 東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
▼東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター編「日野市川辺堀之内遺跡・No.16遺跡 (東京都埋蔵文化財センター調査報告) 一般国道20号(日野バイパス(延伸))建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査 第2分冊(No.16遺跡)」『東京都埋蔵文化財センター調査報告』2022年 東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
▼伊藤稔『浅川の畔から』2018年 大空出版社
▼湯山学「戦国時代の高幡三郷―高麗氏と三沢十騎衆―」『多摩のあゆみ 第37号』昭和59年
▼『新編武蔵風土記稿』巻之117 多磨郡之29,巻之118 多磨郡之30,巻之119 多磨郡之31,巻之120 多磨郡之32,巻之121 多磨郡之33,内務省地理局,明17.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763994 (参照 2023-03-31)
▼『天然理心流神文血判帳』小島資料館 文久3年 ADEACアーカイブ https://adeac.jp/adeac-arch/catalog/002-mp100010-200020(参照 2023-03-31) 
▼『天然理心流神文血判帳』佐藤彦五郎新選組資料館 慶応3年 ADEACアーカイブhttps://adeac.jp/adeac-arch/catalog/002-mp100030-200030(参照 2023-03-31)

この記事について

川辺堀之内地域全般としての学術的調査は現在も進行中であるにつき、この記事も最新のもの更新していきます。また、当地域は文献資料が少なく、伝聞も人によって微妙に異なるため、整理精査し、考古学や実際の発掘状況、資料講読等で学術的立証ができたもののみ記載しています。

令和5年(2023)5月1日初校公開
令和6年(2024)2月24日2版公開
令和6年(2024)3月30日3版公開


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