とある日のつぎはぎ
根拠あるケア。再現性を求められる科学的視点。
正直辟易している感はある。もうちょっとのんびり関わらせてくれよと。
おばあさんは「家に帰る!」と強く訴える。その日もいつものように僕に問いかけてきた。
「どこから帰るん??」
もう帰れること前提で、場所を探している段階か…どうしようかな…どうやって返そうかな…
などと、書き始めた記録用紙の前で、ボールペン片手に固まった僕は、この場をどうやり過ごそうかと必死に考えていた。その思考には、科学的だとか、根拠ある認知症ケアなんかはまったく頭に浮かばなかった。その場その場での空気や、その人との関係性で良いケアが浮かびあがってくることもあるだろうに、のっけから根拠を求められると、途端に視野が狭くなるんじゃなかろうか。
なんて言い訳の方が先に頭に浮かんでくる。そんなふうに思考停止している僕からは、大した言葉は出てこない。
「え~~っと~~…」
時間稼ぎの言葉しか出てこない頭と、それが通用しないだろうなということがわかるおばあさんの表情とが相まって、フロアには不穏な空気が漂いはじめた。
その時、その空気を一瞬で打ち消すかのごとく、一緒に座っていたおばあさんがその訴えに応えてくれた。
👵「家になんか帰らんでええ!!一緒に歌聴こ!!」
寄り添うとか根拠とか認知症ケアとか。そんなものはまったく度外視したこのストレートな引き止め。でもとうのおばあさんは、
👵🏼「あ~今歌やってんのか~」
おいおい…馴染んで一緒に歌番組観始めちゃったよ。というか一緒に口ずさんでるよ…記録がすごいはかどったよ。
僕が実際に何かしたわけでもなく、僕が同じことを言っても上手くいかないだろうし、当然おばあさんがもう一度言ったところで同じように思いとどまってくれるとはかぎらない。一回限りの、再現性の何もない、ケアとも呼べないものである。
でもケアって本来こういったものの積み重ねでもあるんじゃないだろうか。「気にかける」という語源のように、本人のことを少しでも気にかけていくことで、関係を育み、結果として色んなケアに繋がっていく。おばあさんは気にかけるどころか、すべてをひっくり返してしまったが。
そんな小さなエピソードが、日常生活を通じて、つぎはぎのように繋がっていく。それを手繰りよせ、どうにかこうにか現場は上手くやっていく。
根拠も科学も悪いもんじゃない。でも、強引に歌に誘ったおばあさんだって、悪いもんじゃない。
それを単に見てただけで、一言も発しなかった僕も、当然悪くない。立派なつぎはぎの一部なんだ。
そう自分に言い訳をして、記録には、今日も穏やかに過ごされている、と記入する。
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