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その手に握られたもの



おばあさんが食べなくなってきた。食べないのか、食べられないのか。その日その時によって微妙に違ってくるので判断は難しいが、それでも食欲旺盛だったおばあさんの食事量が着実に減ってきていることに、職員一同驚きを隠すことはできなかった。

やがて人は歳をとり、最後は食べられなくなる。そう教わってきて、何人もの方のその変化を傍で体験してきたが、何度その場に出くわしても、なかなか慣れるものではない。

おばあさんの身体は痩せ細り、食事も介助をすることが多くなってきた。この時、いつも迷うことがある。それは、職員に対して、「おばあさんはご飯をもうご自身で食べられなくなってきたので、介助してください」と指示を出す時、それはおばあさんに対して決定的な何かを奪うことになるのではないかと。

無論食べられる日もあるので、その都度出勤者とおばあさんとで今日はどうかと一緒になって決定してもらえればいいが、やがてその時はくる。そこでいつも迷うのだ。介助が必要になるのはもはや必然なので、仕方ないといえばそこまでだが、ここを迷わずにいってしまうと、自分が生殺与奪の権利をくだしているのだと、無意識に勘違いを犯すことになりかねないと、強く危惧している。

そんな時、おばあさんの食事介助をしていると、おばあさんはご飯だけは手掴みで食べていると気づく。昔から箸を使うが、途中で手掴みとなり、みんなでよく箸の使用を促していた。
もう箸を使うことも少なくなってきたが、それでも手掴みでご飯を食べていた。
じゃあおばあさんのこの手掴みで食べることを大切にしよう。そうみんなにも伝える。


なぜなら、おばあさんのその手に握られたものは、ただのご飯粒ではないからだ。食べるという行為は、生まれてから初めて自立した生活行為、自分というものを生きようとした、まさに主体性そのものだからだ。まだ自分はここにいるという思いそのものが、その手には握られている。だからこそこの手掴みで食べる行為を大切にしたい。

おばあさんに、自分はちゃんとここに生きている。そう思ってもらいたいから。それは、たとえ手掴みでご飯を食べることができなくなったとしてもだ。


おばあさんは今日も小さな手に包まれたご飯を、小さな口に運ぶだろう。それを少しでも見届けよう。そしていつかくるその時に、ちゃんと迷って決めたよおばあさん、と僕らとの関わりの中で伝えられたら幸いだ。

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