E.フロム”The art of living”より。愛する技術としての儒教の礼。仏教の中庸。
E.フロムは”The art of living”、邦題『愛するということ』で以下のように述べた。
「
愛には根強い問題がある。ほとんどの人にとって、愛とは「どうすれば誰かから愛されるのか」を意味してしまうからだ。愛とはそうではない。「私はどう人を愛すればいいのか」。本来あるべきこちらの問題は、残念だがほとんど取りざたされない。
」
なぜか。彼はその理由を様々考察する。端的に述べるとこうなる。
「我々はどうやって人から評価されるか、ということばかり無心している」。
つまり
男性は・・・「誰よりも人気がある。誰よりも強い。誰よりも正しい」と言われたい。
女性は・・・「誰よりも官能的である。誰よりも美しい。誰よりも魅力的」と言われたい。
そうあることが理想的だとする風潮は、実感として確かに存在している。しかしこれは、明らかに間違っている。フロムはそう示唆する。
「私はどう人を愛すればいいのか」。
こちらの意識へと変遷させてゆくためには、何が必要なのか。
一言で言おう。
「どれだけのものを、その人から得ているのか、を無心に捉える」。
ほとんどの人が与えていることだけを考え、怒りが収まらなくなっている。「こんなにあなたに尽したのに」「あげたのに」。
そうではない。フロムが述べた愛の問題、「私はどう人を愛すればいいのか」。それは、礼と同義。得たものに感謝できる、逆の視点の獲得。
ある生徒の親御さんはこう言った。「なぜあの子は分かってくれないんでしょう?」「どうしたらここまで気持ちが伝わらないんでしょうか?」。その時、こんなことを共に考えさせていただいた。
「逆に我々はAさんから何を得ているんでしょう?何をもらっているんでしょうか?」
「どういうことですか?」
「Aさんに与えているものは沢山あります。親御さんですので、それは凄まじい愛情を与えていらっしゃることも、お話しから分かります」。
「ただ、Aさんがいると楽しいとか、明るくなるとか、生活にはりが出るとか。例えばそういった、もらっているものも僕にはあるんです」。
私もその生徒と接するのは大変だった。しかし本当に楽しかった。だが本当に楽しかったその思いには、なぜかそうそう辿り着けなかった。なぜ?
私は与えているものばかり考えていた。だからである。「これだけ誠実に尽くして」「全てを投げうつくらいに時間を使ったのだが」。
そうではなかった。
彼と共にいるその世界。そこは心底、面白い世界だった。豊饒なハートフルな場所。例えば動物に凄く優しい。リラックスした幸福があった。共にいることで共に成長できる、遊びに満ちた学びの世界。儒教・仏教で説かれる理想中の理想、エネルギーに満ちた中庸である。
昨日、ある賢者からこう説いてもらった。
「中庸はガチガチの集中の中にはないんです。柔らかく、優しく、力まない。そんな気持ち良いエネルギーの中に存在するんです」。
自らを評価させるための教育は捨て去ってもいい。他人に礼を尽すことが出来る学びがあればそれでいい。与えているものに対して評価を得ようと躍起になるのではない。そこでは欲望が無限に増殖してしまう。貰っているもの、感じるものに対して無心を開く。その時、知足の充足を得て、無限の欲望から足を洗える。そこが真ん中の世界、中庸。我々は本来の姿に開かれてゆく。
彼らは一人勝ちをするために集中してきた。違う。一体となる優しい気持ちに、忘れられていた片割れの世界があった。それは故郷の優しさをもって、僕達を原点へと回帰させてくれる。
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