対話の力場

 ふと思い立って、下手なエッセイのようなものを書いてみる。普段とは異なる文体で。そういえばそもそも、最近noteを書いていなかったのであるが。

 他者と対話することはとかく難しいと日々感じる。ここで私は私自身が「コミュ障」であると喧伝したいわけではない。そうではなくて、私と他人であれ、他人どうしであれ、対話には普遍的な難しさがある。とりわけ個人と個人との間の関係性における継時的な対話の蓄積(より省略して言うならば、対話の積み重ねが関係性に与える影響)に注目したい。

 対話の蓄積の作用は、一部には「信用」という形で認識されるだろう。私がある他者に対して嘘や不確かなことばかり言っていれば、その他者は次第に私を信用しなくなる可能性が高い。実に当たり前で分かりやすい話である。例えば私が「君がこの仕事をやってくれれば十万円支払おう」と言ったところで、相手はもはや自分が仕事をしても十万円は支払われないと解釈するだろう。この時私の言葉は、私の信用の低さによって強く屈折されて相手に到達している。

 別な場合を考えよう。今度は私は正直な人間であるとする。しかし他者に対して批判的な指摘をする際にあまりに頻繁に修辞疑問文を用いる癖があったらどうか。例えば他者に頼んでいた買い物をその他者が忘れた時に、(忘れたことを分かっていて)「〇〇はどこにあるんだい?」など。すると相手は次第に、私から発せられる疑問文は基本的に非難や攻撃の目的の下にあると認識するようになるかもしれない。

 この二つめの例は二次的な悲劇に繋がりうる。ある時私がその相手に、本当にただ単なる確認のつもりで「牛乳は使い切った?」と尋ねるとしよう。もはや残念ながら、この言葉は相手に到達する前に強い屈折作用を受けることを免れない。相手にとっては、私が彼が牛乳を使い切ったことに対して何らかの非難を加えようとしているというメッセージとして伝わるのである。しかし彼にはそのことで非難される覚えなど無い。つまりこれは理不尽な非難である。彼は憤慨して「何?それが何かいけなかった?」などと反撃するだろう。今度は私が驚く番になる。「私はただ質問しただけなのに、なんでそんな攻撃的な態度を取られなきゃならないんだ!」こうして更に悪いことに、私は彼の「曲解」を責め立て始める。しかし彼は決して赤く見えているものを悪意を持って青だと言い張っているわけではないのだ。赤い光が私と彼の間にある空間において作用を受け、彼には実際に青い光として見えているのである。

 このような様式の対話の蓄積が行き着くところはつまり、相手にとっては私が疑問文を発した時点で「どちらにせよ詰み」になってしまうことである。ここまでくると、私とその他者との間の対話の「場」は完全に均衡を失っていると言える。そうなるよりずっと以前に、「場」を正常に維持するために振る舞いを修正し続ける不断の努力が必要だったのである。確かに他者に非がある個々の事例について、私が彼を批判することは正当であるし、(暴言ならともかく)嫌味を言うことぐらいは時としてあっても良いだろう。しかし過去から現在を経て未来に至るその相手との関係性について真摯に考慮した場合、対話の「場」の均衡を維持し、そこを通過する言葉の屈折を小さく抑えることに無頓着であってはならない。もちろんその義務は私にも相手にも、双方にある。「場」の均衡をスタティック(静的)に保つために不断の努力というダイナミズム(力動)が必要となる。

 均衡を失ってしまった対話の「場」であっても、絶対に手遅れとは限らない(と思いたい)。場合によっては、均衡を回復させる道筋が無いとは言い切れないだろう。もっともそれには維持するより更に大いなる努力が必要かもしれないが。逆に、悲しいことだが、維持する努力をしていながら失敗してしまう可能性もある。全てがうまくいくとは限らない。しかし私はその努力に「誠実」の核心を見出すのである。


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