板橋区立美術館「シュルレアリスムと日本」展より覚書

 2024年4月13日(土)に、板橋区美術館で開催されていた「シュルレアリスムと日本」展を観てきました。以前にSNSで本展覧会のことを知り興味を持ったのですが、なかなか行けずにおり、しかし会期が4/14(日)までで終わってしまうということでなんとかギリギリに行った次第です。
 さてこの記事のタイトルで「より覚書」としたのは、ここでは展覧会の総括的な感想を器用に書くのではなく、その一部、というよりある一作品に関して書き留めておくという目的によっているからです。その作品とは阿部展也「飢え」です。
 
 阿部展也のぶや(本名芳文、1913-71)は新潟県出身で、絵画は当初独学したといいます。1937年に瀧口修造との共作詩画集『妖精の距離』で画家として大注目を浴び、また前衛写真家としても活動しましたが、1941年から陸軍報道部写真班員としてフィリピンに徴用され、復員をはたしたのは1946年だったとのことです。この「飢え」という作品は復員後まもなく、1949年に制作されました。
 この作品を遠目に見れば、もしかすると砂浜に流木が横たわっているかのように見えるかもしれません。確かに構図という点では、かつて1930年代に彼ら日本のシュルレアリストの絵画作品にも盛んに見られたサルバドール・ダリの影響、その面影があるようにも思われます。しかしこれは流木ではなく人体なのです(木の枝や岩らしきものも画面に描かれてはいますが)。茶ばんだ、あるいは座り込んで、あるいは俯して、あるいは仰向けになっている、人体なのです。肉がげっそりと落ち、そのために節々が奇妙に膨らんで見える、もはや生命を宿すための機能をほとんど失った肉体。その傍らに転がっている一台の空っぽの飯盒。シュルレアリスムの画家はしばしば画面の中で物体の形態を歪曲させますが、展也がここで描いた人体は、おそらくアジア・太平洋戦争の前線の各地で実際にこれに近い様相が見られただろうという我々の想像を、強烈に裏付けるように存在しています。画家は目にしたのかもしれません、おぞましい空想であってほしいような紛うことなき現実を。
 〈超現実〉の画家としての本領が、あまりに生々しい〈現実〉を描くために発揮される……なんという悲痛な皮肉でしょうか。胸の奥部にズシンと鈍い衝撃を喰らったようでした。

 シュルレアリスムの運動には若い画家たちが多く参加しており、彼らの中には従軍してそのまま戦地で没した方々もいました。それから八十年近い年月の間、日本に生きる我々にとって戦争は、直接肌が触れるように隣り合わせのものではななかったでしょう(これはやはり幸運なことと言うほかないでしょう)。もちろん世界を見渡せば現在に至るまで戦争や武力紛争が、たとえ我々がそこから目を背けたとしても、間違いなく現実として存在していることを認めなければなりません。だからといって我々が日々の生活の中に楽しみを見出すことに罪悪感を感じなければならないとは思いませんが、その我々の日常もともすれば脆いものでありえ、芸術はそのような日常の危うい瞬きと格闘する営みであるかもしれません。

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