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読切小説「息の苦しい状態が続くことに白鳥は死んだ」

読切小説「息の苦しい状態が続くことに白鳥は死んだ」

誰も知らない湖のほとりに住み始めて二十年の月日は流れていた。初めてここへ来た時、山のざわめきに恐怖したことが懐かしい。

木々が風に揺れて、葉っぱ一枚一枚がこすり合わす音さえも怖かった。ザワザワと姿のない音域が包み込むような感覚さえあった。風のない世界があれば教えて欲しいと思うほどだ。

それでも数日経てば、人は不思議と無関心に似た慣れを身体へ染み込ませていく。それを感じて、心なしか楽になったのは間違いなかった。

寒さにも慣れる必要があった。暖を取るのも自然と共同生活するには大変であった。薪割りを見様見真似で出来るようになった時、人生で一番の嬉しさがあったのを覚えている。

ここに来る人は居ない。冬には雪が降り、緑だった景色を白一色の世界へと躊躇なく変えた。

明日の運動会に備えて、白線を引く大人たちに小さな好奇心が生まれた。私も縦横無尽に運動場へ白線を引いてみたかった。もちろん雪のある景色に白線を引く意味などなかったけど、どこかで意味のある白線を求めていたことは間違いない。

一人で生きるには寂しすぎる場所だから。トラック一周を一人で走っても虚しくなるばかり、誰かの隣で一緒に走りたいと思っていた。そんな風に思い始めたってことは、きっとどこかで淋しさを感じているんだろう。

認める心が、素直な自分と向き合う瞬間で、認めない心はくだらないプライドという言葉の集合体であった。

昨日の夜に降っていた雪が脅威の対象となる時、私はいつも窮屈な箱に閉じ込められた感覚に陥った。四方八方を白一色に固められて、苦しい思いをしてしまう。

十年かけて建てた理想のログハウス。私は太陽の光を求めて、ログハウスから外へ出た。正直な気持ちを打ち明けてしまうと、雪に覆われたログハウスが私の心を窮屈にするからだ。

新鮮な空気を求めるように、朝の光に呼吸を整えようと外に出る。澄んだ空気と夜から朝に入れ替わった光を身体中へ浴びせた。

そして思うことは今日も生きている。

永遠に続く淡い青空へ腕を伸ばして、私は太陽に向かって挨拶をした。ありがとうございますと。生命の育む力を手のひらに感じながら、今日の生きることへの感謝に変えた。

そんな私の日課は、凍りついた湖を探索することである。探索と言っても、山の空気や風を身体全身に感じながら歩くことである。

湖の周りをゆっくりと、時間も気にせず一周する。隣には誰もいないけど時間をかけて一歩ずつ前進して、心の乱れを平常心にしようと務めた。

この日も朝早くから湖の畔へと向かった。朝靄のパントマイムが目の前で広がる光景。そして、寒さに負けて凍りついた湖を見つめた時、そこに一羽の客人が湖の水面を歩いていた。

何十年と一人で生きて来た私にとって、その客人は驚きと喜びを与えてくれた。真っ白い世界に黄色いくちばしが生える。私は湖の淵まで近づくと、その色鮮やかな黄色いくちばしを見つめた。

向こうは私の存在に気づいていないのか、ヨチヨチと凍った湖の水面を歩いている。

「ようこそ、真っ白な世界へ」と私は白鳥に向かって声をかけた。

次の瞬間、白鳥は私の方を振り向いて真っ黒なつぶらな瞳で、ジッと見つめ返した。そのつぶらな瞳の奥に何かを感じ取ったかもしれない。異様な雰囲気が辺りを包み込み、私と白鳥の間に分かち合えない壁を想像させた。

白鳥は伸ばした首を動かすことなく、私のことをずっと見つめていた。私も白鳥の瞳から目を逸らすことができなかった。

一人の人間と一羽の白鳥は、通訳の居ないツアー客同士みたいに戸惑いの中で見つめ合う。不思議とお互いに動こうとしない。

私も白鳥も様子を伺い、この状態から脱出することができなかった。

どれくらいの時間が経過したのだろうか?

それもほんの数分かもしれなかったけど、私も白鳥も長い間見つめていたと感じていた。分かち合えない壁を間にして、私たちはいつまで動かないつもりなのか。

そんな風に私が思った時、二人の間に白い雪が一つ二つと降り落ちてきた。

私の瞼に白い雪の玉が触れた時、目の前で白鳥の黄色いくちばしが白く変化した。それは私の知らなかった合図でもあった。

動くことをしなかった白鳥は、伸ばした首をゆっくりと凍りついた湖に寝かした。あとには白鳥が凍りついた湖で倒れている姿だった。

私はゆっくりと慎重に湖へ向かって歩き出した。そして倒れ込む白鳥のそばへ近寄った。白鳥は真っ黒なつぶらな瞳のまま、凍りついた湖の水面で息をしていなかった。

そんな白鳥の頭を撫でながら、白くなったくちばしに涙をこぼした。白鳥は決して分かち合えない壁に苦しみ、息をしなかったのだ。

呼吸することを忘れて、命まで止めてしまった。私は白鳥を抱きかかえて、湖から少し離れた土に埋めてあげた。

雪が溶ける頃には、分かち合えない壁も無くなれば良いのに。

私が世間から逃げたのは、きっと分かち合えない壁に息をするのも苦しかったからなんだろう。

そんなことを思っては、あの頃の自分に呼吸する勇気を教えてあげたかった。

~おわり~

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