見出し画像

慥かめる

去年あたりから、メッセージだけで繋がっている友だちが増えた
主に語学をきっかけに色んなルートから知り合って
今はやり取りが途切れた人もいれば、頻繁でなくても長く続いている人もいて、
中には顔を知っていたり、住所を教え合ったりした人もいるけれど
ペンネームしか、声しか、知らない人もいて
時には、なんともふしぎな気もちが起こる。
ひとりひとりが当然別の場所に生きていて、
毎日挨拶を送り合うことは難しいけれども
メッセージが途切れたら、やり取りが無くなったら、
元気かな?ってちょっと気になって、
待ったり、話題を増やしたりして
でも無事を確かめる術はなくて
大抵は杞憂で終わるんだけれども
連絡が来たならやっぱり嬉しい
いまも現在進行形で、そんな友だちのひとりの心配をしている。珍しいことに1週間くらい連絡がつかない。元気でいたならいいな

私が2日間返事をしないでいたら、あるひとりから「大丈夫ですか?」というメッセージをもらったことがあった。返事が遅くてごめんねと言った。こういう気もちになる。なれる。いつか/また  会えたら嬉しいけれど、会わないまま死ぬかもしれない、そんな友たち。
人間みんな、望んでも望まなくても だれかと関係している。その関わりが増えたばかりに、私はこういう気もちになってしまっている。
実際、ひとは病気になるし、忙しさにつぶれる日も、悲しくてたまらない日もある。毎秒だれかのことを思いやれるわけじゃないし、死にたくなる瞬間だってあるかもしれない
今日だって事故は起こって、心は揺れ動いて、だれかの誕生日で、だれかの命日。
事故や病気のあと 奇跡的に助かった話も、助からなかった話も、身近に転がっている。
子どもの頃に死んでしまった同級生のこと、いつもどおりの朝に別れたままもう会えなくなった人たちのこと、
未だに夢に見るほどの悲しいことが沢山、私をいつも心配性にさせる。
ひとり暮らしの私は、倒れてしまったら誰にも気づかれないんだな、恐ろしい。生きねばと思う
そんな風にね、だれかの毎日が自分のと重なることが増えたのだ
連絡、また取り合えたらいいな

春節のとき、WeChat で見知らぬ人たちから大量のメッセージが届いた。(ふだんは全く来なかったのに。どういうタイミングなんだろう、明るい気もち?大きな気もち?)※WeChatには物理的に近い距離にいる人を検索して、挨拶メッセージを送れる機能がある
すこし驚きながらメッセージを読んで、不愉快なものはすぐにブロックして、大抵は眺めて終わって、気が向いたものにだけ返事をした。
表記されてる国籍も出身地も、挨拶の言葉もさまざまだったけど、人間たちの、浅い言葉の不快さ、純粋な思いの透明感を、画面の文字から感じた。
実際に女の子が男性表示にしていたり、その反対もあったけど、気分よく付き合えればそれでいい。
本当のことなんてね、ほとんどわからないけどね
でも高いところから俯瞰して見たら、犯罪に近いこと以外は結構ゆるせちゃう。不愉快なことぜんぶを憎んでいるわけじゃない。ばかだなぁって、無視したり、さよならをする。季節や身体に踊らされてる、私たちはどうせ死ぬ

顔の見えないやり取りの残虐性が、世の中ではたびたび話題になっているんじゃないかと思うけれども、その逆も私には強く実感があって、とても嬉しい思いを沢山した。(もちろん不快なこともあったけどそれは僅かで、さいわい些細なこと。すぐ忘れることにしている)島国だけで完結している交流とは、すこし感覚が違う気もするし。文化や習慣、価値観の違いは、同じ国の人とのそれ以上に多いかもしれないから。
それだから相容れないことと、それなのに共感しあえることの、どちらにも実感があった。
私にとっては、生まれて初めてまじめに続いている語学も、だからこそ出来た繋がりも本当にすごく大事で、いつまでも続けばなぁって、思っている
言葉が拙くても考えて、読み解くのだ。
意味を知りたい、言葉にしたい。教えたい、知らせたい、渡したい。どれも優しさで、勇気で、まごころじゃないか。
これはお祈りみたいな日記のつもり。
みんなみんな、なんでもありませんように。
明日もすこやかに続きますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?