見出し画像

比べる科学を妄想する

こんにちは。

最近、科学系のポッドキャスト聴きつつ、図書館でニュートンや日経サイエンスを読み漁り、kindleで数学、生物、物理、化学、地学の本を読み漁っているゆきとです。

元々好奇心に足が生えたような生き物だったので、小中高と、天体観察や古代生物、歴史関連に夢中でした。

しかし、「仕事に結びつかんことばっかりやって」と大人から馬鹿にされ、好きなことに明け暮れることを否定され続けた結果、結局好きなことに蓋をして、【手に職】という方向に頑張っていたわけですが、心がついに悲鳴を上げ、現在は「仕事行きたくないなー」とか思っているダメな大人です。

オーパーツが流行る

 クリスタルスカル、黄金シャトル、ピリ・レイスの地図など、わくわくするものは尽きませんでした。

こんなのたち

 オーパーツとは、発掘された時代背景に適合しないものだそうですね。
 場違いな工芸品(Out-Of-Place Artifacts)の頭文字を取って、OOPARTS(オーパーツ)というそうです。
 宇宙空間で液体にして再結晶したかのような、コスタリカの真球とか、正確な天体運行を計算すると言われるアンティキティラ島の機械など、興味深いものはたくさんありました。

 学生時代に読んだ【神々の指紋】は、どこに置いて来たんだったか……。

 20世紀は地球外生命についての議論をタブー視していた時代だそうです。
 捏造や誤報、NASAが誤った情報を発表するなど、何度も手のひら返しをされた結果、イソップ童話の狼少年のように、信じない側が優位に立っていったそうです。

 信じる信じないとかではなく、確率論的に考えても「存在しない」というのは無理があるだろうと私は思っていました。
 それに、現代だけの話ではなく、遥か過去の文明のどこかにも関与していておかしくは無いということを普通に考えていました。

 人間って、自分達の理解を超えたものは、大抵畏怖の念を持って神と祭り上げる生き物ですし。

 私は目の前にある謎について、あらゆる可能性を考えていただけなのですが、周囲の人たちが、「これはオカルト!」と、思い込みで固まっている風潮だった気がします。
 もうちょっと後に産まれていたら、もう少し楽だったんだろうか? と思ったりもしますが、どうなんでしょうね(汗

そろそろ比較の話へ

 人類って、同時期にいくつもの種族がいたんですよね。
 その中で、他は滅んでホモサピエンスだけが生き延びたというのが定説となっていました。

 その、人類単一説も疑っていて、ビッグフットや雪男の伝説は、他の類人猿の生き残りじゃないかと思っていました。
 そして、最近の研究を知って、凄くわくわくしています。

"絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)

 遥か昔の文明が、高度な技術を持っていたという創作物は数多く存在しますが、昔大人気だったRPGの【クロノトリガー】で古代文明ジールが、現代を遥かに凌ぐ高度な文明で……という設定が、大好きでした。

 ゲームには恐竜人というのも出てきて、確かに恐竜の生き残りが二足歩行になっていても不思議ではないと感じていました。

 未来で手に入れたタイムマシンを遥か古代でアップグレードするんですよね。

 現代が最先端なのかどうか、まずは疑っておくというひねくれた思考回路を持っているので、オーパーツというのが面白くてしょうがないわけです。

 宇宙の大規模構造と、素粒子の世界、どちらも馴染みがないものだと思いますが、私はとても似ていると感じています。

 前の記事でも一度ふれましたが、宇宙の大規模構造と、脳神経のニューロンの構造が、見分けがつかないほど似ているんだそうですね。

 それと似た話で、遥か未来と、遥か過去、現在を軸に考えると真逆なんですが、遥か過去の人からすると現代は遥か未来で、遥か未来の人からすると、遥か過去です。
 何処を基準に考えるかで、前後、上下、大小、強弱、速さ、難易、あらゆる当たり前が多様化します。

 この書籍では、無限という概念の途方もなさも解説してくれています。
 未来に行く方法、過去に行く方法、遠くへ行く方法などを皮切りに、多元宇宙論、
 見やすくて読みやすいけれど、超真面目でめちゃめちゃ詳しい科学の本です。
 是非おすすめします。

 どんなに巨大な数も、有限である限り絶対に越えることのできない無限。
 無限に繰り返される宇宙の盛衰の過程の話や、並行世界の話は、楽しくて仕方ありません。

 以前、遥か未来の荒廃した世界を描いているようなロボットが主役の話が、実は現代に繋がる遥か超古代の物語だったという結末の創作物がありました。

 ネタバレになるので紹介自体やめておきますが、かなり衝撃的でした。

 何度歴史が繰り返されたのか、正直痕跡が無ければわかりませんよね。

 多元宇宙論というものがあります。
 マルチバースとも言われますが、宇宙が何度となく産まれ、その中から子宇宙、孫宇宙が生まれるという理論です。

 宇宙の始まりとされるビッグバンすらも、その過程の一つだと言われています。

【永遠に続く】【無限に続く】となると、【これまでに存在しなかった】と言い切れるものも存在しないので、【存在した可能性もある】ものだらけとなります。

 これは平行世界の考え方に繋がってきます。
 このあたりも、【私たちは時空を超えられるか】に分かりやすく書かれていました。

 同じ時空間(とも言いきれない?場所)に、お互い認知し合えない存在があってもおかしくないというわけです。

 私は同様の理屈で、温度についても、ホントに絶対零度以下が存在しないのかを考えていたりします。

星という概念

 宇宙には星というものがいくつも存在していますよね。
 地球も太陽も、月もその一つです。

 では、地球の中には存在しないのか?
 と、考えていたりします。

 外側を見る技術が進歩していますが、ミクロの世界を追求するのも技術の進歩も相まって研究が進んでいっているを感じています。

 量子の世界では、観察者の存在が量子の振る舞いに影響を及ぼすというのが面白いと思っています。
 誰かが言っている悪口も、本人に聴こえなければ、存在しないのと変わりないと思っているんですが、何か似てる気がします。
 それと、保育者の存在そのものが既に保育環境であるというのとも似ていますね。

 存在同士は常に影響し合うため、完全なる傍観者にはなりえないということですね。

 ちょっと話がそれてしまいました。
 原子や分子、素粒子、クォークなどの姿と、惑星、太陽系、銀河系、銀河団、大銀河団の客観的な姿が似ていると感じています。

 そうなると、素粒子を星のような存在と見立てた存在がいてもおかしくないのではないかと思い至ったわけです。

素粒子と太陽系

小さな世界とその外側の世界

 自分達が世界の中心として、知っている範囲を世界と定め、その世界のトップに君臨して、支配圏を塗り替え合う歴史がこれまでに幾度となくあったようです。
 縄張り争いの延長ですが、形を変えて今でも様々なところで繰り広げられています。
 王様は国の王で、皇帝は世界の王だそうですね。

 抽象的でちょっと皮肉な表現にすると、井戸の中で蛙が王国を作っているようなイメージです。

 小さすぎて気づけない世界があるような気がしてなりません。
 逆に大きすぎて認知出来ない世界もありそうです。

 比較出来る範囲ならいいんですが、出来ない規模の世界なら、宇宙そのものが何かの細胞の一つだと言われても、おかしな話ではない気がします。

 どんなに頑張っても井の中の蛙であることから抜け出すことは出来ないと感じます。
 やっとの思いで出たと思ったら、まだ内側にいるわけです。

メビウスの輪は裏と表、クラインの壺は内と外

 まさにクラインのツボですね。

 では、まだ妄想は尽きないので、また別の記事でも語ることにします。

誰かの心にほんの少しでも風を送れるものが発信出来るよう自己研鑽していきます。 当面はきっと生活費の一部となりますが、いつか芽が出て膨らんで、きっと花を咲かせます。