ジョーカーとして共に生きる

私は中村文則氏の著作を推理小説やミステリーだと思ったことはなかった。しかし、今回この読書感想文を書くために一言一句読み、深く考えたことで、そういったジャンルに当て嵌めようとすること自体が間違いなのだと気づいた。あえていうならば、これは純文学推理哲学書だ。

 私は今回の作品を読んで、モノとモノの境界線は実は曖昧なのではないかと強く感じた。モノとは物質的な物ではなく、タロットカードとトランプ、マジックと占いとギャンブル、勝ちと負け、女と男、善と悪、生と死 サディズムとマゾヒズム。全てだ。巨悪のような存在の佐藤は、かつて人を愛し、友人を無くした人間的側面があった。その友人は養護施設で働く善的な存在でありながら、小児性愛という性癖を抱えていた。手品師は「場を支配している感覚」と言っているが、実際は踊らされていた。
 主人公は「人が破滅する瞬間には快楽がある」と言っている。もしそこに自分が破滅する可能性が完全に0だった場合、同じ快感が得られるのだろうか。私はそうは思わない。その差が僅かであればあるほど、境界線が曖昧で見づらければ見づらいほど、人は惹きつけられ、快楽を貪り、破滅に足を踏み入れていってしまう。主人公も、最初は弱みをもつ女性に心理的誘導をする占い師だった。それが闇カジノのディーラーになり、ジョーカーを抜いた52枚のカードで、「人間の人格を変え、人生を変え、その本人を殺し、周囲の人間達の人生まで」変えていた。果てには、自らが法外な賭け金のカジノの参加者として、ポーカーをプレイするまでになっていた。主人公の言う快楽とは、安堵なのだと思う。破滅に近い環境に身を置き、自らの生を無理矢理感じようとすることで、まるでゴミを投げ入れる時の願掛けのような感覚になるのでないだろうか。
 この物語は、快のすぐそばで待ち構える痛みや苦しみを経験し、占いに答えを求めるも信じることができない大切なものを失い続けた少年が、大人になり、必死にそれ以上の悲しみが起こることのないよう全てをコントロールしようとする。そして自分は破滅する側の人間ではないことを証明しようと躍起になるうち、ラインを踏み越え続けてしまう話なのではないだろうか。彼が失うことを恐れ、悪魔に山倉を遠ざけてくれと頼んだのと同じように。その悲しい考えに至ったとき、私は生き方について考え始めた。
 続くべき日常、生は、ある日突然何かのきっかけで失われる。例えば、自然災害やウイルスのような不可抗力かもしれないし、自らの過去のしっぺ返しかもしれない。「you will take a red card」死も不幸もそれは避けられないことなのだ。 私の好きな言葉に一つに「人は生まれた瞬間から死に向かって歩いている」(池波正太郎)というものがある。この世の中の全てが曖昧なのだとしたら、私はどう生きるべきだろうか。
 現実は、この作品のように善であろうが悪であろうが、関係なく理不尽な運命を与える。英子のように自身の信念を持って生きるのも一つだ。その妹のように、憧れ、嫉妬した相手の人生を模倣し生き直すのもいいかもしれない。私はこの作品を読み、誰かのジョーカーになりたいと思った。ババ抜きでは忌み嫌われるジョーカーも、「ルール次第では(中略)息苦しいほどの序列や格差に、混乱や誤差を与える存在」になれる。私は誰にでも好かれるようなタイプの人間ではない。実際、嫌われてきたことの方が多い。それでも、私は自分の正義を貫いてきた自信がある。人に優しくすること。困っている人がそれを覆す気力や勇気がないなら、自らが矢面に立つこと。確かに、この同情癖は私の人生を大きく何度も変えてきた。主にあまり幸福ではない方向に。人間の本質は簡単に変わらない。私は、争いや他人の不幸を無視できない厄介な自分の感情の動きを、何度も疎ましく思ってきた。しかし、もしこれが誰かのジョーカーになれるなら、それも悪くないと思える。なぜなら、占いや神が私たちに事実を教えることがない以上、先に何が起こるかわからないこの世界では「誰も完全に絶望することはできない」から。だったら、1人でもそこにいて共に生きてくれる方がいいではないか。中村さんの本が私にとってそうであるように。私も誰かのジョーカーとして共に生きるのだ。

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