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ぼくのアイデンティティとしての兄弟。

「兄弟はいますか?」と訊ねられたときには、
たとえば、子供のころから大人になるまで
一貫して同じ答えを言う人もおられれば、
年が経つにつれて答えが変わってくる、
という人もおられるとも思うけれども。
ぼくの場合は、その後者だなあ。
でも、それはね、じぶん自身に弟や妹ができた、
というわけじゃあない。

ぼくの父と母とのあいだには、
子供はぼく一人だけなので、長らくのあいだ
つまり、子供のとき、そして20代のころには
「一人っ子です。」と答えていた。
そう伝えると、だいたい結構な確率で
「やっぱり〜!」とか言われたりして、
いったいなにがやっぱりなのか知らないけれども、
おそらく、一人っ子の特徴
(それも、よくないほうの特徴?)が、
よく現れているのやもしらない。

でも、じつはぼくには兄がいる。

母はぼくの父と結婚する前に離婚をしていて、
その前の婚姻のときの子供が、ぼくの兄だ。
兄とはぼくが幼いころからちょくちょくは会っていて、
今でもときおりLINEをしたり、また、
一緒に住む母と二人で会にゆくこともある。
でも、兄と暮らしたことはないので、
とくに、子供のころには
兄が「兄弟」という意識は持っていたとしても、
ほんとうのリアルではそう感じてなかったやもしらないな。
なので、兄弟の有無を訊ねられたときには
いつも「一人っ子」なのだと答えていた。
もしくは、そういうようなもろもろのことを
ちゃんと答えるのは煩わしい、と思いつつ
そう言っていたのかもしれない。

けれども、あるころ、それは
20代後半ごろだったと思うけれども、
ほんとうの感覚としてぼくは一人っ子ではなくって、
兄がいる、と思おうと思った、
と申しますか、もっと言えば
そう思わないといけない、と感じたんだった。

その理由としてはね、たとえば、
兄弟のことを訊かれて一人っ子だと答えると
「やっぱり〜!」みたいに言われるのも、
ちょっといやだし、そもそもを言えば
ぼくは一人っ子ではないのだし、そしてまた、
そう答えるのは兄に対して申し訳ない。

そういうふうに考えるようになってからはね、
「兄弟はいる?」と訊ねられたときには
「兄がいます、でも、
 母が離婚していて父親はちがう兄です。」
みたいなふうにして答えるように決めているの。

家族関係や兄弟の関係性って、
一概に言えるものでもないのだろうし、
また、その家族や兄弟によって、おのおの
いろいろと複雑なこともあるとも思うけれども。
ぼくはぼくとして、子供のころから
兄についてのことを母より聞かされたり、また、
兄と接したりしてきて、ぼくなりに
「兄弟」のことを考えてきたはずで。
このことってば、でも、たとえば、
ぼく自身のアイデンティティとも深く深く
関連しているかのような、つまり、
ぼくの人生形成において、
とっても大事なことだとも感じている。

兄弟について訊ねられたときには、
「兄がいます。でも、母が離婚していて、、」
とのように答えたら、もしかしたら
そんなことまでは訊いてない、
とも思われるやもしらないけれども。
でも、たとえそう思われたとしても、
ぼくはこれからもそう答えてゆきたい。
まあ、つまりはさ、
それがぼくなのだから〜。

令和5年8月21日


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