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宣言。

だれかへ言うことば、
というのは、つまりは、
「宣言」
のようなものかもしれないな。

たとえば、
「ちょっとお醤油取って〜!」
ってえのは、醤油を使う、の宣言だし。
ほかにもね、えーっと、なんだろう、
例はあんまり思いつかないが。

さくじつのブログの中で書きました、
ぼくが父に最期に伝えたことば、というのも、
再度申しあげますと、
以前、父の荷物を整理していたときに見つけた、
父が書いていたノートの中に書かれていた
「秀之(ぼくのこと)が心配である。」
ということばの返答としての、
「心配ないから。」
だったのですが。

この
「心配ないから。」
というのだってもね、
ぼく自身の「宣言」である。と言える。

それを、ただ言っただけでは、
心配さはぬぐえないし。
心配ないかどうか? は、
じぶんのこれからの行動にかかっている。
って、そういうふうに考えてみれば、
これからのじぶんが、
どういうふうに過ごしてゆくか。
ということの、「宣言」なんだ。

それがさ、ある意味ではさ、
「有言実行」という四字熟語もあるけど。
あらゆる、じぶん自身が言う(書く)
すべてのことばが、
そういうような「宣言」として
機能するとも思うんだよね。

だからこそ、
じぶんの気持ちに「嘘」をつきながら、
なにかを言ってしまえば、
その宣言も「嘘」になってしまうし。

その「嘘の宣言」どおりに行動すれば、
じぶんの気持ちに
「嘘」をついた行動になってしまうだろうし。
「嘘の宣言」は、嘘なんだから。と、
行動しなかったならば、
ただの「嘘つき」になってしまう。

じぶん自身の言った、
おおきいことばも、
ちいさいことばも、
すべてが「宣言」なのだとすれば、
それがたとえば、いつ出来そうか?
というような、時期みたいなことは
すこし横に置いておきながら、まずは、
じぶんがなにを「宣言」したのか?
というのを、ずっと忘れないようでありたい。

令和2年11月7日


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