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人間関係と花鳥風月の手記。

以前、養老孟司さんがご著書の中で
「自殺した子どもの手記には、人間関係のことばかりで、
 花鳥風月がひとつも描かれていない。」
とのようにおっしゃっていて、このことを読んで以来、
「人間関係」と「花鳥風月」について、
折に触れて考えるようになったのですが。
ぼく自身でも、日々、こうしてブログを書きながら、
このブログの中では、それほど
「人間関係」のことは記してないと思うけど、でも、
「花鳥風月」も記していないと思える。

「花鳥風月」とは
「自然」なのだとすれば、
「人間関係」とは
「人工」であり、ならば、
「人間関係」という四字熟語の対義語は
「花鳥風月」だとも言えるやもしらない。

このうえでね、ぼくはブログでは
「人間関係」のことは記していない、
と申したけれども、でも、どちらかと言うと
じぶん自身の頭の中で考えたことを書くことが多いので、
つまり、それもまた
「人工」のことだと考えられる。

だからこそ、ぼくも
「花鳥風月」を感じられるようでありたい、
と思いながら、そうとは言えども、
花の名前もよく存じないし、
鳥の生態にも詳しくないし、
風や風景に無頓着であるし、
月や星を眺めるのもするわけでもない。

そんなぼくは、頭の中で
考え過ぎてしまっているようなときには、
頭の中から抜け出すようにして、つまり、
頭の外を意識できるようであれたい。
つまりはさ、
「花鳥風月」を想えたい。
でも、すぐにね、
そのことを忘れてしまうんだから。

そう考えれば、たとえば、
季語を含める「俳句」に憧れる。
ぼくは俳句は詠めないけれども、
日々、季語を想えるようであれたい。

養老先生のおっしゃるような
「自殺した子どもの手記には、人間関係のことばかりで、
 花鳥風月がひとつも描かれていない。」
なのだともすれば、逆を鑑みれば、
「花鳥風月」を描けば、
困難な人間関係も、おのずと
解決へと近づけるやもしらない。

花は、鳥は、風は、月は、
そのように、ぼくへと
告げているようにも思える。

令和6年3月25日


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