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「盛りたい」願望とありのままの自分

あなたは「盛る」という言葉を聞いて
何を思い浮かべるだろうか。

盛り塩、盛り蕎麦
そんな言葉を思い浮かべる人は
私と同じもしくはそれ以上の世代の方であろう。

「盛る」という言葉は
自分を現実以上に飾り付けて
瞬間的に別人のように見せることを
表す言葉である。

極端なメイクで目を大きく見せたり、
写真の加工で顔を小さく見せたりすることを
「盛る」と言う。

この言葉は外観上だけでなく、
経歴や実績なども誇張して表現することを
「盛る」というそうである。

なぜこの言葉が気にかかったかというと
先日こんなエピソードがあったからである。

その日は営業担当の先輩と一緒に顧客先を
訪問していた。

顧客先は繁華街の近くにある。
車を少し離れたところに停めて
繁華街を2人で歩いて抜けながら
話をしていた。

その人は私より10歳ほど年上で
娘さんがもう高校生になるという。

先日その娘さんがプリクラを撮って
持ち帰ったのを見てみると
全く別人のような顔になっていて
驚いたという話をされていた。

私も以前にプリクラを撮ったのは
いつか思い出せないほど前である。

だが、当時から写真を撮影すると
少し目が大きく映る機能は
あった気がする。

それが今ではさらに進化して
別人かのように「盛れる」そうなのだ。

そのプリクラを見た先輩は娘さんに
「こんな別人みたいな写真を撮って
なにが楽しいの?」
と聞いたそうである。

すると
「自分でもこんな顔になりたいと
思ってないけど、
変身したみたいで楽しい」
と答えたそうである。

今の時代、
スマホでいくらでも高画質な写真は
撮ることができる。

そして、写真を加工するアプリは
無数に存在しているのだ。

そんな時代において
いまだにプリクラが生き残っているのは
よく考えれば不思議なことである。

しかし、このような人の変身願望を
シールというあえてアナログなものに
閉じ込めることがいまだにウケているのだ。

今の若者はデジタルの便利さも
その怖さも理解している。

SNSで炎上して人生が変わってしまう事例も
少なからず目にしているからである。

その意味でデジタルで「盛った」写真を
多く残すことは、
リスクを伴う行為なのだ。

ところがプリクラは一旦データにこそなれど、
閉鎖された機械の中で
周りから見られることはないし、
出てくるものはプリントされた
シールである。

そのシールを写真に撮って拡散することは
できなくはないが、
基本的にシールの枚数分しか広がることはない。

私たちは基本的に心のどこかに
変身したい願望を持っている。

以前の記事にも書いたが、
それは私たちが劇的に変化することが
できないからである。

冒頭の言葉を使うならば
私たちは「盛りたい」生き物なのだ。

写真を撮るときに映る角度にこだわったり
髪の毛を整え直すのも
瞬間的に素敵な自分でいたいという
願望の現れなのである。

しかし、現実的に私たちが
大きく変わることはない。

心の中で変身したいと願いつつも
ありのままの自分を受け入れざるを得ない。

このジレンマを常に私たちは
抱えながら生きている。

ありのままの自分を
受け入れることの大切さは
色々な本で説かれている。

では、ありのままの自分なら
どんな適当な身なりでもいいかと言うと
決してそんなことはない。

ありのままの自分の中でも
自分の印象を良く見せようと
外観を磨くことは大切であるし、
社会で生きるためのマナーの一つでも
あるからである。

その意味で私たちは
変身願望を0にすることはできない。

ありのままの自分を受け入れるためには
このことを理解しておくことが
実は大切なのである。

盛りたいと思うことは自然な事なのだ。

そのうえで今の自分を受け入れてやれれば
私たちはもっと楽に生きられるのでは
ないだろうか。

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