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手作り神話の正体

あなたは手作り〇〇と聞いて
何を思い出すだろうか。

手作りクッキー
手作りハンバーグ
手作り弁当

なんだか食べ物ばかりが浮かぶのは
私だけなのかもしれないが、
なんとなくこの手作りという言葉がつくと
それだけで美味しいような気がしてしまう。

しかし、この言葉が価値になる裏には
私たちの思い込みがあるのではないか。

ようこさんのこの記事を拝読して
考えさせられることがあったので
今日はそれを記事にしてみようと思う。

この記事のなかでようこさんは
子供さんの保育園で要求された手作り前提の
布団カバーについて書かれている。

手作りになぜか縛られる風潮、
そして多くの人の中にある「手作りせねばならない」
という思い込み。

それにハッと気づかされる内容であった。

それと同時に、私の中で一つの疑問が生まれた。

なぜ「手作り」が価値になる場合と
そうでない場合があるのだろうか。

アパレルではないが、私は繊維関係の仕事をしている。

この話をすると結構驚かれることが多いのだが、
私たちが日常来ている服もハンカチもカーペットも
基本的に繊維製品はほとんどが人手で縫製されているのだ。

つまりほとんど全ての繊維製品は「手作り」である。

”バングラデシュ 縫製工場”などと検索をすれば
沢山の画像が出てくると思うが、
令和になった今の時代でも縫製は人手でないと
成り立たないビジネスなのである。

しかし、冒頭に質問した”手作り”とつく言葉に
繊維製品が上がることはあまりない。

偶然ようこさんの記事に書かれていた事例が
ふとんカバーで、繊維製品であったが、
ユニクロに行っても、しまむらに行っても
どこにも手作りという文字はない。

つまり、アパレル業界において”手作り”とは
価値にならないということである。

ところが、このような話をすると
「オーダーメイドのスーツは手作りを売りにしている」
「メルカリでハンドメイド品を売っている人がいる」
と思われる方もいるだろう。

これらでは確かに”手作り”が売りになっているが
ユニクロやしまむらと一体何が違うのであろうか。

それは求めるものが”安定”か”特別”かの違いである。

基本的に私たちはユニクロのような店で
衣類を買うときには、安定した品質を求めて
買いに行っている。

いつ買っても同じ寸法で同じ型の
服を廉価で安定して買えることが
ユニクロやしまむらの価値なのだ。

例えば、ユニクロでシャツを3枚買ったとして
1枚だけ縫製が荒かったりすると
手に取る人によっては店員に苦情を述べたりする。

このようなことが起こらないように
ユニクロのような会社では
縫製の基準を厳密に設けて管理し、
商品を出荷している。

”手作り”ではあるものの、バラツキを
可能な限りコントロールして、
モノづくりをしているのだ。

つまり私たちはユニクロに”安定”を求めている。

しかし、オーダーメードのスーツや
メルカリで販売されるハンドメイド品は
どうであろうか。

これらも間違いなく熟練した技術で
縫製されたもので、ユニクロのような
工業品に劣らない品質があるものもあるが、
どうしてもそれらにはバラツキが生じてしまう。

スーツでは顧客がどの生地を選ぶかわからないので
選ばれた生地によって伸ばし方、縫製のかけ方が
微妙に異なってくる。

ハンドメイド品においても抜型などは
一定にされているであろうが、
縫製はどうしても一定のバラツキが生じる。

ユニクロならばそれはNG品となるが、
ハンドメイドにおいてはこのバラツキこそが
”特別”という価値に変貌するのだ。

もちろんいくらそうだからといって、
縫製の状態が悪かったりすれば苦情になるだろうが、
一定の品質を保った上でのバラツキは
むしろ”特別”という価値になるのである。

そして、私たちはこの”特別”の価値を
妙にあがめてしまう傾向にある。

冒頭に”手作り”いうと何を思い出すかというと
食べるものを思い出すことが多かったが、
よく考えてみると食べ物こそ”安定”を求めるべき
ものではないだろうか。

服の縫製が少々粗くても大した問題はないが、
口に入れて、自分の体の一部になる食べ物こそ
安定していて欲しいはずだからである。

では、なぜ食べ物に私たちは”特別”を
もとめてしまうのか。

それは”安定”はありがたい反面、味気がないからである。

いつ食べても味が変わらないことは素晴らしい。

しかし、それだけでは飽きてしまうし
つまらない。

以前記事に書いたことがあるが、
私が生まれ育った実家の近くにあるラーメン屋は
そこが本店だったので、私が子供の頃には
ラーメン屋全体からとんこつを炊く独特の匂いが
漂っていた。

ところが、ある時からその匂いがしなくなり、
ラーメンからもその臭さが消えた。
それはチェーン展開によりその店が
セントラルキッチン方式を取ったからである。

味は変わらず美味しかったのだが、
私はその変化に何となく寂しさを感じた。
これはまさに”安定”することに対する
つまらなさだったのである。

だが、いまの時代は色んな選択肢がある。

何も不安定なものに味を求めなくても
安定したものを多用に選べば、
それだけで十分に味わいは出る。
つまり、手作りだけに価値を見出す必要はないのだ。

勘違いしないでほしいが、
私は決して手作りを否定しているわけではない。

手作りをするからこそ得られる味わいはあるし、
料理などは自分で手作りするからこそ
信頼できる原材料のみで作ることができる。

それ自体は素晴らしいことなのだ。

しかし、手作りを無条件に賞賛してしまう
風潮に対しては、
そこになぜ自分が価値を見出しているのか
明確にすべきであると考えている。

その価値が対価に見合うものなら
選ぶことは全くないが、
何となく「”手作り”はいいもの」と思い込んで
選んでいるならば、
それは気を付けるべきだと言いたいのだ。

あなたは手作り神話にハマっていないだろうか。

もし私の”手作り”記事で何か感じたことがあれば
ぜひ”手作り”コメントを頂けると嬉しい。

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