見出し画像

どうして誰かに合わせすぎるの?

誰かに合わせすぎる。

これが習慣化していると、本当はとても嫌だったことも気づけなくなることがあります。

「どうして、合わせすぎるのだろう?」

と考えてみると、義務教育で身についた習慣なのかもしれないと思いました。

みんなと同じ。みんなと一緒に。

が当たり前。
もちろん、ある程度、合わせる必要はあります。同じ空間でしかも同じことをしている時は。

ただ、過剰に合わせすぎることが課題だということです。

義務教育が良い悪いの話を言い出すと、収拾がつかなくなります。もちろん改善して欲しいことは伝えた方がいいと思いますが、すべては難しいし、いろんな考えがあって行われていることもあります。

大事なことは、自分が無理なくできる範囲の合わせ方を知っておくことかなと思っています。

あとは、「絶対、おかしい!」という時や、本当に譲れない時などに限定した方が、自分自身にとっていいかなと。


私は子供のこととなると、「なんでわからないの?」と思ってしまい、心の中が怒りでいっぱいの時間がたくさんありました。改善して欲しいこと、譲れないこと、伝え続けました。

その結果は、あまりいい方向に行かなかったことがほとんど。

怒りで立ち向かうと、相手も怒りでくるんですよね。残念ながら。

改善してきたきっかけは、力の入れどころの調整と親ではなく第三者としてなるべく客観的に捉えて交渉するようになってからです。ただし、絶対に譲れないことは譲らない。自分の基準も明確にしました。

それでも、過剰に合わせる癖がついているので、「仕方ないですね」と言いながら、あとでふりかえると、「これって、譲れないことじゃない?」と気付くこともあります。

時間が経ったあとに、いろいろ言っても仕方ないので、結果は同じで「ま、いっか」と流すしかないのですけど…。

こういう出来事は、学校との間で起こりやすいと感じています。なぜなら、先生と親は同じ立ち位置にはなりづらいから。どちらかが上でどちらかが下のような、状況によって立ち位置の上下がある感じがしています。

どちらが上でも下でもなく、お互いが子供の学びをよくするために同じ目線で意見のやり取りができればいいのですが、なかなか難しいです。

そして、先生も親も、義務教育で経験してきた習慣から「学校の先生はこうあるべき」「親はこうあるべき」という固定観念も影響している気がしています。

合わせすぎる習慣は大人になってあまりいい影響はないので、「適度に合わせるくらいの方法を身につけられるといいのかな」と、思いました。

自分の心と体を守るためにも、適度に「ま、いっか」を忘れないようにしたいですね。

ひとり親でも、不登校でも、学ぶことや働くことを諦めないでやっていることをシェアするための活動費として使わせていただきます!