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走り抜かなければならない。

人は、一度目標や夢などの"ゴール"を設定してしまうと、そこまで行けない自分、進めない自分を否定してしまいがちだ。

自分が不甲斐なくて、情けなくて。

そのゴールに辿り着く為に、夢や目標を叶えるための行動以外は悪と思ってしまう。それは自然なことなのかもしれないが、それが世間の定めた"正しさ"なのかもしれないが、その"流れ"に沿うことで本当にアナタが納得できるのかといえば、必ずしもそうとは言い切れないのではないだろうか。

"流れ"に、世間の評価に逆らうことは正しくないかもしれない、間違っているかもしれない。
だが、それは、アナタ自身でその道を歩んでいるといえるのだろうか。

"正しかった"だとか"間違っていた"と、その時その瞬間に答えが分かるのなら、これほど簡単なことはない。周りが正しいと言うこと、それは、その忠告する人のその人生において言えることに過ぎず、それに従うだけでは納得できないのは当然なのではないだろうか。

世間の評価、常識。それは生活するためには必要なことかもしれないが、アナタの背中は押してくれない。アナタがゴールに辿り着くまでアナタの人生に責任は持ってはくれない。
判断を他に任せることは、その流れに乗ることはただ"流されている"だけで、"生きている""自分の足で歩んでいる"とは言えないと思うのだ。

正しさとは、人と人が円滑に生活を共にする為には時には必要なことだが、それはあなたの生き方を、アナタの足跡をならしてしまうものだ。

何が正解で、何が不正解なのか分からなくなるのは、一生懸命に生きていれば当然のことなのに、むしろゴールに辿り着く為に向き合っていかなければならないのに、それに囚われることは人はそれを悪としてしまう。

もし、アナタが自分以外の人に希望を与えたいなら。むしろその事から目を逸らしてはならない。希望を持てなくなった人に、立ち尽くしている人に前を向いて欲しいのなら、その苦しみは必ず意味がある。
人が迷い、進むべき道が分からなくなった時に道を示してくれるものが"希望"なのだとしたら、アナタが納得し、迷いの果てに出した答えに自信を持って進めなければ、誰のことも勇気づけることはできない。

もし、正解や不正解ではなく、"正しさ"ではなく己が"間違っていない"と思える為ならば。その道筋を見つける為ならば、その葛藤を俯瞰して見て答えを出す為に、そこから距離を置くことは、"逃げ道"を作ることは走り抜く為に必要なこととは思えないだろうか。
ゴールに辿り着くことだけが全てではない。その間の悩みや苦しみは、それに向き合った分だけそれは誰かを救う為のその人の懐の深さになるはずだからだ。

逃げ道は、現実を、今を、自分を生きている者の羽休め。
環境と、夢と、世間と、そして自分自身と戦うために必要な道なら、それら全ては自分の望むべく道につながっている。

世界は直線じゃない。紆余曲折があって、上り下りがあって、だからこそ大変で辛いけど、だからこそ登り切った時、走り抜いた時自分を誇れるのではないだろうか。

もし、その人にやる気がなくて、熱意がなくて、もう何もかもどうでもよかったなら、「逃げ道」を探すことそのものをしないだろう。流れ、流されていればそれで生きていけるのだから。

逃げるという行為は、己自身と戦った者の特権だ。

生きて、生き抜いて、生きていくために。
自分の大切なものを守り、守り抜いて、共に生きていくために。

もがいても肘がぶつかるほどの状況では、その大切なものに手を伸ばせない。相手を抱きしめることもできない。

それがもし"逃げ道"があれば。逃げ道によって、自分の世界が広がったなら。
自分を俯瞰して見て、大切なものがなぜ大切なのか考える。
辛くても、悲しくても、投げ出したくても諦められないのはなぜか。逃げ出したくなるほど真正面から向き合って、ファイティングポーズをとり続けることに疲れたなら、"いまは"その拳を下ろせばいい。

休んで、泣いて、そしてまた笑えるなら。
大切なものを大切だと思いつづけられるのなら。

その"逃げ道"はアナタの"世界を広げてくれる道"なのだと思う。
本当に、本当の本気で辿り着きたい未来があるなら、走り抜かなければならない。だが、常に全速力で、なりふり構わず納得出来ない自分から目を逸らしていたなら、いつか道半ばで倒れてしまう。

私は、それが本当の"逃げる"ことなのだと思う。
その道を進み続けることだけが何かを叶えることではない。時には歩を緩めても、脇道に逸れても、安心してほしい、その道は、あなたの辿り着きたい、辿り着くべく未来に続いている。

何かを大切にしたいなら、走り切らなければならない。だが、脇目も振らず、大切なものの本当の大切な意味まで見失って、傷ついて、挫折して、道半ばで倒れてしまうことは、果たしてそれは正しい生き方なのだろうか。振り返ったら何も残っていないのに、その先の道に希望など持てるのだろうか。私はそうは思わない。

牛歩でも、つまづきながらでも、フラフラになりながらも、歩けなくなっても。アナタの周りにいる大切な人、ものを抱きしめられる、その腕があるではないか。
大切な人を守り、手を差し伸べるために。アナタはアナタ自身も大切にしなくてはならない。

疲れても、もう嫌になりそうでも。その先にまだ光が見えるなら、アナタはきっと大丈夫。
人間は暗闇の中、光が、目指す先がないとまっすぐ進めないという。
それを自覚し、零さぬように大切に扱い、そして何よりあなたが幸せになる為に。
自分が幸せでない者が、自分の人生に希望を持てない者が、誰かの旗印になることはできない。"痛み"を知らない者に、誰かの痛みは分かるはずもない。

忘れてはならない。

アナタの大切なものは、大切な人は、アナタが想うのと同じくらい、いや、もしかしたらアナタの想う以上に、アナタのことも大切だと、大事だと思っているはずだから。

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