見出し画像

隣同志。


私たちの心はすり傷が絶えない。

仕事、恋愛、友達との人間関係。なんでそんな事を言うんだ、と憤りを感じたことも少なくないだろう。

どんなに自分が誠実に生きていたとしてもそれが評価されることは少ないし、報われない日々のほうが多いくらいだ。

なんで私が、僕が、俺が、こんな辛い目に遭わなくてはいけないんだ。そう塞ぎ込んでしまうことだってあるだろう。
自分がどれだけ訴えても相手の心にちっとも届かなかったり、そもそも見て見ぬふりをされてしまったり。

そんなことが積み重なっていくうちに、なぜ自分はこの世に存在しているのだろう、自分がこの世に存在する意味なんてあるのだろうか、自分がいなくなっても誰も悲しまないのではないか、そう思ってしまっても無理もないのが人生というものだ。

でも私は思うのだ。そんな自分の存在すら否定されたかのような日々の中で、

"それでもあなたは生きている。"

そのことに意味はあるのではないのだろうか。

自分の大切な誰かの為に。自分が誰かの支えになる為に。

自分と同じ思いを誰かにさせない為に。

この文を読んで何かを感じて、何を思っているのかは私には分からない。
ただ、心の中で疼くのだとしたら、その"何か"はきっとあなたにとって大切なもので。

見失いかけてもいい、時には憎らしくなってもいい。だけど、それを自ら手放すことは一旦待って欲しい。一度手放してしまったら、それは元の形に戻すことは難しいだろう。女神に後ろ髪はないと言うが、時間が不可逆であるように、私達も、周りの誰かの心もひとつどころに留まるものではないからだ。

悲しいかもしれない、辛いかもしれない。でも、そんなものだからこそ喜びも幸せも与えてくれるのだから。それだけあなたの心を揺さぶり、衝き動かすものなのだから。
自分がこの世に生まれてきた意味は誰にもわからない、けど、自分が生きていく意義は自分で見出す事ができるのだから。
辛いこと、悲しいことが絶えない反面、そんな、あなたの生きていく理由にさえなるものも確かに在ることまで見失ってはならない。

悲しくならなければ辛くもない、何でもないようなものは、あなたになにも与えてもくれない。幸せと辛さは対極にあるのではなく、常に薄皮一枚で隣り合わせている。
目を背けたくて遠ざけたくなるのはそれだけあなたの心の大部分を占めているから。あなたにとって大したことないものであれば辛い、悲しいと思う前にいつだって見て見ぬ振りができる。

悲しくなることは、大切じゃなくなったわけではないでしょう。辛いと思うということはそれだけ手放したくないからでしょう。

今あなたが悲しみのどん底にいても。

そこは"幸せの対極"なんかじゃない。

それだけ悲しみを覚えることの隣には、あなたが幸せで、楽しかった思い出が寄り添っているからではないか。とはいえ、その落差を痛感している間はそんなことを考える余裕はないかもしれない。

無理に克服しなくていい、忘れなくていい。ただ、あなたが余裕をなくすくらいあなたの心を埋めてくれたものは確かにあったのだということに気付いて欲しい。

悲しくなるのは、辛くなるのは"失う"ことじゃない。あなたが自らの手で大切な何かを"得た"からこそ感じるものなのだと言う事を、私はあなたに忘れてほしくないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?