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「酒に酔っていたので憶えていない」は単なる言い逃れなのか?

・その言い訳は真実なのか?

主として「おっさん」が酒の席などで、暴力沙汰やら、セクハラやら、あるいは、ご自身の立派なイチモツをご披露したとか、何らかの不祥事を起こしたとき、その後一夜明けて

酒に酔っていたのでよく憶えていない

という言い訳をすることは、世上よく聞くところであろう。

仮に、身近でそんな場面を直接見聞きしたことはなくても、ニュース報道などで当の人物がそういう言い訳をしている場面を見たり聞いたりしたことは、だれにでもあるはずだ。

私は、若いころ(概ね20~30代のころ)、おっさんたちがそういう言い訳をして自己の不適切な行為についていわば「酒のせい」にしているのを見るたびに「本当にそうか?」と訝しく思っていた。

・私の「酒とバラの日々」

私は酒が大好きで、大学に入ったあたりからよく飲んだ。そして、飲み過ぎて酔っ払い、ベロベロになったり、ゲロゲロになったりして周囲にご迷惑をお掛けすることもよくあったが、「記憶がなくなった」ということは、一度もなかった。

もちろん、酔いのせいで寝込んでしまっていた間の記憶は無い。しかし、ベロベロになっていようが、ゲロゲロになっていようが、起きている限りはそのときの記憶は必ずあったのだ。

むろん、記憶があったからと言って、そのときに「まとも」だったワケでは決してない。そもそも「飲み過ぎている」ということ自体、自制が効かなくなっている証拠であり、大概は調子に乗って人目はばからず大声で騒いだり、下ネタを炸裂させたりして、周囲にご迷惑を掛けたことは数え切れない(※もっとも、私自身は暴力的な人でも、自信過剰な人でもなかったから、どんなに酔っても、人を殴ったりとか、自分のイチモツを開陳したり、ということはなかった)。

しかし、それでも前日「やらかした」ことは、翌日周囲に指摘されるまでもなく必ず憶えていて、そのたび自己嫌悪に陥っては「酒、やめようかな」と一瞬だけ考え、でもやはりそれは無理だとすぐに考え直して「少しだけ控えることにしよう」という無駄な決意をひたすら繰り返してきたのである。

もちろん、世の中には酒に弱い人もいるのは確かで、私の周りにもそういう人たちはいた。だが、そういう人たちは、酔いが回ると、まるで活動限界が訪れたかのようにおとなしくなってしまうか、あるいは眠り込んでしまう人がほとんどだったから、そんな人たちが酔いに任せて「何かをやらかす」ということは、ほとんど考えがたく、実際、見聞きしたこともなかった。

このように、自分の酔いと反省の日々に照らしても、また、周囲の酒に弱い人たちの行動パターンに照らしても、「不祥事を起こすほど元気で、しかもその時の記憶がない」などという状況はまったく理解できなかったのである。

だから、酒の席上で不祥事を起こした行儀の悪いおっさんたちの「酒に酔っていたから憶えていない」という毎度毎度繰り返される言い訳に対しては、

そんなことがあるものか。そんなのは単なる言い逃れに過ぎない

と決めつけ、内心では、一切の同情の余地もない不誠実な対応として切って捨てていたのである。

・わが身に起きた実体験

ところが、である。

人は年をとるに連れてそういうことを体験するに至るのである。驚くべきことに。

飲み過ぎたときの記憶があいまいになり始めた時期が、一体いつごろのことだったのかについては定かではないが、おそらく40歳を過ぎたあたりからではなかったか?

ちょうど行きつけのバーに通い始めたころだったと思うが、それまで酔っ払って店で眠り込んでしまうなどということの決してなかった私が、いつの間にかカウンターで眠り込んでしまい、朝方5時ころにマスターに起こされるという経験をちょくちょくするようになる。

そうするうちに、深く酔ったときの記憶があいまいだという体験を、次第にするようになり、こういう体験を重ねるうちに、

なるほど、こういうことなのか……

と、なんとなく理解できるようになるのだった。

そして、深酒をした翌日は、必ずマスターに前夜のことをいろいろ尋ねなければ心配でならなくなる。

「マスター、昨夜のオレ、大丈夫だったかな?」
「え? 憶えてないんですか?(ニヤリ」
「ちょっと、そういうのやめてよ」
「大丈夫ですよ。いつもと同じですよ」
「いつもと同じって?」
「まあ、随分おごらされてましたけどね」
「そうかぁ……(どうりで財布の中身が少ないわけだ)」
「でも、やらかしてはいませんよ」
「そうか。やらかしてはいなかったか……(ホッ」

まあ、ご機嫌になって大盤振る舞いをしたくらいなら何ということはない。

だが、先日に至っては、とうとうやらかしてしまったのだった。

「やらかした」と言っても、幸い、行きつけの店でのことでもなく、人に迷惑を掛けたワケでもない。

その晩は、ツイッターでよく見かけるある弁護士と飲んだ。その先生と差しで飲むのは初めてだったのだが、彼は日本酒が大好きだということで、私のよく知る小料理屋に2人で行った。そして、そこで異様なまでに盛り上がってしまい、気付けばその店にある全種類を制覇するほどまでに大酒を飲んでしまったのだった。

その帰り道、その先生と、ある駅で別れ、私はタクシーに乗ったのだが、その途端に眠り込んでしまったようで、自宅まで道案内することもできず、最寄りの駅前で降ろされた。

もちろん、代金は払ったはずだが、どう払ったのかすらもすでにあいまいである。たぶん、スマホのスイカで「ピッ!」と払ったのだろうとは思うのだが、それは「記憶」ではなく、自分はいつもそうしているからその時もたぶんそうしているだろう、という「推測」にすぎない。

そして、その後、家に帰り着くまでの記憶に至っては、まったくない。気づいたのは翌朝で、自室のベッドの中にいた。ただ、起き上がろうとしたら、激しく尾てい骨が痛い。

な、なんだ、これはッ! 昨夜なにがあった?

と思い出そうとするが、思い出せない。

そのうち、

そういえば、なんか、きのう、歩道でコケて、尻餅をついたような……

というような気がしてきた。だが、どこで尻餅をついたのかは、まったく見当が付かない。そしてそうなると、自分が本当に「尻餅をついた」のか、それとも「尾てい骨が痛いということは、尻餅をついたにちがいない」という推理から逆算してそういうイメージ映像を頭の中で再構築しているのかさえ、よくわからなってくるのである。つまり、もはや「記憶」なのか「記憶でない」のかすらよく分からないという状況なのだ。

・記憶は創作されることがあるらしい

刑事弁護をやっていると、当然の流れとして、証言の信用性やら、虚偽供述をどうやったら見抜くことができるか、などということに興味が向き、心理学の本を読み漁ったりする。その1つに「偽りの記憶」とか「擬似記憶」と呼ばれる現象が書かれていた。

これは、記憶を思い出そうとする努力を繰り返していくうちに、実際にはなかったことの記憶が作り出されてしまうことがあるという話で、「抑圧された記憶」とか「回復した記憶」と呼ばれる社会現象をめぐて研究されるようになったものらしい。

「抑圧された記憶」あるいは「回復された記憶」とは、1980年代後半に顕著になった社会現象で、典型的な事例としては、心理的な問題を抱えた人が集中的なカウンセリングを受けた結果、それまで記憶になかった性的虐待の出来事を思い出す、というものだ。これをきっかけに、虐待したとされる者を告発する事例が増え、さらにはこのような記憶に基づいて訴訟ができるよう出訴期限があたらめられた州もあったという。

だが、その一方で、このような記憶の信頼性が問題とされるようになる。当然だろう。そして、その後の研究により、実際にはなかった出来事であっても、集中的な回復作業を行うことで偽りの記憶が作り出されるという場合のあることが、多くの実験によって示されたという(以上につき、厳島行雄・仲真紀子・原聰共著『目撃証言の心理学』124頁以下)。

で、話を戻せば、いま自分の身に起こっていることは、まさにこれなのではないか、という気がしてきた。つまり、こうだ。

昨晩、自分が尻餅をついたことは、おそらく真実だろう。だれかに尻を蹴飛ばされて尾てい骨を痛めたということは、およそ考えにくいからたぶんこれは間違いない。だが、尻餅をついたことを記憶しているか、と言えば、たぶん違う。いま、自分は、このような「推理」に合わせて、都合よくイメージ映像を作り上げようとしているのだ。つまり「偽りの記憶」の創作である。

だって、変ではないか。思い出そうとするその記憶の中で、自分が尻餅をついているところを、自分自身が俯瞰で見ているのである。そんなことは、幽体離脱でもしないかぎり、あるはずがない。そして、尻餅程度で幽体離脱するはずがない。たぶん。いや絶対に!

そうであれば、私は、いま、自分の推理に合わせて都合よく「尻餅をついたオレ」の記憶を脳内で創作しているのであって、本当は何も「憶えていない」のだ。

・年をとり、人は変わる

そう。「酒に酔っていたから憶えていない」ということは、本当にあるのである。私は、年をとってそれを知ることとなった。

むろん「酒に酔っていたから憶えていない」という言い訳をしている人の中には、本当は憶えているのに、体よく酒のせいにしている、という人もいるだろう。

だが、中には本当に「酒に酔って憶えていない」という人もいるのかもしれない。そういう可能性が否定できないことを、私は年をとって知ることとなったのである。

若いころは解らなかったことが、年をとることによって実体験として理解できるようになる。そういうことがまだまだあるのだ。

人は変わる。死ぬまで変わり続ける。

そう考えると、年をとるということも、それはそれで悪くはないことだと思えてくる。

・まだまだ続く酔いと反省の日々

なお、こういう体験に限らず、私自身は、年をとるということには、それなりによいこともたくさんあると思っていて、それについてもいずれここに書いてみたいとは思っているのだが、それはともかく、年をとるのは、もちろんよいことばかりではない。

なんと言っても、怪我の治りが悪い。

あの夜から、もうかれこれ1か月は経つというのに、尾てい骨の痛みは、まだ抜けない。もちろん、当初ほどの激痛はなくなったが、いまだに椅子から立ち上がろうとすると痛みが走り、「痛ッ!」とか「うッ!」などと声を上げてしまい、事情を知っている事務局やら同僚の女性弁護士から「クスッ」と笑われてしまうのである。情けない……

しかしそうであっても、はやり酒をやめることはできない。だから、私の酔いと反省の日々も、まだまだ続くのである。多分死ぬまで。

しかし今回は、自傷しただけで、他人に迷惑を掛けなかったことは、せめてもの幸いである。もし他人に迷惑を掛け、目覚めたのが、自室のベッドではなく、警察署の留置場であったならば、私もまた

酒に酔っていたので憶えていない

と言い訳をしなければならなかったからだ。そしてその時、取り調べを担当する若い警察官は、果たして私の言い訳を信じてくれるだろうか? 自己の経験に照らし、極めて疑問なのである。

そう。酒を控えよう。こんどは本当に控えよう。


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