講壇哲学の低さー学問の本性

改めて失望。この類の失望は嫌になる程何度も感じているのでもう悲しみすら感じます。この機に彼らサラリーマン哲学教授達の構造的欠陥と、現状の日本哲学会からは本物の哲学が絶対に生まれないと言える理由とを学問の本性の考察に沿って詳しく記述するので、読んで考えてみて下さい。お願いします。

まず、「俺は俺哲学をやっている」などという賢い(笑)反論をしている人がいますが、これは無意味です。長尾さんの発言の真意を理解していないからでしょうが、ナンセンス過ぎて唖然とします。これを考えるには、「哲学をする」ことの本当の意味を今一度確認しなければなりません。長尾さんが「世界の哲学の流れの最先端をちゃんと認識して、その先をどうしていくのか」と言った時、その達意眼目は何でしょうか。それは「日本人も自分の哲学を切り拓いて欲しい」といったことだと推察しますが、これは単に「俺哲学」を作るなどという子供じみたことを要求しているのではありません。そもそも哲学とは簡単に言ってしまえば物事を論理的に考えることですから、一定以上の思考能力を持つ人であれば誰でも哲学をすることが出来ますし、事実、何らかの哲学を持っている人は少なくありません。しかし、それは本当に学問としての哲学でしょうか。そこが問題です。全ての学問は究極的には現実生活の必要、要求から出発していると思います。特に社会科学などはそうでしょう。人間は多種多様であり、社会的にしか生きられない動物ですから、その中で生じた現実的な問題を解決する為に学問が生まれました。当の哲学もまた、その例に漏れません。

いや、哲学こそがその中心的な役割を担わなければなりませんし、また哲学史に名を残す人はそういうことを成した人に他ならないのです。要するに、現代における本当の意味での哲学とは、単なる「愛知(知への愛)」に留まるものなどではなく、現実的な知でなければならないのです。では、現実的な知とは何でしょうか。それは既に書いた学問の存在意義を満たす知のことです。すなわち、今を生きる私たちに現前する現実的な問題、労働問題や教育格差、貧困問題、さらに根本的には政治の腐敗などと真っ向から格闘し、世の中をより良くしようとする動きのことです。実はこの、本物の哲学とは現実的な知であるという定義が今回の核心部分です。ここまで見てきたように、本物の哲学は政治と密接に結びつきます。政治的問題を解決する武器が哲学だからです。つまり、哲学は多分に変革的性格を持つことになります。変革的性格とは現状を変えようとする意志のことですね。

そもそも思考とは、色々な要素がありますが、目的意識性をその根本に持ち、「〜がしたい」「〜になりたい」といった気持ちから出発するので、変革意志という形を取ります。「思考とは思考という形をとった変革意志」なのです。ですから、哲学が変革的性格を持つのも必然的です。それはともかく、ここでの政治というのは国政だけではありません。大学も学長をトップとした人事権などの政治力学が働いている組織です。さらに日本の場合は、文部科学省など国家の干渉も大きいことが想像に難くありません。実際に幾つかのニュースでもそれらが実証されているでしょう。そして、その状況下では、地位や権力、経歴やお金などが絡む複雑な見えざる力が働いています。大学の教員になるということは意識的にか無意識的にそれら力の支配を受けるということです。その力に抵抗するということは出世の道から外れることを意味します。教授になるというのはその力に負けたのです。

自然科学などでは、そういった政治的な問題が考察対象になるのは稀である為、そういった構造が背後にあってもその人自身の思考に影響が出ることは少ないでしょう。それ故に、我が国でも、多くの世界的な発見や最先端の研究が成果をあげています。この場合問題はないでしょう。しかし社会科学、とりわけ哲学にあっては、問題なしでは済みません。問題大有りです。なぜなら、賢明なフォロワーは分かっていると思いますが、本当の哲学をするにはあらゆる権威を疑って変革的な性格を持たなければなりませんが、他方で彼らは権威を盲信し保守的にならなければ出世出来ないからです。つまり、人事権に屈服しなければ大学で保身を図れないが、そうしたら本当の哲学は絶対に出来ないという大きな歪みがそこに存在するのです。この歪みを皮肉って僕は彼らを「サラリーマン哲学教授」と呼称し、軽蔑しています。

ですが、彼らも見方によっては被害者だと言わなければなりません。彼らは僕よりも頭が良いのでしょうし、能力も非常に高いでしょう。それを否定するつもりはありません。ただ、これは能力以前の問題です。どれだけの天才だろうと、大学の構造的問題上、100%哲学が出来ないようになっているのですから。これは「不自由な思考」とも言えそうです。講壇サラリーマン哲学は人事権や札束権に関する問題を扱わない(えない)という大前提に立っているいじょう、やはりその枠組みを外から規制されているのです。その枠を超えて思考することが彼らには出来ません。それがどれほどの才能であろうと。

以上で、彼らのサラリーマン哲学はその根本が腐っていることを証明し、それを踏まえて現状の日本の大学が抱える構造的欠陥を指摘しました。
では、本当の学問の為には、本当の哲学をするにはどうすればいいのでしょうか。次にこれを考えます。

冒頭の2枚目のスクショで、川瀬とかいうヘーゲル研究者(笑)が、「『日本では解釈研究しかされていない』は誤りだ」として反論していますが、笑わせてくれますね。「Aだ。」という主張にただ「Aではない!」と言うことに何の意味があるのでしょう?w そもそも反論になってません。5歳児でも出来ます。

「日本でも解釈研究だけでなく哲学がされている」ということを言いたければ、実際に日本の哲学が現実的な問題に取り組み、世の中に影響を与えた事例を出せばいいのです。しかしそういうものは現にありますか?残念ながら一個もないのです。ですから川瀬の例の主張には説得力のかけらもありません。

まぁでも前述した通り、日本の大学内の哲学からそういうのを期待する方が間違ってるので今回は置いといて、ではそういう事例が世界ではあるのか?という質問にお答えします。あるのです。僕の研究分野に限って言えば、マルクスがその代表的な人物でしょう。彼は当時の労働者階級の悲惨な状況を目の当たりにし、この問題をどうにか思想で解決しなければと考えました。そして、マルクスはヘーゲルの論理学から徹底的に学び彼の社会理論の核となる唯物史観を確立しました。そしてヘーゲルの論理学を武器に資本主義社会を分析し『資本論』を書き上げます。彼の社会理論は結果的に失敗に終わりますが、それでも彼の哲学が世の中に甚大な影響を与えたのは紛れも無い事実です。こういうものが、こういうものだけが本当の「哲学」だと言うのだと思います。然るに、この本当の哲学の本質的な要素は「現状に対する変革意志及びその問題意識」です。

マルクスは「労働者の苦しみを放っておいていいのか?」という問題意識が強烈な人でした。彼のこの点は本当に無条件に尊敬しています。そして、憚りながら僕も10代の後半に抱いた現状への強い問題意識から出発し、その為には自分で哲学を作るしかないと思い、以後「本物の学問」を追求してきました。

しかし何度も言うように現在の日本の大学は「本物の学問」及び本当の哲学と対極に位置しているので、それを望むべくもありません。大学外で本物の学問を見つけるか、🇩🇪か🇫🇷に行くしかないでしょう。僕は幸いにして前者を1つだけ見つけました。後は孤独に頑張ります。世の中が少しでも公正になる為に。

追記:

この講壇哲学批判の文章ですが、誤解を招かないように少しだけ付記します。重要な事なので

断っておきますが、僕は解釈研究即ち哲学史の研究を軽視しているのではありません。寧ろ、哲学教授たちに盲従しているそこらの「哲学かぶれ」なんかよりも遥かに哲学史の勉強・研究をしているつもりです。しかしここでも同様、僕が指す「哲学史研究」と彼らの「解釈研究」はその根本を異にします。それは丁度僕たちが目指す「哲学」と彼らの「俺哲学(笑)」との関係と同じです。哲学史の勉強・研究でもそれを行う主体の姿勢意識によって、その研究が導くものは全く違うものになるということです。では今回の場合、両者はどう異なるのでしょうか。換言すれば、何故彼らのいわゆる「解釈研究」からは本物の哲学が出てこないと言えるのでしょうか。いや、実際に今まで一つも出てきていないのでしょうか。これを、哲学史と哲学の内容的関係の考察から出発して考えてみましょう。

まず、哲学史の定義を明確に規定します。哲学史はそのまま読むと「哲学の歴史」ですから、単なる過去の哲学者たちの思想の歴史、その列挙されたものだと思われますが、それはあまりにも表面的な理解と言わねばなりません。「哲学史」という語の背後にある深い意味を捉えていただきたいのです。

その為には、本当の意味での哲学が何かということを前提します。それは何でしたか?そうです。哲学とは、多分に変革的性格を有した、世の中をより良くしようとする思想及びそれを作っていく過程の事でした。それは人間がどうしたら上手く生きていけるかという、人類の自己実現を目指す大きな運動です。

例えば、デカルトに始まりヘーゲルで完成した近世哲学の大テーマは「認識論」でしたが、これは人間がどのように物事を認識しているのかを論理的に追求する流れでした。そして人間の認識能力を考察し、そこから、では人間は「真理」を認識し実現出来るのかということを先人達は徹底的に考察したのです。今出てきた「真理」という語に首を傾げる人もいるかと思うので注記しますが、この「真理」とは、何か抽象的な想像に及ばないものを指しているのではありません。ここでは、まさに「人類の自己実現=目指すべき社会」の事です。そしてこの「真理」への過程が哲学だというのは先程確認しました。事実、あの有名なカントは認識論を分析した後に道徳哲学を展開し、人間のあるべき姿を考察していますし、ヘーゲルも認識論を完成させた後、法哲学を展開し、国家のあるべき姿を提示しています。ここに彼らが真に哲学者と呼ばれる理由があるのです。

つまり、その「人類の自己実現」について考え、その実現に向けて一頭地を抜く貢献をした人が、そのような活躍をした人だけが哲学史に名を連ね、哲学史の伝統を形成してきたのです。この積み重ねが「哲学史」なのです。そう考えると、ただの「偉い人たちの思想の羅列」とは違う「重み」を感じませんか?

ですが、まだ前述の「真理」は実現していませんしそれは誰か天才によって一気に到達されるようなものでもありません。なぜなら、どんなに優れた頭脳でも社会という枠組みに思考は規定され、その当世にはまだ出てきていない問題については考える事も出来ないからです。段階的に発展していくしかないのですから。

では、その真理はどこに出ているのでしょうか。それは他でもない、人類の哲学史の伝統の中に現れているのです。人類の哲学史の伝統というものはそれぞれの時代の人類の最高の英知が命がけで築き上げてきたものであり、歴史という名の人民大衆の生活によって試され、淘汰されてきたものです。したがって、その淘汰の結果残りつづけたこの伝統こそ真理そのものであり、もっとも確かなものなのです。個人ないし個人の思想がどれだけの意義を持つかということは、いちにかかって、その個人がこの伝統をどれだけ正統に受け継いだかによるのです。

ここに、哲学史を学ばなければならない、大きな理由が存在します。つまり、AからB、BからCへと哲学史の伝統が脈々と続いていたとして、我々はAからBへどう継承され、さらにBからCへどう継承されたかを自分の中に論理的に再構成する必要があるのです。それをしなければ、新しいものは絶対に出ません。

言い方を換えれば、Aの意義と限界はどこにありそれがどうBに繋がったか、さらにBの意義と限界はどこにあり…という風にそれぞれの思想の意義と限界を自分の頭で構築し直し、その上に先代の限界を超えるような哲学を作っていくのです。これは哲学だけでなく、他の学問やスポーツでも同じだと思います。

ですから、これは別に特別なことを言ってるわけではなく、講壇哲学でもこのようなことは行われていると思います。ですが、この作業をする上でそれをする主体の態度によってそれが「哲学」になるか、「俺哲学(笑)」になるかを決定的に分けることになります。その主体の態度とは何でしょうか?

一般的に、人間は誰でも自分の問題意識を持って自分の頭で考えるしかありません。これを学問の主体的性格といいます。つまりこの場合、どんな人も自分の問題意識を持って自分の頭で哲学史の流れを追体験していくことになります。

しかし、同時にそれら問題意識には勿論いろいろあり、その中にも高低があるのです。では何が問題意識の高低を決めていると思いますか?その基準とは、客観的=普遍妥当的であるかどうか、ということです。実はこれが哲学史を学ぶ上での姿勢を根本的に規定しています。

さてここまでくれば賢明な読者は見抜いているかもしれません。講壇哲学からは死んでも「哲学」に繋がる「哲学史研究」が出来ない理由を。先ほどは講壇哲学の根本的欠陥を証明しましたが、それがここにも影響を与えます。
彼らは大学の構造上、人事権等に屈し変革的性格を持った思考が停止していました。

そして変革意志を持てないということは、その能力云々の以前に、世の公正の為などといった最も普遍的な性格を有した問題意識を持つことが不可能だということです。よって、彼らサラリーマン哲学教授たちには普遍妥当的な問題意識が永遠に出てくることはなく、主観的なものにとどまることになるのです。従って、哲学史の伝統はその根本的な幹に客観的で普遍妥当性を持った問題意識が共通してあるのに関わらず、彼らがそれと取り組むのは構造的に無理ですから、それら最重要な幹を避けて、枝葉の部分をしゃぶって自己満足する「解釈」に終わってしまうのでした。これが事の真相です。

現に、彼らの論文という名の作文は、何やら難しい言葉や語句で着飾られてはいますが、「本当の哲学史」の勉強を少しでもしていれば、それらに内容が殆ど無いことなど簡単に分かります。彼らや彼らの盲従者(哲学かぶれ達)はよく「○○先生の□□解釈は面白い」だの、「▲▲と☆☆の〜〜論は似ている」などとということを口にしていますが、これはまさに主観的な関心に基づいた哲学史についての発言で、これが彼らの「解釈研究」が極めてお粗末であることを自ら証明しています。そんな発言にどんな客観的意味があるというのでしょうか?理解に苦しみます。

我々は、面白いから哲学史研究をするわけでも好きだから哲学書を読むわけでもありません。世の公正の為に、先人達の最高の成果を受け継ぎ、それを命がけで発展させたい、させなければならないという強い意志から哲学史を学ぶのです。それがなければ、こんなに苦しい孤独な修業をわざわざ自らしません。

最後にまとめます。要するに、哲学史を勉強する上で持つ問題意識が主観的なものにとどまるか客観的なものになるかで、「解釈研究」に終始するか「哲学史研究」になるかが分かれ、延いては「俺哲学(笑)」に終わるか「哲学」になるかを決定付けるのです。論文をいくつかまとめて偉い人に頭を下げ、教授になってしまえば安定した楽な生活ができ地位や経歴で自尊心もみたせるという主観的な態度か、苦しい修業を伴う本物の学問によって世の中のために働こうという客観的な態度、貴方はどちらが高いと思いますか?貴方はどちらの道を選びますか?