最近の記事

講壇哲学の低さー学問の本性

改めて失望。この類の失望は嫌になる程何度も感じているのでもう悲しみすら感じます。この機に彼らサラリーマン哲学教授達の構造的欠陥と、現状の日本哲学会からは本物の哲学が絶対に生まれないと言える理由とを学問の本性の考察に沿って詳しく記述するので、読んで考えてみて下さい。お願いします。 まず、「俺は俺哲学をやっている」などという賢い(笑)反論をしている人がいますが、これは無意味です。長尾さんの発言の真意を理解していないからでしょうが、ナンセンス過ぎて唖然とします。これを考えるには、

    • 唯物論と実感尊重

      過去に何度か触れていると思いますが、哲学は日常に潜む「論理」(これをヘーゲルは客観的概念と呼ぶ)を自覚的に取り出し意識化に置く「だけ」の学問です。これ即ち、哲学はその本性上、日常生活から遊離してはならないということだと思います。 私も師事している先生から、日々、「哲学をしようと志すなら、世の中の『権威』や世間の『常識』や他人の顔色などを気にせず、何よりもまず自分の実感にこそ忠実に生きなさい」と教えられ、日々それを胸に勉強なり研究なりをしているつもりでした。 しかし、それは

      • 唯物論について

        https://twitter.com/lenin_bot/status/1074235961658114048?s=21 レーニンのこの記述は、哲学用語を使うと、「唯物論による物質の認識論的概念」です。 我々は「弁証法的唯物論」の立場に立つと言っていますが、その「唯物論とは何か」について書いたことがなかったですし、ほとんど誰も適切な解説を与えてくれていないので、この場を借りてそれを試みたいと思います。 まず、唯物論が何かを考えるためには「物質」と「精神(観念)」という2

      講壇哲学の低さー学問の本性