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「ありがとう」で送られた愛犬

妻の実家で飼われていた犬が死んだ。
危篤状態との報せを受けた妻は、翌日の新幹線で帰る予定で動いていたが、その後に掛かってきた電話により、死んだことを告げられた。
電話越しに、家族みんなの悲しむ声や、その状況が伝わる。
妻もひどく泣きじゃくっていた。

私と結婚する以前より、長きに渡り一緒に過ごしてきた、可愛い小さな犬。
年老いて、少し弱ってきたことを心配して、ここ1年程は以前より近い間隔で、1人で会いに行っていた。

私が妻の実家に顔を出したのは、これまで3回ほどで、その際は泊めてもらい、それなりに接するのだが、触れ合い、過ごした時間は当然ながら圧倒的に少なく、同等の悲しみを共有することはできなかった。
家族みんなの悲しむ姿に対して悲しみを覚えるといった感覚が強く、そしてどこか、客観的に見てしまった部分もある。

妻は電話越しに、「最期に会えなくてごめんね」と詫びていたが、その後「ミッちゃん(犬の名前)のお陰で頑張って来れたよ、ありがとう」との想いを伝えていた。
"ごめん"で終わると何処か案ずるような気持ちになるが、"ありがとう"が出ると安心する。
最期までしっかりと可愛がった証しの言葉が「ありがとう」なのだと感じた。
しばらくは引きずるだろうが、あるいは結構長いのかもしれないが、きっと大丈夫だろうと思う。

また、みんなで悲しむ様子が、不思議ととても幸せな光景に思えた。
それもやはり、最期までしっかりと不足なく、飼い主の役目を全う出来たことで自然と発せられる「今までありがとう」といった感謝や労いの言葉が多かったからだろう。
そして"悲しむ"という感情を覚えるのも、飼い主としての人間に課せられた最後の責任であり、不測の事態はあれど、それが逆であってはならないのだと感じた。

この犬、ミッちゃんは年老いてきたとはいえ、割と表立ってひどく弱らないうちに、人間で言うところの"ピンピンコロリ"に近い感じで逝ってしまったが、妻はそれを嘆いていた。
うちの近所の八百屋さんに、ミッちゃんと同サイズの、そこの老店主と同等のヨボヨボ具合の、もう目もほとんど見えていないであろう老犬がいるのだが、妻としてはそういうギリギリの状態まで生きていて欲しかったそうだ。

どちらを良しとするかは人それぞれで、当の犬がどちらを望むのかはわからないし、あるいはそれも犬それぞれなのかもしれないが、とりあえず、人間においてはひとつの理想とされるピンピンコロリで逝ったことは、非常に良い最期の迎え方であったと、勝手ながら私はそう思う。

また、犬の幸せが何なのかはわからないが、私の、人間の目から見た限りでは、飼い犬としては極めて幸せな生涯、ワンダフルライフであったと、またまた勝手ながらそう思う。

私は幼少期に実家で猫を飼っていた。
もうとっくにこの世にいないが、自身が無気力で腐ったような良くない状況に陥った際などには、すっかりオジさんになった今でも時折り、脳裏に蘇り、そこで猫独特の"無言の圧"をかけられる。

ソファの前で生気を失い、寝ているとも起きているともとれる体勢でボーッとする私の視線の先で、斜に構えた状態で鎮座する、そのかつてのキジトラの猫は、特別こちらに目をやることはないが、全て見透かしているかのような雰囲気を醸し出し、「ニャー」とも何も発することはせず、動き出すのを黙ってじっと待っている。
観念した私は「わかったよ、やるよ」と、いつもギリギリのところで重い腰を上げられ、踏ん張らせてもらっている。

妻は当初の予定通り、翌日に帰省し、火葬に立ち会った。

専業主婦であるお義母さんが一番世話をして、もっとも濃密な時間を共に過ごしたから、ペットロスが心配である。
でも、それを立ち直らせてくれるのも、多分ミッちゃんで、こちらは猫の無言の圧とは違い、しっかりと目を見つめて尻尾を振って来るのだろう。

そして、それはこれから長きに渡り支えとなるのだと、生意気ながら、そう思う。

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