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エッセイ 戻れない(#シロクマ文芸部)【風車】

 風車を見るとそれは羽根に飛び乗るものだたと考えるようになったのは、大学生の頃にゲームをやりすぎたせいだと思う。

 小学生の頃、きょうだいで遊ぶようにと買い与えられたファミリーコンピュータは案の定、年上のきょうだいの独占物となり(私が幼すぎて、ファミコンでは遊べなかったせいもある)、私がビデオゲームで遊べるようになったのは、そのきょうだいが家を出て行った、大学生になった頃だった。もうハードの主流はプレイステーション2になっていて、2次元のドット絵しか知らなかった私は3次元のゲームに驚愕した。ポリゴンの世界を歩き回るだけで楽しい。いくつかのアクションゲームをやり、自分の反射神経の悪さに絶望した後、RPGやパズルゲーム、要するにあまり運動神経の必要がないゲームをやることにした。

 映画やドラマを監督や脚本で選ぶみたいに、特定のゲーム会社やクリエイターのゲームを追いかけて遊んでいた。「風車を見ると」の原因は、アクションアドベンチャーゲームのICOだと思う。

 ツノの生えた主人公の男の子が、少女と共に不思議なお城を脱出するゲームだ。色々事情があって、プレイヤーが動かせない仕様になっている女の子が、お城に出てくる謎の影に連れ去られてしまうとゲームオーバーになる。
 ツノの生えた男の子は身体能力が高く、高いところに登れたり、たくさんジャンプできたりするけれど、女の子はそれができない。だから二人は同じ道を通ることができず、お城の仕掛けを動かすなどの工夫がいる。そのあたりがパズル要素になっている。

 今のゲームの映画のようなグラフィックには及ばないが、当時の自分にはびっくりするほど綺麗なお城の中を、自分で動かせるキャラクターで走り回るのはただただ楽しかった。

 ただ一つ困ったことは、歩き回って仕掛けを動かしてしまうと、壁が壊れたり、柱が崩れたりして、そこには二度と戻ってこられなくなるということで、元来臆病な私は、それがものすごく怖かった。風車の羽根に飛び乗ったり、物をおっことしたりしてようやく作った脱出経路なのだから、本来は喜ぶべきなんだろうが、「ああ、戻れなくなっちゃった」と内心ビクビクしながら前に進んでいた。

 しばらくして同じクリエイターの方が関わった「ワンダと巨像」というタイトルを遊んだ時も、(タイトルの通りワンダという主人公が巨像と戦うゲームなのだけれど)話を進めずに、主人公を馬に乗せて、草原を走ってばかりいた。巨像と戦うのが怖かったのである。(なんでこのゲームを買ったんだ)

 他のゲームで遊んだ時にも言えることだが、私は怖がりなので、ボスと戦ったり、次のエリアに行ったりする前に、必要以上の準備をしてしまう傾向がある。体力強化のアイテムを全部集めたり、そこのエリアで買える最強の防具や武具を買うまで次のところに行かなかったり、そういうことだ。少しゲームをやる方なら想像に難くないように、この遊び方は、ドキドキ感が減る。アドベンチャーゲームのアドベンチャーたるところを著しく毀損してしまう。

 バージョンが進むたびに買っていたプレイステーションも4になった頃、「人喰いの大鷲トリコ」というタイトルが出て、それも当然買った。

 相変わらず、敵が出るのが怖くてなかなか前に進めなかったが、ICOを遊んでいた時のように「帰れないから怖い」という感覚は減っていた。きっとそれは自分が歳をとったせいだと思う。多分、色々遠出をしたせいだ。

 どこかに何かの用事に出かけるとき、「また来られる」というところは案外少ない。もちろん仕掛けを動かして破壊してきてしまったからではなく、時間とか、環境とか、そういう色々な都合で「または来られるかはわからない」ところがほとんどなのだ。

 小さい頃はそれが寂しくて、すごく嫌だった。(小さい頃の方が、時間的にまた来られる確率が高いのに、おかしな話だ)今では、また来られる云々よりも、「来ることができた」の喜びの方が大きくなった。帰り際も、「来られるかわからない」というより「また来よう」と思うようになった気がする。

 道中においてもそれは言えて、昔は行くべきところをしっかり下調べして、どうにかスケジュール通りにつかないとすごく嫌な気持ちになった。ものすごく欲張りだったのだ。今は目的がひとつあれば十分で、おまけにいくつか寄れれば上等、ぐらいの気持ちでどこにでも行ける。昔は自分より年上の人のそういういい加減なところを信じられないように思っていた。なっちゃったね。そういう年寄りに。ごめんね若い頃の自分。

「戻れない」の怖さは「取り返しがつかない」の怖さだろうと思う。実際、小さい頃の私は毎日そういうものに怯えていた。今はそういう恐怖がずっと遠くなった。「取り返しがつかない」なんてそうないな、ということを学んだせいだと思う。それは「取り返しはつく」という意味とは少し違っていて、元通りには確かに戻らないかもしれないけれど、何かを維持したり、続けたりすることは全く同じ状態を保持する、とは違うということがなんとなくわかってきたのだ。

 大きな風車が回るのを見ているのは楽しい。でも、えいや、と飛び乗った時の喜びや、先への道を見つけた時のわくわく感は見ているだけでは得られなかった。飛び乗るような勇気が、今でも自分にあるだろうか。仕事をしていたり、何かの計画を立てたりしているときに時折思う。新しい道を探す勇気が今でもちゃんと持てているだろうか。

 回る風車に、えい、と飛びついて、失敗しても戻れなくても、笑ってまた飛びついて行けるような自分でいたい。そういう勇気を持ち続けていたいのだ。泥だらけの擦り傷だらけになるかもしれないが、その方が、きっと楽しいだろうから。

エッセイ No.114

小牧幸助|小説・写真・暮らしさんの#シロクマ文芸部に参加しています。
今週のお題は「「風車」から始まる小説・詩歌・エッセイなどを自由に書く」です。