太宰治になりたい

ずっとずっと太宰治に憧れて、今も太宰治になりたいと思って生きている。軽やかな文体から些細な心の機微を読み取らせたり、人間の羞恥心を己が傷付くことも厭わず書き切ったり、刹那的などうしようもない、けど憎めない生き方だったり、センセーショナルな死に方だったり。私の理想で偶像で同一化したい人間だ。

時に人は自死に対して弱い人間のとる行動、責任が伴っていない考えの甘いものと捉えるが、私にはそうとは思えない。その人にしか見えない何かに追い詰められて、常にそれに見張られて、けど対処のしようもない極限の状態にあると考えてみてほしい。いくら気のおけない間柄の人であっても、当事者にしか見えない何かに関する相談をできるだろうか。見えない何か、というのは昔では革命に対する意識であったり己の信条だったり、そういうものの場合もあったと思うが、最近のそれというのは本当に幅広くて未だ残る様々な人種差別、人間という多面体に於ける一面への非難、マジョリティを自称するものからの過剰な誹謗中傷、挙げだしたらきりがない。しかもネットの発達によってより簡単に本人を攻撃できるようになってしまった。それが著名人であっても、一般市民だとしても。

自死を悪として非難する人々は、そして見えない何かと化してしまった人々には、その前に亡くなったその人の立場になってみてほしい。遠い存在だと思っているのなら考え直してほしい。たかが同じか弱い人間で、その容れ物に入っている心というのはその器以上に脆く簡単に崩れる。それはどんな屈強な人でも病弱な人でも等しく同じだ。誰にも解ってもらえない、と思いそのまま命を落とすのはその人自身の世界をそうさせてしまった周囲に等しく責任がある。

あくまで個人的な意見だが、最近心無いニュースを耳にする事が多くて、しかもそれに対する過剰なマスコミの対応も癪にきて無駄に熱のこもった文章になってしまった。人の命は人種や男女、地位を問わず近しい人々に深い悲しみをもたらす。神や仏じゃないけれど、救えるものなら救いたいしその人の心を一時的でもいいから肯定したい。

どうでもいい話だが私が今後連れ添う人が現れるとするなら、死にたいと言ったら一緒に死んでくれる人が良いな、と思っている。だいぶ端折った言葉になってしまったが、真っ向からその言葉を否定するんじゃなく、寄り添ってくれる人が良いということだ。共感や共鳴しなくていい、意見なんて求めていない。ただ傍で話を聴いてもらえるだけで救われるのだから。人間は脆い、しかし(言い方は悪いが)単純な造りでもあるのだ。

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