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今1番整理がついていないことについて

クラファン期間を通して、心の整理がついてきたことがたくさんあった。
特に、どうして自分はここまで子どもとの関わりが大切だと感じるのか?とか、何のために今やっているヒーリングの仕事にやりがいや喜びを感じているのか?ということの整理がついてきたことで、すごく納得感を持って仕事に向かえるようになった。というか、働くという感覚ではなくて、「生きる」という感覚でできるようになった。
この感覚でいると、自分がとても楽で、ただやりたいことをしていることで循環が起きている、という感覚になれる。

一方で、循環が起き始めたところと、まだそうでないところの、対比がはっきりしてきたことで、まだ整理のついていない部分に焦点を当てて、自分の中で整合させていきたいと思った。

私の中で、今1番しっくりきていないのは、実は英語。
今までただ純粋に楽しくやってきたことだったから、向き合わなくてもやってこれた。だけど反対に、(今まで何度英語に救われてきたか分からない割に)自分がなぜ英語が好きなのか?意外と一度もしっかり考えてこなかった。

なんだか、ある程度英語が話せるようになってからの方が、英語に対する情熱が薄れてしまったようにも思う。そのくせ、私のゴールは、始めた頃から変わらず「ネイティブ」である。笑 そりゃあ、一生終わらない。笑

英語が持つ中毒性

あんまり今モチベーションがないとはいえ、なんで英語が好きなのか、振り返りたい気持ちは変わらない。ので、今日は、書きながら整理したいな、という気持ち。

まず、パッと思いつくのがこれ。

英語って中毒性がある。
特に、発音をしっかり学んできている人には分かってもらえると思うんだけど、英語の発話って、日本語よりも気持ちがいい。
日本語に比べて、息もたくさん使うし、肺から口の先までを、息が通る一つの流れで捉えて話すので、この息の通り方が one stream (一つの流れ)って感じで気持ちがいい。
そこに加えて、日本語では使わない音がたくさんあって、そして、子音の後に子音が来たり、子音で終わったり、日本語にない「音のルール」がある。
母音は有声音だから、声帯が震える分、そんなに息を使わなくても音になる。でも、子音は無声音のものも多いから、そうすると必然的に息で音を表現しなければいけない分、たくさんの息が必要になる。

ひとつの息の流れの中で、たくさんの音を口や喉で生み出す。
できるようにならないと分からないので、出来るようになりたい人にこそ伝えたいのが残念なところ。だけど、本当に、英語で話す時って気持ちいい。

人格が変わる

英語脳とかってよく言われるけど、あれってギアみたいな感じ。

日本語   英語
    |

これがニュートラルだとしたら、

日本語   英語
      /

こんな感じでギアが右(英語)に寄ってたり

日本語   英語
     \

こんな感じでギアが左(日本語)に寄ってたりする。


これって結構、気分的なものが大きくて、
今日は完全に日本語しか喋りたくない気分だわ。って日もあれば
一旦英語で話すと、その後も英語の方が楽だったりもする。気まぐれ。

で、英語脳って言われてるのって、この英語側にギアが入ってる状態のことだと思っていて、そうなると、日本語を全く介さなくても英語が出てくる。
そういう状態の時って、性格も変わる。

何を話したいか、とても直線的に意識が向いたり、普段日本語では出てこないような冗談が出てきたり、相手にどう思われるかを気にしなくてよくなったりする。
これがすごく、居心地がいい。

英語を学び始めて、そこから外国人との関わりが増えて、一番嬉しかったのは、窮屈さから解放されること。
日本人も好きだし、たくさんいいところはあるけれど、私が一番窮屈に感じてしまうのは、「普通(常識的に)はこうだよね」と、その人の常識を押し付けられたり、相手がどう受け取るかまで考えて喋らないといけなかったりする、日本人の集合意識。
日本人からしたら馴染みすぎてしまっていて、私がこのように感じてると伝えたところで伝わらなかった体験がある。特に、私より上の世代の人たち。

例えば、何か聞きたいことがあって、「聞いてもいい?」と声をかけた時に、「いいよ」と言っておきながら、心の中では「今忙しいの見て分からないの?」と思う人。
日本人、ここで「いいよ」と言いがち。
だけどシンプルに、「ごめん忙しいから後にして」「あ、分かった」だけで済む話。
察してくれない相手が悪いんじゃなくて、察してもらおうとしてる方にも責任があると思う。けど、こういうもどかしさ、日本にいると感じることが多い。

でも私、諦めない。笑
分からない人に分かってもらおうとしなくても、無駄に気を使わなくとも楽にいられる関係を私は持っている。
むしろ、そういう関係を知らないなんて、かわいそうに。笑
(ちょっと英語っぽい皮肉。笑)

英語って、端的で直球なところが好き。

個性や感情が受け入れられる

日本でストリートアートが流行っているのを、私はほとんど見たことがない。最近はストリートピアノが街に置かれ始めて、YouTubeなどでもバズっている人が増えたけど、でもそれってとんでもなく上手なひと握りの人たちだけで、中途半端な人たちは相手にされないのが日本の風潮な気がしている。

海外だと、これがコミュニケーションに変わる。
私もいろんなところでピアノを弾いてきた。
留学中、大学にある大きなホールダイニングにグランドピアノが置いてあって、そこでいろんな曲を弾いた。好きな部分だけ弾いたり、まだ練習中の曲を弾いたりもした。
弾き終えて、さあご飯取りに行こう。とブッフェに向かうと、そこで食事をしながら私が演奏するのを見ていた学生たちから、「よかったよ!Good job!」「私あの曲好き!」などと声をかけられたり、拍手をもらったりした。
中には、ピアノを専攻している子が乱入してきて、一緒に初見で連弾したりして、連絡先を交換して仲良くなったりもした。

イタリアのベネチアでも、ピアノを弾くとみんなその辺の人たちが拍手してくれたり、話しかけられたりした。
私がアジア人(珍しいから)だから、ではなく、純粋に、表現を楽しんで、そこからコミュニケーションが生まれていた。実際こうしたストリートで出会った人たちと仲良くなって、今でもFacebookなどで連絡を取ったりしている。

英語と直接関係ないかもしれないけれど、普通ではない人を軽蔑するのではなく、その個性を楽しめたり、楽しいものは楽しい!嫌なものは嫌だ!というシンプルなことを表現するのが当たり前に許されている環境は、やはり日本より海外の方が馴染み深く、私には合っている。

欲に忠実

「自由」と言ってしまえばそれまでなのだけど、これを言い換えるとするならば、「欲に忠実」なのだと思う。

お腹が空いた
喉が渇いた
眠たい
酒を飲みたい
ドライブしたい
セックスしたい…

私にとって馴染み深いアメリカ人は特に、みんな欲に忠実だった。良くも悪くも。

私のルームメイトの1人は、夜中に電話してると思いきや、男を部屋に呼んでセックスしていた。隣の部屋で勉強してた私には丸聞こえの喘ぎ声で、地獄に堕ちろと心の中で思っていたことは、今でも忘れない。

別にそこまで欲に忠実になれと言っている訳でも、なりたいと言っている訳でもないけれど、でも自分の興味があることに向かってまっすぐで、それを、相手が興味あるかどうかに関係なく、本人が楽しんで周りにシェアできるというのは、すごくいい文化だと思う。
というか、本人がものすごく楽しそうに興味のあることを話していると、聞き手に興味がなかったとしても「なるほど、それは確かに面白い」と思うものだ、というのを、私も何度も体験した。

会話のボールはまず自分から投げる。
勉強も同じで、先生が何かしてくれると期待するのではなく、生徒が学びたいからそこにいる。

アメリカの大学で、200人くらいの授業を取った時。
生徒たちがおもむろに手を挙げるのが当たり前だった。特に何か教授が質問した訳ではない。「今の話に少しコメントしたかっただけなんですが…」と、生徒たちが勝手に意見する。そのことに教授がレスポンスしたり、また別の生徒が手を挙げて、勝手にディスカッションぽくなったりする。

そういう積極的(proactive)なところも、好きだったなぁ。

時々、帰りたくなる。

日本も大好きなんだけど、こういうわけで時々アメリカに帰りたくなる。
同じ授業を取っている人も私も、めちゃめちゃハードに勉強して、授業中は刺激しあって、そして夜は飲み明かす。週に4回はパーティしてた。パーティから帰ってきて夜中にモンスター片手に勉強する。
週末は友達が迎えにきて、ショッピングしたり、ゲームしたり。

うーん。
結論としては、英語そのものも好きだけど、こういう文化的なものが、私により fit しているところに、居心地の良さを感じているのかもしれない…。

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