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人物造形のヒント⑤ 「ありきたり」に魔法をかける


きたー…! 

ようこそ、コンニチワールドへ…!

今回はとうとう「読み応えをキープして《普通》な人を描くには」についてお話したいと思います。YES! 

「身の丈感」。「VR感」。

私のお話の最大の特徴だと思ってるんですよ、日頃の努力に免じて、とりあえず自賛自称させてください、まさに、リアリティの魔法。ミラクルプレーヤーたちによるハイスペックなエロ場展開…! なのに読むうちになぜか、現実を忘れも、劣等感を覚えもせずに、すとんと物語のなかにいて、素敵な一夜を過ごしてちょっと大人になった、ような気分になる、この奇妙さ…どうでしょう…私の文章には多少、不思議なところがあると思うのですね、読んでいるとこう、特におかしいところはないのに、視界が滲んできて酔ったような気分になるというか…語彙も普通、表現方法も教科書どおり、内容も、描写がちょっと丁寧かなぁとは思うけど、目を引くような口調で書かれているわけでもなく、読み手の認識に挑戦するような独自の発想もみあたらない。台詞なんか初読はドキッとするものの、近々と見つめると普通の語彙の、普通の会話。エッチに至ってはものすごくドキドキするけど、起こっていることも言っていることも極めて、そう極めて、よくあるようなこと。さらに、場面が想像しやすいように見えて、何もかもを具体的に綿密に描写しているわけでもない。いっぽう、まるでケーキに砂糖をまぶしたみたいに、胸焼けしそうなほど過剰にキラキラした人たちなのに、妙に人間臭い…。

おかしい。

読んでから首を傾げていただいたことがあったら、すごく嬉しいなぁぁぁ。ずずいと勝手に話を進めさせてもらってますが、はい、私の物語世界にはこういう、謎にエモいというか謎にエロいというか、そのうえ謎にリアルなところがあって、その理由を探ろうとして「はて…?」とお思いのかたもあるのではと推測しています。ええ。私もね、自分のお話の謎エモく謎エロい、なんだかミステリアル(?)な部分、大好きです。というわけで、今日こそ! その秘密の! レシピを! 大・公・開!(熱っ)

あとね、ここのところ話が大きかったので、ちょっと緻密に迫る感じで行こうかなと。思います。描写が苦手だったり、浮いてしまったりしてお困りの書き手の皆さんの、少しでもお役に立てたら、幸いです…。

さっそく、お題に入ります。「『ありきたり』に魔法をかける」。

例えば、頬杖をつく。

登場人物がするにはあまりにも、ありきたりな仕草です。人によっては目にとまりさえしないでしょう。そう、ただ書いてもありきたりなのが、ありきたりの辛いところ。…さあ、こういった「ありきたり」に、書き手にしか呪文の見えない秘密の魔法をかけていっちゃいましょう! えへへ。←嬉

あ。※ありきたりといっても、

爆発するぞ! 伏せろ!

という、テンプレ的なありきたりではないです。テンプレには美学はありますが個性はありませんし、なにより、読み応えのあるテンプレは概ね状況が異常。ね。ここで言っているのはこう、もっと日常的な「ありきたり」です。その辺りは前提として、ご承知おきください。

頬杖に戻ります。爆発で伏せるのに比べたら頬杖には断然、ドラマはありません。が、頬杖のつきかた・その理由・それが周りの人に与える影響というのには、爆発で伏せるに比べて大いに個性がありますよね。

うおぉ、バリエーション書き込みたいなぁ。私はこの「あたりまえにある、いちばんその人らしい部分」を、愛してやみません…しかしながらですね、今日の主題はそっち、その人らしさとか個性じゃないのですね…そちらは必ずあるものですので、魔法というより、書き手の表現力の範疇。ちょっと悔しいけど、今回はそちらからは、目を逸らしておきます…。

こっちです。追って明らかにしていきます、このような「ありきたり」こそが、登場人物と読み手の心を繋ぐ素晴らしい架け橋になってくれるんです。

読み手が退屈するならわかるけど、心が繋がる? ね。退屈な「頬杖をついた」があるのも確かです。しかし、退屈に感じるほど読み手が知っている、「近い」表現であるのもまた確か。「ありきたり」をめぐる退屈さと臨場感との、この難しい関係について、ではいつものように、気楽に、けれども深々と、考えていくことにしましょう。

頬杖をついた。書き手的には、こういうのは性格も見えるし、特に準備なく使えるうえ、場面に動きができる。流れでなんとなく書きがちですよね。まあ、なんとなく書くのはいいと思うんです、むしろなんとなく思い浮かぶなんてラッキーかもと私なんかは思いますが、つまり、こういうのはなんとなく書いてみて、じゃあそれをどうするか、ということが書き手力として問われるわけです。紙面は限られています。あなたはそれを割いた。なんとなく書いて、ただ先に進むのってなんだか、もったいない気が…しませんか? でもねぇまあすでに役割は果たしている気はするし、どう料理したものか…。

私なら…?(今回はコンニチワールドの秘密を暴く神回(?)ですので、ちょっとだけ、私自身の話もしちゃいます…)

まずもって読み手としてということになりますが、私は人物が頬杖をついたときには、まるでその人がそこで頬杖をついたせいで世界の意味が変わってしまったような、そんな気分になりたいんですね。これは自分の作品でなくとも変わらないです。文学作品において、私が読む全ての文字には、意味があってほしい。私はそれなりの読書家であるということもあり、自分の頭より手を信じています。私が「なんとなく」書きたくなったということは、そこに意味があり、まだ書かれていなかった読まれるべきものがあるということかもしれない。そういう次第で、あとで切るかもしれない、でもイメージとして思い浮かんだらまずは一か八か、それが世界の意味を変えることを大前提に筆を取り、スローモーションの入念さで動きを追い、その意味の変わり目を探します。

頬杖なら、疲れ…自嘲…内省…自己防衛…対外的配慮の低下? 退屈…秘密…抑制…散漫…ポーズ…思わせぶりな態度? その人はどんな気分で頬杖をついたのか、それを見た人はどう解釈して、それは真実とどれほどずれているのか?  現実は誤解の集積です、他者どころか、人は自分をさえ誤解していることがある。心は見えないけれど、行動や言葉は必ずそこにあって、だから私は彼らの声にただただ耳を傾け、彼らの仕草をひたすら、じっと見つめます。じっと、見つめます。一か八かが、「当たり」だったとき、彼らは…なんということでしょう…私だけにこっそり、2本の鍵を渡してくれるんですね。物語の世界へ通じる鍵です。1本は物語の意味という、書き手用の鍵。もう1本は彼らの心の秘密という、読み手用の鍵…。

はい。彼らの渡してくれる鍵がぶつかり合って鳴る不思議な音を聞くこの瞬間、このスローモーションの瞬間、この、永遠に続く一瞬こそ、私が最も愛する瞬間。書いていてこの瞬間が来ると、それまでぎこちなく筋を追っていた私の指にもようやく神経が通いはじめ、私はその指の先で彼らの輪郭をおそるおそる、清書しはじめます。私はだんだんと確信します、まるで、機械でさえ見逃すような凹凸をも感じとる、そうです、生きた指先で、彼らをなぞっているよう…。こうして、彼らに本当の名前を尋ねたり、彼らを背後から尾行したり、ベッドの横にしゃがんで愛し合う彼らを見つめたり、彼らが寝ている間に勝手にアルバムを見たり体を丹念に調べたり彼らが出したゴミを漁ったりする(←)、はい、私の妄想ドキドキタイムが始まりまるのですね。これは…一回オンになると眠れなくなりがち。書き上げるまでずっと息が上がった状態です(『春を謳う鯨』47話の4ヶ月は、ずっと発情期という大変な時代でした…)。

いやさ、なんか…楽しそうでなによりだけどね、それは書き手の趣味つか、個性でしょー…。

と、お思いでしょうね、それがねそうでもないんですよ。という、この趣味あるいは個性に至った理論の部分をでは以下、していきますね…私事で恐縮でした、ここからやっと一般論、気を取り直して書き方講座らしく、ちょっとした演習に入りましょう:

演習です。あなたは、バス停で…バスを待っています。で、隣に並んでいたカップルをちらっと見て、こっちはこんな性格、そっちはこんな性格で、こういうところで惹かれあってて、こういうところでぶつかってるんだな、と観察している自分を想像してみてください。

どこを見ていますか?

これを自覚することは非常に有効です。こんなふうに仔細な想像は、もしかしたらお好みではないかもしれませんが、それでもぜひ、きっちり考えてみて。いまは、「書く」立場ではなくて、あくまで「たまたま観察してる」立場で考えてください。あなたがこの思考訓練で注目するのは、彼らがどんな人かではありません、あなたが彼らのどこを見ているかです。

どこを見ていますか?

あなたはこのカップルに対して一切の知見がないので、情報を集める必要がある。どうでしょう(すみませんここでは、男女の、年齢差もそれほどない若めのカップルで話を進めますが、もちろんです、お好きなように、ご想像くださいね!)、男性の方はスニーカーが新しいけど女性の方はヒールのキズを放置しているらしいとか? そこまで細かくなくて、男性が女性の髪からゴミを取ってあげるときの手つきとか、それぞれの視線の漂いかたとか、服というより服の趣味の違いが気になっているかもしれませんね、それに、会話のテンポのようなものとか…なんとなく混じっている方言とか…。

小説で書かれがちな、「付き合いたてらしい若いカップルがいた」「男のほうは背こそ高くないが見目はよかった」「女のほうはセミロングの髪で今風の格好をしていた」というような見方ではないはずです。背が高くないと思ったのは女性と比べてかもしれないし、あなたの恋人と比べてかもしれない。見目がいいと思うまえに、顔や体つきをさっと見たはずですし、女性の髪を見て一番に気になったのは長さでなくそのツヤのはずで、今風だと思うのは、あなたがテレビ雑誌の類か原宿あたりの女の子の、ある性質について、それを今風だと思っていて、それにその子が当てはまっているということです。二人とも若い? どうしてそれがわかりましたか? お気づきでしょうか、小説でよく見かけるあの「わかりやすい」記述は、結論であって観察ではないのです。

結論は、抽象化されています。理解はしやすいかもしれません。けれども、結論から成り立つ「描写」に、読み応えやリアリティは生じないんですね。なぜかという問いへの答えは簡単で、それが現実的な思考に根差していない、ただの類型の提示であって…ここが大事です…なにより、それらの抽象化というプロセスは、本来なら読んでから、読み手の心において発生すべきだからです。

いま、ふと何かにお気づきになったかたは…ご自分の作品の描写に戻って、よくよくその周辺を読み直してください。味気ないところ、ありますか。そこね、「やらかして」ません…?

結論的描写は読み手を「これはこう遊ぶおもちゃなんだから、こう遊ばなきゃだめ」と言われた子どものような気分にさせます。どう遊ぶかは、おもちゃや説明書を見た子ども自身が決めること。あまり続くと子どもの遊び心はもちろんモチベーションをも殺いでしまうことは、教育学を専攻するまでもなく、わかるはずですね…? 書き手としてのあなたに出来ることは? そう、あなたが遊んでほしいと思う遊びかたへ誘導するようなデザインにする、たったそれだけなんです。それだけでいいし、それしか、できません。

どこを見て、そう思うのか。

それを見て、どう思うのか。

たとえ言葉になっていなくてもいい、読んでいてこれがどこにもない描写は、どんなに詳細でも現実味に欠け、浮薄になりがち。お困りの際にはまず見直してみましょう。

もちろんこれは、状態だけでなく動作にも言えます。気がかりな場面をご持参ください。巻き戻して、再生して、ストップ。その辺りからですね、何度か、ものすごくスローに再生しましょう。なにが見えますか? さっき気づいてはいたはずなのに、意識のうえでは見逃していた大切な何かはありませんか? 動きに気を取られて、何かを見落としていませんでしたか? さっきは人物に集中しすぎだったかもしれません、周りもよく見て。こういった全てをあなたは見ていました。最後にいちど、巻き戻して、また普通に見てみましょうか。

どうでしょう。

登場人物の気持ちがわかりますか? それとも、まるでその動作のせいで、なにもかもが変わってしまうような気分に? その動作はある感情の終わりであり、かつ、始まりです。結果であり、かつ、原因です。その人を見た主人公でも主人公を見る人でもいい、その行動を見た人が、できれば同時にその行動をする人が、感じていることを、読み手も感じられるでしょうか?  あるいは、そこには彼らには思いもよらないだろう、ひっそりとしつつも感嘆させる、読み手だけに許されたあの喜びが…あるでしょうか?

紙幅の都合ももちろんあるでしょう、場面を進めなければならず、いちいち構ってられないときもあるでしょう、それでもどこかしらに、この濃さの描写を入れてみてください(それもなるべく、読者に結論を任せるような仕方で!)。きっと彼らが目の前で動き出したような、不思議な気分を味わえるはずです。

ね。

ようこそ、コンニチワールドへ!


ついでです、このカップルを副人物的に登場させることにしてみます。まずしてしまうこと…それは二人の外見の描写です。だと思われます。

で、ちょっと待って。

そもそも、あなたにはその二人がカップルだと思うまでの時間があるはずです。理由はなんでした? 二人の距離感ですよね。何年くらい付き合ってると思いました? 男性の方のムラムラ感ですぐわかりますね、じゃあ、その距離感やムラムラ具合は何で知りましたか? 肩がくっついてるとか、なんだか遠慮がないとか、女性のほうがぽーっとしてるような感じだと思ったら妊婦さんマークが鞄についていたとか…あなたはそれらに気づいたときの満足や、さらなる疑問や、ふとした驚きを、書き入れることができます…別にね、名探偵ホームズになれと言っているわけではないんですよ、あなたなりの見方でいい。自分が人を見るときにどこを見ているか、ちょっと自覚するだけで、物語の世界はまるで霧が晴れたようにくっきりしてきます。書こうとするとイメージが先行していて、この感覚が薄いんですね、だから私は推敲を応援します。せっかく思いついたんです、できる限り、素敵な場面にしてあげてください…!

大切なのは…大切なのは、手を繋いだ事実ではなく、気温や、天気や、手を繋いだタイミングや、長さや、力の込めかたや、お互いの反応です。「手を繋いだ」だけでもきちんと想像はつきますよ、書き手は「手を繋いだ」事実は書かなければいけないでしょう。でも、その事実自体に読みのリアリティはない。私たちの目は無意識に、手を取ったのは男性からか女性からか、それは後ろからか前からか、アイコンタクトがあったか、そのあとお互いの反応はどうだったか、追っているはずだからです。手を繋ぐ二人を見て、読み手は何を思えばいいですか? そこに二人を見た主人公と同じ、うまく言えないけれど、それぞれはくっきりとした、複雑な思いがあって、言葉にならないその気持ちに言葉を探しながら、主人公と一緒に黙ってこの二人を眺める…それは読み手にとって、とても楽しい瞬間ではないでしょうか。



これが、通常の「二人は手を繋いだ」と、私の「二人は手を繋いだ」の、違いです。


(お話を書くのが、大好きです!)


今日のポイント:
「ありきたり」に魔法をかける。


次回までの宿題:
いわゆるポップソングの標準的な演奏時間は4分程度と思われます。好きなポップソングはありますか? その曲は何度も聴きますか? その曲を聴きたいと思うのはどんなときでしょうか。その曲を聴いている約4分のあいだに、あなたの心には何が起きていますか。…もし、その曲にあって、あなたの作品にないものがあるとすれば、それはなんでしょう? もし、その曲を聴いたときに感じる「それ」を、あなたが作品を通して実現するとすれば、あなたは書き手としなにを試みるでしょうか。 →答えがある宿題ではありません。これは「きっかけ」という、私なりの感謝の表現形(のつもり)です。ひらめきがあったらぜひ、教えてください!

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。