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【短編小説集vol,3】鎌倉千一夜〜下り銀色列車にて

13,暗渠赤飯

 いつも小さなことでも喜びのあった日には赤飯を買う。主人の昇進の日も、息子の合格の日も、私が試合に勝った日も。母も私が大人になった日や学校行事の日や進学するたびに赤飯を用意してくれた。一番最後は婚約を報告した日。嬉しさと不安であまり喉を通らなかったがあの赤飯の味は今でも記憶に残っている。父もあまり手をつけず、母がその分「ああ良かった、今日のは一段と美味しいわあ」と言いながら食べていた。気持ちが上向きの時に食べるからというのもあると思うが、なにより赤飯はもち米だからいつものご飯以上に噛み締めることでたくさん唾液が出るからか特別に美味しい。普段の日も食べたいがハレの日の楽しみとして我慢している。二つだけ私のこだわりがあって、黒と白のごま塩はかけないこと。喪の色だから。そして買うお店も決めている。小町通りから曲がってちょっと歩いたところにあるお店。餅菓子やおはぎなんかと一緒に赤飯を売っている。というよりむしろ赤飯がメイン商品。少なくとも私にとっては。
 このお店の佇まいはちょっと不思議。ちょっと見にはわかりづらいけど、段葛沿いに流れる小川の上に建っている。きっと昔は小川に橋がかかってて、トントンと渡ってお店に入ってたのが人通りが増えていくうちに塞がれて道路化されたんだと思う。今や観光客のだれもそこに流れがあることには気が付かない、まさに暗渠。でも生活排水も入らないからきれいなはず。いつも細い流れがあって、雨の日は水かさが増してまた細くなってを人知れず繰り返している。
 半年前、主が職場で倒れた。クモ膜下出血。一命は取り止めたけど寝たきりになった。東京の広告会社に勤めていた夫はコロナ禍が落ち着いてもオフィスはフリーアドレスで、会社に自分の居場所を感じられないまま営業の毎日でストレスがたまったんだと思う。
 私はといえばバドミントンサークルに入り、家事もそこそこに、のめりこんで県大会では優勝するほどまでになっていた。ある日、試合をしている間にスマホに連絡が入っていた。折り返したら御茶ノ水の病院から。運び込まれたときはすでに意識はなく緊急手術を待っていると知らされた。慌てて残りの試合を放り出して駆けつけた。
 一命はとりとめたが半身不随になり、会社は5年を残して早期退職。私が働きに出ることになった。サークルの友達が、知り合いがやっている東京の会計事務所を紹介してくれた。車に慣れていた身には超時間電車通勤がキツい。バトミントンとは使う筋肉が違うのか? 毎日仕事と家事と看病に追われ黙々と駅に通う日々。このところ赤飯を買うこともなく店の前を通り過ぎる。サークルの人たちに会うこともなくなり、仕事場では定時の間黙々と事務を行う。小さな事務所なので、私の他は就業時間の大半を外に仕事しに行く会計士二人。日中の話し相手はいない。ただひたすら事務をこなす。
 半年が過ぎると私も疲れがたまりイライラして夫に当たり散らし、やがてこれらの状況に辟易するうちについにダウン。夫の隣で床に臥せる。それでも家事はこなさなくてはいけない。仕事もずっとは休めない。あまりのつらさに絶望する。夫が元気な時、私は会社へ送り出した後に好きなことばかりしていたんだと改めて気づく。結婚して30年近く夫は毎日玄関にかかっている絵画のように同じ表情でドアを出ていっていた。仕事の愚痴も家に持ち帰ることはなかった。それなのに私は…。ささやかだが小さな喜びとあの日の赤飯のおいしさを思い出し塞ぎ込んでいると、見かねた夫が謝ってきた。
「俺のせいでごめん」
顔を合わせるたびに謝るようになった。なんで謝るの?そんな気持ちにさせたものは何?私のイライラ?病気なんて自分の責任じゃないのに。誰にだって突然襲いかかる可能性は充分にあるのに。
 私って今まで自分のことしか考えてこなかった。夫を仕事に送り出す自分、子供を無事進学させた自分、家事をこなす自分、やることはやっている自分…。そうやっていい訳をしてきた。サークルに遅刻しそうな時、洗い物をそのままにして行っても、帰ると片付いていた。会社に行く前に夫がやっておいてくれたのだ。そんなことも、いつも私がやっているんだからたまにはいいじゃないフォローしあうべきなのよ、そうやって労いの言葉もかけなかった。洗濯物も裏返しのことはなかったし、棚の上のタオルもいつも私のが低い方に移して置いてある。私が届くようにしてくれていたのだ。私が大変にならないようにいつも気にしてくれていた、それなのに、私は彼の優しさとしか考えていなかった。
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
 仕事に戻った。毎日が忙しい。一生懸命やっているのに誰かにこのつらさを分かってほしい。私は横須賀線の銀色列車で東京に向かい、数時間黙々とデスクワークをして、また銀色列車に乗る。何の変わり映えもしない日々。雪予報の日。夫は部屋を暖かくして私の帰りを迎えてくれた。雪解けでぬかるむ翌日の水曜日。私は久しぶりに赤飯屋に寄った。1年半ぶりなのに店の主人は「まいどどうも」という声で赤飯を渡してくれた。食卓に久しぶりに赤飯が並ぶ。久しぶりのもち米を噛み締める。となりに夫がいる嬉しさを噛み締める。今日の赤飯は涙の味がする。それは初めて感じた味だ。
「今日は何かあったの?赤飯なんて」
夫の声に私は返す。
「だってこんなにいい日じゃない」

14,東京ステイ

 「そうだ東京に泊まろう」と思った。通勤で平日は毎日通っているのにだ。もともとは上野の国立博物館での雪舟展を見たかっただけなのだが、どうせなら上野の森もゆっくり歩いてみたかったし、アメ横の”肉の大山”も久しぶりにのぞいてみたかった。祝日のくっついた連休なので2泊することにした。そうなるともう一つくらい展覧会を見たいし、夕暮れにいくつかの老舗の居酒屋をハシゴしたくなるはずだ。東京は展覧会が目白押しだ。日本全国から、世界から何でも届く。それは東京に住んでる特権なのだが、実際に住んでいる人は残念ながらそれを忘れている。
 北鎌倉へ抜けるトンネルを抜けると徐々に潮の気配が薄まっていく。イヤフォンを耳に差しオーディブルのアイコンをタップする。昨日帰宅で聴いていた文学賞を獲ったというミステリーを再生させたが、どうも今日のこの瞬間には気が入り込まず、停止してスボティファイで私向けの今日のレコメンドメニューにした。ボブマーリーのONE LOVEの前奏が始まった。まあ悪くないのでそのままにしておいた。大船を出るともう空気は横浜だ。さらに京浜という名の通り、そこからは東京への助走みたいなものなのだ。いつもの通勤とは違い、朝10時であるにもかかわらずグリーン席窓脇のスペースではすでに缶酎ハイとチーズ鱈を始めている。あ、もちろん通路右側の座席は午前の日差しが眩しくてシェードを降ろさないではいられないので、当然左側の窓際を死守する。それによって柏尾川沿いから藤沢エリアの小高い丘の先に丹沢、そしてその先に富士山が望めいい肴となる。休日とはいえ車で来る気はなかった。ふだんはこんなに子供みたいに車窓に向き合うことはない。ニュースやらメールをスマホで見続けることになるからだ。こうして車窓の景色に集中するといつもは気づいていなかったものが見えてくる。鶴見の総持寺の参道、新川崎の機関区がなんとなくスイスのバーゼル駅と似ていること、多摩川河川敷のゴルフ練習場のヤーデージなどなどまったくもって見える景色は新鮮だ。多摩川の鉄橋を渡ってからは流れていく車窓の景色はどんどん建物が密集していき、どんどん高層になっていく。 
 東京駅に降りてからはいつもの地下鉄丸の内線には向かわずに、地上階の山手線ホームに向かう。神田、秋葉原、御徒町、上野。あっという間に到着。まだ昼前だ。公園口を出てゆっくり文化会館と西洋美術館の間の道を歩くと、大噴水へ続くメイン通りに多くのテントが建てられ、どうやら骨董市をやっているようだ。これはラッキーだ。いつかの時もたまたまこの催事に出くわし、織部の角小皿を3枚買ったのだが、塩辛や漬物など肴の味が混ざらないようにできるので晩酌に重宝している。2泊とはいえ荷物は肩に掛けたトートバッグだけなので、ちょっと覗いてみることにする。出店している人たちは全国の催事場を回っている人もいれば、この時だけ出す地元の骨董屋もいる。全国を回る人は新たな仕入れを会場で行うことも多い。その土地ならではの出物を仕入れ、それを珍しがる別の土地で商いする。私の狙いは地元の骨董屋のほうだ。まだまだ木造旧家の残る台東区エリアはかつての山の手ゆえ出物に巡り合える。連休開催初日は昼からのスタートなので、ぎりぎりオープン前だ。全国型店主はまだ自分のテントを整えるのに手がかかり、まだ他店を物色に行くには余裕がない。今がチャンスだ。速足で各店を物色する。最近気になっているのは薄茶を入れる棗だ。鎌倉に住むからには鎌倉彫をひとつ、ということで使い込まれた平棗を一昨年手に入れた。今はオーソドックスなサイズのいい中棗に出会いたい。気分は徳川栄華を象徴するような蒔絵物。茶道具を扱う店には棗を収める20立方センチくらいの桐箱があるはずだ。まだ店頭に並べる前のものも見逃さないようテーブル下の地面にも注意を払う。しばらくきょろきょろ歩くと、茶道具を置く水屋を展示棚にしている、いかにも茶道具専門のような店づくりのテントがあった。だが、ここは一応気に留めておくだけにしておいて、狙うはもっと広範囲に品ぞろえをしつつも一つ一つに何か惹かれる質感があるところだ。旧家の跡継ぎが途絶え、家をたたむ際に蔵のものをごっそりと託すような場合、いい物でも一つ一つ吟味してる時間がなかったりして、ある程度まとめていくらということにならざるを得ないので出物があるのだ。骨董屋も保管場所に困るから早く売りさばきたい。と、捜し歩いていたら…あるある、上野桜木創業100年とうたった看板を出し、節句人形や絵皿、織物などを並べている。店主はごそごそと段ボールを開けては、テーブルに並べている。今取り掛かっている段ボールの隣に、あるある、小さな桐の箱が詰まった段ボールが。あの大きさは茶碗じゃない。棗か、もしくは香炉だ。
「ごめんください。お取込み中のところ申し訳ございませんが、その桐箱は棗ですか? あのー、すみません」
店主は作業に集中しきっていたのか耳が少々遠いのか、聞き返したらやっとこちらに気が付いた。
「棗? いやあ、おととい引き取ってきたばかりだからまだ中も開けてないんですよお」
ラッキーだ。相当のお宝ものもあり得る。
「蒔絵の中棗を探してるんです。よろしければ拝見できないでしょうか?」
店主は私の前のテーブルが開いているところに段ボールごと渡してきた。
「ちょっと開けてみてみてよ」
昇天しそうなチャンスだ。他店の物色マンに見つからないよう通路側に背を向けて、目立たないようにこじんまりとした動きでひとつづつ桐箱を除く。あるある、想像した通り香炉もあるが大半は棗だ。しかも旧家が大事にしてきたのだろう程度のいい黒塗りが続々と出てくる。5つ目の桐箱に目的の蒔絵物があった。藤の花を繊細に施した中棗だ。蓋を開けると何年ぶりに姿を現すことになるのか屋外の陽を受けて底のほうがほの光る。蓋を閉めると空気と漆が調和した絶妙のシールドで音もなく合わさっていき、その密閉感に職人が吹き込んだ命を感じる。ほかの箱もすべて開けてみて、もう一つ蒔絵物はあったがこっちのほうが私の好みにしっくりきた。文句なしだ。
「ご主人、この棗おいくらでお譲りいただけますか?」
店主は棗を手に取り蓋を開け閉めし掌の中でぐるっと回しながら細工を見、テーブルに置くと次は桐箱の蓋を確認した。
「あったんだねぇ、こんなのが。そっちの箱の中もこういう感じだったかい?」
「すばらしい黒塗りたちでした」
「ああ、そうかい。これ、江戸中期の藤重一派だね。なかなかのものだけどあんたに譲るよ。最近棗を欲しがる人なんかそういないし、黒塗りがいくつかあるならそれでいい。いくらがいいんだい?」
「え?言い値でもいいんですか?」
「あんたの目がどこまで利いてるかだね」
「現金の手持ちがあまりなく…、3万でいかがでしょうか?」
「それでいいよ。譲った! あんたラッキーだよ、店で売るなら30万つけようと思ってた」
「なんと! よろしんですか?」
「ああ、気が変わらんうちに早くもってけ!」
そう言って店主は棗を柔らかい布で拭き桐箱に収め、店でも使っているのであろう、不織布の風呂敷で包み手提げに入れて渡してくれた。
「こういうのは一期一会なんだな。あんたにもらわれたがったんだろうな、あの棗。大切にしてあげてな」
店主はまた次の段ボールに取り掛かり始めた。
 気が付いたら昼をまわっていた。不忍池に面した高層ホテルのチェックインは15時なのでそれまでゆっくり肉の大山でランチでも食べようとアメ横へ向かった。昔からここへ来たらハンバーグと決めている。妙に奥行きのあるカウンターは昔から変わらない。変わったのは自分のほうで、年齢のせいか完食したら腹がはちきれそうになった。これはいけないと、再び上野の森へ戻りあちこち歩いて消化を促しながらホテルへ向かった。部屋は23階。南側に面しているので西は新宿から東は東京湾まで見渡せる。それがほぼ東京中心部のすべてと言える。皇居、東宮御所、新宿御苑、明治神宮、ところどころに森はあるがそれを囲むように建物がパズルのようにすき間なく立ち並び、起伏なく遠くまでそのパズルは続いていく。
 ハンバーグをアテにハイボールを2杯飲んだ後けっこう歩いて部屋に入ったからか、ちょっと横になリたくなって靴を履いたままベッドに横になるとさっき見た東京の残像がまぶたに映る。残像は初めは23階からの遠景だが、いつしか徐々に視点が地上に移ると遥か下に黒い点がうごめく。蟻か? 集中して観察すると、それは人だ。蟻の行列のように集団となって地下鉄巣穴から出てくる。思えば広大なパズルはせっせとものを運ぶ蟻たちが作ったんだ。おそらく何かのきっかけでこのピースがすべてバラバラにされても、蟻たちはまたこのパズルを完成させるだろう。欠けたものは新たに作り埋めていく。さらにこの人という蟻は、巣だけでなく、便利なものを何でも作り出す。挙句全てがこの蟻の手による人工物となる。便利なもの、今まで見たことのないものを競って作り合う。だがそれらの人工物は見たことはないかもしれないが全てが想定内の出来で、言うならば子供の頃描く未来図止まりなのだ。たとえば建物は材質や設計デザインが斬新であってもそれはあくまで身を置く空間という機能にとどまる。何でもある、それが東京だが、作り続けられるものはしょせん過去の延長でしかない。麻布、世田谷、田園調布。箱庭の安心環境は作り得た。京町家の中庭のように市中に山居をもってきたのである。小さな自然を見て四季を感じようとしているのである。京町家では猛暑には深い軒先で日陰を作り、置き石に打ち水をして涼を作り出すのだが、東京ではクーラーの効いた部屋から窓ガラス越しに緑を見る。暑さも匂いも感じることなく。それではモニターに映した自然映像と何が違うのか? 仮に密室に壁一面モニターを貼り苔庭を映したら自然の中にいるような満足感を得られるのだろうか? だとしたら窓ガラスの景色とその映像と何が違うのか? もっと言うとメタバースシティとどこが違うのか?
 まぶたを開けると東京の街がいつのまにか夕暮れに包まれていた。光が当たる側に向いた窓ガラスや金属があちこちで強烈な反射をさせることでぐらぐらしたマグマのような様相を呈し、オレンジ色のパズルはもはやリアルな景色とは思えなかった。人工物が混ざり合って自然発生した東京独自の景色だ。窓ガラスのこっちにいる空間だけはありのままのリアルで、先ほどの骨董屋の紙袋が目に入ると無性にあの中棗を触りたくなった。桐箱から取り出した棗は薄暗い客室の中で藤の蒔絵をぼんやりと浮き出している。それはまさに障子越しに外光を入れる方丈茶室のそれに近いのではないかと思った。藤重一派の細工はここに姿を現したのだ。無性にその棗に愛着が沸き上がり、私は両手の平でそっと包んだ。
 翌日、国立博物館で雪舟展を見た。ガラス越しに見る作品たちはモノトーンだけなのに、作り出す世界は圧倒的な広がりを感じさせるものばかりだった。高層ビルもない時代、俯瞰で描く瀟湘、山水は雪舟の視点が明らかに23階以上の高さにあったことを意味する。いや、視点ではなく意識だ。意識はいかようにも景色を作り出すことができるのだ。明日はタナーを見て帰ることにしよう。さすがに両手の平に包むことはできないが、筆遣いを間近に見ることができるから。やはり東京はいい。

15,鎌倉ステイ

 何の不自由も不満もないがただただ一人になりたい時がある。黙って頭の中を整理するために誰とも話をしたくないし、雑音みたいにワアワア勝手に話される聞いてもいないどうでもいい話から逃げたいのだ。妻と娘と暮らしているこの江東区の公団マンションでは逃げ場はない。昨年長女が巣立ったので女3人私一人という状況から少しはましになったが、まだ大学生の次女が居るのでワアワアしたリビングのほかはトイレとベランダ以外に私が逃げることのできる空間はない。追い打ちをかけるようにベランダでタバコを吸っている時にもお構いなしに近所や大学での日常報告が両方から飛んでくる。タバコをくゆらせ考え事をしている様子は話しかけても大丈夫そうに見えるんだろう、会話もない冷えた家庭からしたら贅沢な悩みかとは思うが、熟年のくたびれた今の私にとってはキツい。そもそも私は昔から人一倍一人になるのが好きだった。40代までは休日のサーフィンが格好の場所だった。土曜の朝は家族がまだ寝静まっている暗いうちに家を出て一人時間が始まる。洋上での波待ちの間は最高の時間だった。定期的なうねりのせいか、考えごとは深まるのではなく、念仏のように繰り返されるだけなのだが、それも心地よかった。50歳になると腰のヘルニアが出てサーフィンから離れた。出かけることもめっきり減ってしまったが、家という井戸端での休日はたまらなく煮詰まる。キャンプにでも行きたい。でも道具はないし遠くまで行くのは正直面倒くさい。2時間以内で目的地に着きたいし、自然もありつつ文化も欲しい。できれば遥か彼方まで望める海辺がいい。
 いつ行くでもどこへ行くでもあてもなく、googlemapをピンチインアウトしたり、サイトをサーフィンしていると『STAYCABIN KMK』というものに出会った。これは独自のホームページを設置しているのではなく、ブログオーナーの記事下に「数時間過ごしたいならここへおいで」という小さなリンクの中にあったのだ。このオーナーは子供が巣立った頃からなんとなく自分の居場所を失った気持ちが強くなり、たまたま見つけた鎌倉の山林の土地を買い理想の小屋を建てSNS発信すると思わぬ反響があり、同じ小屋を鎌倉の各所に建てたらどうかという出資者が出てビジネスに発展したそうだ。オーナーいわくここに安らぎを感じるのは、山を背にした安心感の中、広い景色を静かに一人見ていられるから、とのこと。この一文に無性に共感した。KMKは1~5まで鎌倉各地に全5棟あるそうだ。それぞれ黒のガルバリウム鋼鈑の外装のほぼ同じデザインのキャビンで、それぞれの地形に合わせデッキや窓の向きが計算されレイアウトされている。キャビンの中は8畳のフローリングにライティングデスクと一人掛けのカウチ、隣の半屋外のスペースには半円のガラス戸のついたシャワーブースと、ゆったりした檜露天風呂がある。飲食は火気厳禁で、電子レンジと電気ポットだけが許されている。デイユースと宿泊があるが、宿泊の場合はカウチをフルフラットにしてクローゼットの中の毛布とシーツと枕を自分で設置するようになっている。ここでの滞在はすべてが最小限、いわゆるミニマルな時間だという。知足を極めた鴨長明や良寛のシビアな空間ではないが、ヴィラのようなラグジュアリーな設えは取り入れられてはいない。そして極めつけは、ここでは一人利用を厳格に強いられる。鎌倉の山中に愛の巣は禅の風紀に反するとでもいうのか。だとしたらその考えもいい。鎌倉には学生の時に同じ学部の男連中と車に乗り合わせ夜中に一度だけ行ったきりだ。相当久しぶりだ。これは行くしかないな。
 大船から北鎌倉へ進むにつれ木々が迫り、古い家屋も目立ってくる。やがて電車は場違いとも思える円覚寺の敷地に停車するが、ここはまぎれもなく北鎌倉駅なのだからしょうがない。円覚寺、建長寺、浄智寺などから見始める観光客を降ろし、電車はゆっくり動き出す。トンネルを抜けると左右に寺社が現れ出し、スピードが落ちていく。古都に到着だ
 列車から観光客がわらわらとホームを埋めるほど出てきた。ホームの階段が詰まってなかなか改札まで行き着けない。改札は改札で自動ゲートにもたつく高齢者や訪日外国人で渋滞している。どうにかロータリーに出ると古都の玄関口というよりは、保養地のそれような佇まいがある。寺社が観光の中心ゆえ、商業的な看板などなく、目的地に運ぶタクシーにも余計な広告ステッカーなどは貼られていないせいだろう。そんな中、自家用車待機エリアに『Cape Limousine』と記されたマセラティの送迎車が停車されている。車体は黒色なので決して目立つわけではないが、なにぶん高級外車なので独特の存在感なのだ。スマホにそのワードを入れてみると、最上段にヒットした。どうやら逗子マリーナでスタートした『ZReborn』なるビジネスで、この昭和の時代のマリーナをリノベーションして週末の快適な滞在を約束するというものらしい。世界では富裕層の集まるマリーナ一帯にはコンドミニアムやレストラン、スーパーマーケット、ワインセラーやブティックなど独特な商業圏が生まれるが、日本はまだまだ未発達だったところに最近大手の資本が入り変わり出した。空きの出た部屋をどんどん買い取りリノベーションをかけ、宿泊数に応じて入札を行うことで空き室を出さない仕組みらしい。滞在中はオールインクルーシヴでレストランやバー、エステやジムやプールを好きなだけ使える。また、東京からの導線もできていて、東京駅の横須賀線コンコースに専用のサロンがあり、グリーン車の手配や提携しているカフェやワインショップからワイン、チーズ、お茶、デザートなどのBOXを1時間の移動用に用意もしてくれるとのことだ。欲するものは何でも用意する。私がこれから行くKMKとは真逆のコンセプトだ。まったく興味がわかないし、何よりそんなラグジュアリーな世界とは縁遠いので、そっちのほうの人に任せるとしよう。
 私はまず段葛のユニオンというスーパーで寝酒のための小さなウイスキーのボトルとクラッカーとチーズとサラミを買い、西御門にあるKMK3を目指して小町通りの喧騒に紛れていく。国立付属学校を過ぎると谷戸の気配が近づく。KMK3はこの道をさらに数百メートル上がっていくのだ。谷戸は希少な住宅地として区画整備されたあまり情緒の無い環境だが、その外れから舗装はなくなりハイキングコースに続く山道となる。その山道に入る手前にKMK3の小さなサインボードがあった。こぎれいな石畳が小道を逸れ左に誘導するかのように続く。松葉ボタンに縁どられたかわいらしい石畳は50メートルほど続きキャビンが現れた。メールで送られたパスワードをキーボックスに入力するとカチャっとドアの鍵が開いた。中に入ると正面の大きな掃き出し窓に鎌倉市街が広がる。遠く先には陽にきらめく海も見える。
 私はネットで見たこのこじんまりとした空間の中でやりたかったことを始めることにした。小説の執筆だ。妻にも話していないがここ数年通勤や休日にコツコツ妄想を書き溜めていた。15インチのノートPCを開き、電車で書きかけていた続きを書きだす。 いつもと違う、いやイメージしていた最高の環境の中で執筆ははかどり、気が付くと2時間が経っていた。集中したことで空腹も忘れていた。ネットで調べると、ここから歩いて10分ほどのところに創作中華があるようだ。一人であることを電話で伝えると、海鮮をメインとした李白コースなら18時に用意できるとのことなので予約した。まだあと小一時間ある。
 石畳から山道のほうへ歩いてみる。季節はまだ春早いので新緑もまばらだがむしろ生命の息吹を感じる。坂を上り詰めた住宅地のはずれに、「至建長寺」というサインがあり、山道が伸びていた。この場所と北鎌倉の建長寺の位置関係が全然ピンとこなかったが、スマホで地図を見たらハイキングコースがつながっていた。回春院という建長寺の塔頭に出るようだ。とても魅力的だが夕食の予約時間に戻れそうもないのでそこまで行くのは諦め、木立の中をゆっくり歩いて時間を過ごした。相当お腹も空ききっていたので李白コースは大満足で、ついついこの辺の地酒天晴の純米が進んでしまい、部屋に戻るとリクライニングのまま寝てしまった。
 5時前に目が覚めた。旅先ということで眠りが浅かったわけではなく、いつもはそんな早くに寝ることのない9時に寝入ったことでいつもの7時間睡眠のサイクルで自然と目が覚めたのだ。せっかくだからこのまま起き上がってどこかに行ってみよう。気になっていた檜露天風呂は戻ってから入ればいい。利用客用に玄関脇の軒先に用意されていた自転車で坂を下り、どうせならと海を目指す。なるべく大きな通りを避け小道を選ぶ。宝戒寺から宇都宮辻子(ずし)を抜け、妙本寺の比企谷幼稚園からぼたもち寺を過ぎ、来迎寺から実相寺へと進むとKMK5のサインボードを見つけた。下見がてら行ってみたところ、山茶花の生け垣の中に同じ黒のガルバリウムのキャビンがあった。ここは気持ちよさそうな広い芝生の庭にデッキが張り出していた。デッキにマットを敷いてヨガを行う女性がいた。体のラインがそのまま出るようなものを身につけているゆえ、そのアクロバティックな動きがはっきりわかる。絶妙にバランスを保っている体幹が美しい。ヨガは体を鍛える運動ではなく、体の中に気を流し周囲からさらに宇宙へと一体化していくための行いなのだから、こうして海の波動を間近に感じることができる場所はすごく都合がいい。彼女はこの囲われた屋外空間で一体化に集中しているが、おそらくこれから行くビーチにもヨギーニを見ることができるだろう。小道は大きく2度ほど曲がり自転車を漕ぐのも少し疲れてきたころ材木座のビーチに出た。
 ビーチの朝はとても静かだった。干潮なのだろう、砂浜が広く、あちこちに残る水たまりに朝の光が差し込み輝く。案の定数人がマットの上でヨガをしている。私は座れそうなコンクリートの突堤に腰を掛けるとついつい深呼吸したくなり両手を天に伸ばし背中をそらせる。空が広がるパノラマを左右に何度も目を行き来させると、先の波打ち際に犬を散歩させる人がやってきて犬同士が挨拶を始める。そこへ次々に新たな犬が参加して集団になっていく。
 水平線の先にはうっすらと大島が望める。その左側の岬に位置するのは駅で見かけた送迎車が行き来している逗子マリーナだ。ヨットの停泊エリアはここからは見えないが、いくつかのコンドミニアムが点在している。それらの建物をつなぐ道路に並木のように植えられたヤシの木は時を経て大きく育ち、ここ材木座からもその葉の揺らぎまで見ることができる。それらが相まって日本離れしたマリーナの景色となっていた。ちょっとあそこまで行ってみよう。浜から一度先ほどの道に戻りトンネルを抜けるとマリーナの敷地に入った。     
 やはりここでも犬の散歩をするコンドミニアムの住民らしきがちらほら見受けられる。材木座ビーチの人たちに比べるとひと回り上世代のようだ。彼らから見たら自転車を漕ぐ私はこの土地の人間でないことは一目瞭然なんだろうが別段何か言って来ることもなく(べつに私道じゃなさそうだから当然か)、それでも何か庭に入り込んでしまったような気がしたので”ちょっとお邪魔します”と独り言ちてそそくさと岬の先を目指した。岬の先は消波堤になっており、竿を振る釣り人たちがいる。鎌倉と逗子の間に突き出たこの岬は確かに魚たちの豊富な気配を感じさせる。ぐるっと先端を廻る感じで鎌倉側に戻ってくると、そこは鎌倉の入江全体を見渡すことができ、その先に稲村ヶ崎から江ノ島までが見える。自転車でもないとまず来ることはない場所だ。岩場の手前のところにちょっと張り出した高台があり祠が祀られている。自転車を止めそこまで歩くと、ひとりの老人が大きめの石に座り沖を見ている。私もそのそばの石に腰掛ける。遠くには浜を散歩する人たちがうごめき、そろそろ1日が動き始めたことを感じさせる。老人が会釈してここの住人か聞いてきたので、一人になりたくて見つけたKMKに泊まり自転車でここまできたことを話した。老人も自分は逗子の街中で昔から整体をやっていて、ここまで毎朝歩いてくるのを日課としていることを教えてくれた。ひとしきり鎌倉の印象やこのところの天候などを話すと、またふたりは無口になり沖に目をやった。漁船たちが材木座の漁師小屋に一艘また一艘と戻ってきている。20分ほど経っただろうか、整体師の老人は沖を見ながら話し出した。
 「この遥かかなたまで続く海原を見て思いを馳せるんだ。あそこに石がいっぱい積んであるところが頼朝が造った和賀江島という船着場なんだが、そこに船が頻繁にきていたこと、沢山の荷が上がる様子。中には渡来僧たちもいた、彼らは先に幕府に招聘され来日していた高僧に師事すべく高邁な思いでやってきたんだ。こんな日本の見知らぬ土地で修行し真理を追求したんだな。帰れるかもわからんだろう、家族にも会えないかもしれんだろう、そんなことを置いといてもここを目指したんじゃ。涙が出てくるわ。わしはな、ここでそうして水平線を見つめながらあれやこれや頭の中で過去を再生するんじゃ。もちろん見たことはないぞ、そんな状況は。じゃがな、思いを馳せることが大事なんじゃ。ほら、墓や仏壇の前で線香をあげる時って目を瞑りながら故人のことを思おうとするじゃろ? あの感じじゃ。こっちが思えばあっちも返してくれる。ここでは目は瞑らん。あの水平線をじっと見つめるんじゃ。やがてそこが道に見えてくる。まあるい地球の裏側からひょこんと和賀江島を目指す木製の船が現れるんじゃないかってな。そんなとこ他にあるか? この古都だけが持つロマンじゃ。京都にもないじゃろ、な」
 老師はそういうとしっかりとした動きで立ち上がり、光明寺へ続く高架下のトンネルの方へ消えていった。私の後ろでカップルの声がした。
「なんだか生臭いわね、ここ。あ、あそこに魚が打ち上げられてる、だからか。虫もいっぱいいて気持ち悪いわ、早く部屋に戻りましょ」
 私はもうしばらくここにいることにする。KMKのチェックアウトは12時。まだまだたっぷり時間がある。足元に飛んできたキジ鳩が私に警戒することなく地面の何かを啄む。コロコロ喉を転がすようなその鳴き声は、思ったより長く続き、思ったより耳に触ることなく、むしろ今朝の暖かさとしっくり呼応し合っていた。

16,銀河鉄道の汽笛

 銀色に青とベージュのストライプの入った車両の横須賀線は何かがあると大船で折り返し運転になってしまう。大船から先は森のトンネルのような鬱蒼とした場所が多いので、台風が来ると木々が倒れ線路をふさぎ、ちょっとした積雪に足止めを喰らう。歴史的とも言える大雪の時は、走っては止まりどうにか大船に辿り着くも、その先は運休となり鎌倉まで通勤の革靴で雪中行軍する羽目になった。北鎌倉エリアから鎌倉エリアへと繋ぐ巨福呂坂は車の往来もずっと前に途絶え、積もるがままのスキー場と化していた。それでも私は重い足を運び家を目指す。誰が待つわけでもない家へ。両親から残されたこの家を売って東京の勤め先に近いところに移る気はしない。両親との思い出で形あるものはきっとひとつづつ壊れ朽ちていくはずだから、せめてこの家だけは手を施しながら守り続けようと思っている。
 私は何かドキッとして心臓の鼓動が早まると耳がいつも赤らんでしまう。それは子供の頃からコンプレックスだった。そのせいで気が弱く緊張していると思われて人から舐められる。電車で座っていても餌食にするかのように粗暴そうな男が前に立ち私の靴先を蹴り続ける。席を変われという圧力だ。変わるまで続けられるのでしょうがなく立つ。だから外に出かけるより家にいる方が好きだ。家は唯一自分の思い通りの環境を作れる場所だ。父が耕し苗を植え母が手入れしていた庭も荒れないよう自分なりに維持している。ネット画像で心に訴える花の種を取り寄せ、手入れしやすいように畑を4か所だけ囲いで土を一段上げ、それらの間をぬかるまず歩けるよう砂利を取り寄せ敷いた。花、ハーブ、根菜、トマトやシシトウなどの季節野菜で4つの畑をまわしている。隣家との塀際には父が植えた柚子や月桂樹がそのまま大木に育っている。庭の管理に余裕ができてくると、もっといろんなものを世話したくなってくる。毎朝車窓から東戸塚の線路脇の牛舎を見るに、牧草をフォークで運んだり餌をあげたり体を拭いてあげたりして過ごすなんていいだろうなと思う。9時5時の水道部品メーカー経理部の仕事を終え、今日もまたひとりの家に長時間かけて帰る。仕事後、飲みの誘いもここ数年かかることはない。目立たない存在だからだろう。
 その日は仕事をしている時に経験のない激しい揺れが襲いすべてがストップした。鉄道は夜になっても運行の見込みがなく、家が遠くない人たちは歩いて帰ることにし一人また一人と出ていったが、私はそのまま会社で過ごすことにした。つけっぱなしにしたテレビからは各地の様子が断片的に流れる。東京の混乱からすると震源地寄りの状況はどこまで被害が広がるか想像がつかないほどだ。朝になり線路の安全確認が済むと横須賀線はどうにか大幅に間引きながら復旧した。翌日は間引き運転のすし詰め状態で、車両は安全を確認しながら止まったり進んだりゆっくりと走る。路線の町々は郊外ほど電気が復旧せず停電している。大船を出ると家々は蝋燭の光では窓すらも照らせないようで真っ暗闇のまま、トンネルか地下鉄のように電車内の明かりだけが暗闇を抜けていく。北鎌倉駅を出て浄智寺前の踏切が近づくと、列車は警戒して警笛を鳴らす。いつもホームで白線をはみ出た客に鳴らすようなけたたましいものでなく、今まで聞いたことのない柔らかく、かつてSLが鳴らしてたようなアナログな汽笛に近いものだ。乗客は誰一人騒ぎ立てるものはなく、静まり返っている。街灯もない月もない真っ暗な空間を銀色列車が走る。鎌倉駅前もすべてが闇、タクシーのヘッドライトだけがサーチライトのようにあちこちを照らす。暗闇の先に待つ我が家には灯りはない。温かい食事もない。それでも私は家に帰る。なぜこんな思いをしてまで家を目指すのか? 
 銀色列車はいい日も悪い日も黙々と目標へ向かって走る。時にはアクシデントで止まり、乗客がまばらな時もすし詰めの時も変わらず走る。私も走っている。だが私の終点はどこなのだ。どこへ何のために走るのだ? 家路の暗闇にあの柔らかな汽笛が遠く聞こえた。

17,段葛ボレロ

 早朝、まだ通勤客も少ない段葛に最初に醤油卵焼きのような香りがロールケーキ屋のほうからたちのぼる。次に動き出すのはモーニングサービスのあるカフェだ。雨でなければ、通り側の折れ戸を全開にし、外に席を出す。犬の散歩がてらここを目指してきた人が、いい場所を陣取る。続いてはドラッグストア。特売品のワゴンを店先に運ぶ。駅へ向かう人たちにアピールするよう、雨予想の日はビニール傘、花粉の飛びそうな日はマスクや目薬なんかが前面に出される。通勤客が落ち着いたころドラッグストアの並びのうなぎ屋がその日の炭をおこすために店の前の広い歩道で一斗缶に火を入れる。炭の臭いが立ち昇り行きかう人がちらりとその火をのぞいていく。あとは老舗の酒屋、点在する鎌倉彫店、土産物店が後に続く。やがてお昼に近づくと飲食店は営業中の札を出し、すべての商店が動き出す。
 段葛は頼朝が政子の安産を祈願して作らせた。鶴岡八幡宮へ向かう際により長く見えるよう道幅を先に向かって細くした。パースペクティブのほかにも、山頂に白布を張って雪に見立てたり、頼朝は錯覚の喜びを知っていた。数年前、段葛の桜はこれまでの横に枝を張っていた老木から、縦に枝を伸ばした若木へすべて取り換えられた。縦への視線が伸びたことでより遠近感が強調されたように見える。
 明日に希望をもって生きることは大事だが、現実に向き合うだけでは行き詰まり希望を失うことがある。夢を持つ。それは現実から一歩先に向かうこと。現実より一歩先に目を向けることである。夢を描く。それはまだ見ぬ世界に思いを馳せ、新たな世界を創出することである。現実から目を背けるのではなく、時には錯覚しながら視線そして意識を先々に向けるのである。
 老舗たちは伝統と革新を振り子のように行き来し、飽きられることなく長い間そこで愛され続けてきた。スーパー歌舞伎もカラー鉄瓶もカリフォルニアロールもネオ茶室も、今にこだわらずに先々を見てきたのだ。段葛にはお店の数だけ様々な思いが連なっている。今日もひとつづつ各店舗の息吹が生まれ重なり、すべてがシンクロするときそこには誰もが心惹かれるうねりが生まれるのだ。それはまさにボレロのコーダとなり余韻のまま一日を終える。そのこだまは八幡宮の大階段へ向け暗く狭まりながら、赤い宮を抜け森へと融けていく。

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