「サービス」

自分は意味をしっかりと理解せずに、なんとなく知った風に言葉を使ってしまっていることが多々ある。

言葉だけでなく、様々な場面においてわかったつもりで、実はわかっていないで物事をやり過ごしてしまっていることが多い。

「サービス」という言葉もその一つで、「おもてなし」という言葉のように使ってはいるが、時にその内に少しいびつで何か解せないものを感じ、ふと考えてしまうことがある。

一般的にも、この「サービス」というものを巡っては、コスパ、コンプライアンス、クレーム、などを競ったり、戸惑ったり、愚痴ったり、呆れたりしながら、日々を過ごしているように思う。

都心に出れば自分が客としてサービスを受ける立場になることは多い、たまに「コスパ」を売りにしたようなチェーンの居酒屋に行けば、疲れ切った青白い顔をした店長さんと、こちらもやる気のないアルバイトさんが、どうにかこの時間をやり過ごそうという風に店を回している。無理をして空元気を演じていないだけ良いのかもしれないが、混み合った時などは、注文をしてアルバイトスタッフの怒りを買って○○のようなことが起きないかとすこし穿った不安を持ってしまう一方で、疲れ切った店長さんのために、僅かながら売り上げに貢献をした方が良いものなのかと考えてしまう。

コンビニなどもそうだが、利益の最大化のための方策を上層部の人間が考案し、それをできるだけ忠実に実店舗の人間が実践するような店は、なかなかにこちらの振る舞いや居心地も窮屈になることが多い。

そうは言っても、もう何年かすればほとんどの店舗には人がいなくなるのかもしれない。

しかし、このような店が町に増えれば、そこに住む人間も誰かが考えた最適な何かに沿って行動をし、互いに査定し合うようになってしまうのではないだろうか。

まして、他人の多い都心やネット上でのコミュニケーションでは、そういった眼差しが露骨になりやすく、もうすでに一般化しているのかもしれない。

そういった社会の中にあっては、自分の価値をどうにかして高め、そこに誇りを見出し、当座の自尊心も保ち続けるか、

自分を社会の不良在庫として見做し、他者に処分されないように、かつ自分が他者に与える影響を最小限に抑えるように、ひっそりと隠れて生きていくしかないのかもしれない。

そのように、誰もが物や人に対して、冷徹かつ非情な判断を下すことが一般的な社会にあってさえ、自分が誰かにとってかけがえのない存在でありたいと願うのは、虫のいい話なのかもしれない。

先日行った銭湯の番台に座る店の主は、薪を一度に大量に投入し、基本的には番台で氷結ストロングを飲みながらがテレビを眺めていた。そのため、お湯の温度はこれまでに自分が経験したことがないほどの熱さに達していていた。その店主にとっては、まるでこの世界のすべてが面倒くさいといった感じだった。いつかまた行った時にも、どうかそのままでいて欲しいと思う。