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「発酵」

先日の投稿を身の回りの人が読んでいてくれたようで、その後、軽くイジられたり、少し投稿について話をしたりした。

文章は読む側に興味がなければ、スルーされるから、読んでくれた人はある程度こちらに興味を持ってくれている。
日頃、何をどのように伝えるかよりも、相手が自分の話を聞きたいと思うかどうかの方が、よほど重要だと思っている。
人はつけっぱなしのテレビの内容に気を留めないように、身の回りに溢れるほとんどの言葉に気を留めない。
ましてや、大事な人の名前すら忘れてしまうこともある。

そして、伝える側からすると適当な言葉ほど簡単に放てる。
コンビニの店員さんに去り際のありがとうは言えても、近しい人間に日頃の感謝の気持ちを伝えるのはなかなか難しい。

歯切れのよい言葉は、かえって本音とは遠い言葉のように思うし、
人の大切な本音はいつもためらいとともにとともに放たれるように思う。
もっとも、自分を何かにあずけきってしまえば、ためらいすら無くなるのだろうけど。

去年くらいから、発酵についての本を何冊か読んでいる。
ただ、自分から何かを作ったり、何かを発信していたわけではなく、暇なときに本を読んでいただけだったが、
ありがたことに最近、手作り味噌と手作り酵母の種をもらった。

発酵がそうであるように、
日々、ふつふつと少しずつ醸成された気持ちは、それ自体がゆっくりと人にうつっていくように思う。
記号化された言葉では、簡単にうまく言えることもあるし、簡単に間違うこともある。
言葉ではなく、目には見えずつかみどころのない気持ちは、それ自体が漂っていつか人にうつっていったときに、
初めて人に気持ちが伝わるのだと思う。