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落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき。久しぶりに読んでみて。


ここ2年ほど、本当に本を読み、動画を視聴しながら、若い頃からの「スキ」が、いろいろと繋がって「あー、やっぱりそうだよね」とか「そうだったのか」というふうに、どんどんと過去の「スキ」が繋がって、理解を深めていっていることを喜んでいるのですが・・・。

いま、かなりびっくりしている。

それは、2年ほど前に初めて読んだ落合陽一氏の「デジタルネイチャー」の前書きに久しぶりに目を通していて気づいたこの一文だ。

フランス革命に端を発し、啓蒙主義者たちによって定義され、前世紀を通じて世界中に拡散された〈自由【注13】〉という概念。しかし、今我々が当たり前のものとして享受している〈自由〉は、本当にそう呼ぶに値するのか。それは、個人あるいは共同体の主観によって定義された不確かな根拠に過ぎないのではないか。
古代以来の自由意志と決定論を巡る問題の解決をみないまま、自身の感覚器と記憶による判断と、センサーとデータベースに由来する計算機的判断の境界に立たされている今の人類に、それが〈意識的〉あるいは〈無意識的〉だとしてもそもそも〈自由〉などありえるのかという問いを歴史は繰り返していた。
 現在の社会で自明とされている〈人間【注14】〉〈社会【注15】〉〈幸福【注16】〉〈国家【注17】〉といった概念は、18世紀に西洋で確立された〈個人〉と、そこから敷衍された社会契約論や自然権に由来している。それから約200年、計算機時代の市場経済や、人類種の機能拡張を前提とした新しい思想は、未だに登場していない。

 近代に発明され、今もなお我々を束縛し続けている理念は、それを根底で規定している構造、つまり〈言語〉の制約【注18】を突破しない限り、アップデートは不可能だろう。言葉が本来的に備えている「情報の圧縮」や「フレーム化」といった機能を代替する、新しい理解のモデルが求められているのだ。End to End(エンド・トゥー・エンド【注19】)。末端から末端、現象から現象へ。言語を経由しない直接的変換によって、意味論の外部で現象を定義し、それを外在化する方法に辿り着かなければ、西洋形而上学の枠組みの中で、本質から疎外された言葉遊びを永遠に繰り返すことになるだろう。

「本質から疎外された言葉遊び」

西洋哲学の形而上学の枠組みについて、こう言い放っている一文。

実は、私は先のnoteで書いた。

この「言葉遊び」という言葉を書くとき、さすがに躊躇があった。
哲学を専門に学んだわけでもない私が、「言葉遊び」なんて表現していいのかと。

でも、ここ最近、西洋哲学の基本的なことをまとめた本や、西洋と東洋の違いを書いたもの、そして私自身、若いころから仏教や物理科学、生命などあらゆる分野の本や情報に触れてきた私の感覚として、西洋の哲学が言っていることは、
身体的に「ピンとこない」というか・・・。

そして落合陽一氏のあらゆる著作を読み、最近提供してくださったOchyAIの助を借りて、あらためてこの「前書き」を読むと、二年前よりも自分の理解が進んでいることがわかる。

そんなことを思いながら読んでいたら、この言葉が出て来たのだ。
「言葉遊び」


でも私たちの日常は、「自然の一部ではない自己」というふうに己を強く意識させてしまう。
だからこそ意識的に、そうではないことをイメージしてみる。
そして、「自然の一部である」ことを意識した方が、心が落ち着く自分に
ホットする。
それが出来るということは、幸せなのかもしれない。



今年最初の安宅和人氏との対談。

「日本は大丈夫」
番組最後にそう笑顔で言ってくださった安宅さんに、心がほっとします。

日本という国(土地)の風土に根差した文化。
私たちの中にまだちゃんと根付いている「古来からの考え方、感じ方」は、これからの変化の激しい世界で、大切なものがあるようなのです。
今の世界で起きている、やるせない出来事に対して発信できるものが。
私たち自身が、もう一度その大切なものを再確認しなければいけない?

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