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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』序説(2/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約5700文字)


 つまり近隣の評判は信頼に値せず、行く末を悲嘆するには当たらない事など、子供と共に暮らしていた者達は皆充分に心得ていた。日が落ちて辺りも暗く陰り始めてから、
「んあ」
 と目を覚ました子供が、身を起こした先の縁側に月を見上げながら立つ人影を見つける。
「とーちゃん」
 布団を跳ねて立ち上がり、とてとてと人影のそばまでを歩いて行く。「ん」と気が付いた父親に向けて、広げた両手を差し上げる。
「とーちゃん、オレ、おきた。だこ。だこちょーだい」
「起き抜けに、何を言っている。今までを眠りこけておきながら」
 いかにも可愛らしい様子ではあったのだが、父親は威厳を繕ってみせた。顔を見せた昼間には寝惚け眼で、挨拶もそこそこに寝入られた事への不満もあった。
「寝坊助にはバツだ。後にしなさい」
 突き放す、そぶりを見せながらも相当に甘い。口元に笑みも浮かべつつ向けられた背中に、子供はじりじりと、八畳間を端際まで後ずさった。
「だこ、くれない、なら」
 四つん這いに、屈み込んだかと思うとそのまま、背を低めて前のめりになる。にんまり口元で笑んだ後、大きく吸った息を、一旦止めて、
「オレが行くー!」
 と爪先で蹴り切った畳をバネに、駆け出して父の足元で飛び上がった。
「とーちゃーん!」
「なっ。おっ、こらっ」
 取り付いた背中にしがみ付き、肩に手を腰に脚を掛けて父の身を、よじ登り始める。
「なな何だ何だ。お前はいきなり」
「のぼるー。とーちゃんのぼりー。オレすきー」
 日が落ちて来るとこの子供は、人が変わったように、と言うよりは日が落ちてからが自分の本領だと、全身で訴え出るかのように活発になった。はしゃぐ声を耳にして、奥の間から歩み出て来た義視にも、驚く様子は無い。
「たかーい。へへへへ。もしろーい」
 登り切った父の後ろ頭に、ぴたりと貼り付く弟を見て、
潤吉じゅんきち
 呆れ声で呟かれた声に、父の方で気が付いて、振り向こうとする頭も子供ごとだ。義視の方で気を遣って、父の視界まで回り込む。
「昼の間を眠らせ過ぎているんじゃないのか」
「すみません。でもコイツ、昼間は本当に眠そうで……」
「オレだってホントはおきときたーい」
 台所から灯りを手に出て来た母が、続き部屋の端に立ち、「あら」と微笑む。それに向け大きく手を振りながらの「かあちゃーん!」に、父は揺らされ平衡を取らされている。
「だけど、おひるはお日さまあかるくて、あたかくてあちこちキレイなもんばっかりで、うわぁってすげぇって、みているあいだにオレ、ねむたくなる」
 言葉数が格段に増え、口の動きも加速する。気を落ち着けて聞いてなどいられない。
「あたまん中すぐいっぱいになって、おもたい。キレイなもん、もっとずうっとオレみときたいのに、ザンネン」
「今日はトントンカン見ていたのよね」
「うん! ダイクさん!」
 言われて母は、あら、と思う。口真似に夢中でいると思っていたけれど、この子、しっかり聞いていたんだわ。
「おうち、つくってたトンカントントンカン。トンとカンとトントントン。んでドン。いっしょになってすごい、カッコいい。へへへへ」
「外に出て見ていたのか?」
 それならば昼間のこの子にしてはちょっとした進歩と言えるが、
「いいえ。塀の外から聞こえてきたの」
 母の答えに「なんだ」と、父の興味はそこで終わった。
「ドン、はおっきくて、空いっぱいにひろがってうわぁってすごいあれ、やってみたい」
「お米屋さんになるんじゃなかったのか?」
「あ、おこめやさんも、すき。ざぁぁもドンもオレ、どっちもやる」
「無理だそれは」
「あらどうやったら出来るかしら」
 めいめいに好きなように話し続ける家族の中で、義視一人が黙ったままうつむいた眉間を押さえていたが、やがて一つ頷いて顔を上げた。
「潤吉。下りておいで」
 父の傍らまで寄りながら、胸元で軽く握った右の手は差し出さない。
「いつまでもお父さんに登ってちゃダメだ。お父さんは、偉いんだから」
「なんでー?」
 これがまた、口を開けば質問ばかりが湧き出してくる年頃で、義視はしょっちゅう答えを求められている。
「とーちゃんえらいの、オレしってる。たかいしつよいし、おもたいし」
 聞いていたそれぞれの顔には、疑問の色が浮かんだ。この父は、確かに背は高いのだが痩せ型で、身分による威厳を示す口ヒゲを生やしてはいても、身体的にそれほど強そうには見えない。
 外に出歩かないせいだろうな、と父は考えた。他所の大人を知らないからだ。
 形容詞の使い方がどうもおかしいんだよな、と義視は、自分の教え方に問題が無かったかを気にしていた。
 この子にはそんなふうに見えているのかもしれないわね、と母だけが微笑んでいた。
「そんで、なんでえらいとーちゃんに、のぼっちゃメなの?」
 なんでなんでと繰り返し言い続けないところは、誉められるべきだろう。じっと兄の顔を見詰めたまま、兄が答えを出そうと考える間を待ち続けている。
「その、高い父ちゃんより、もっと高い所に行こうとするのが、良くないんじゃないかな」
 やがて弟を見上げ、笑みを見せながら答え始める。母も兄弟二人を眺めつつ、笑みを浮かべて座り込む。続き部屋の六畳間に、傍らには灯りを置いて。
「それって、だって、父ちゃんの高さ使ってる。高いとこ、行きたいんだったら木に登るか、お前がもっと大きくならなきゃ」
 兄が答えてくれるその間も、黒眼が大きいせいか一回、二回と印象に残る瞬きを続けている。聞いている間は昼だろうと夕べだろうと、固まって見えてくるほどに動かない。
「木に、登るのはいいんだよ。木登り上手いのは、すごいなって誉めてあげられるけど、木は、だって動けないから。父ちゃんは、本当は好きなように動けるのに、お前が登った分重かったり揺らされたりで動きにくい。父ちゃんが好きなとこ行けなくなる。偉い父ちゃんの、好きなようにさせない、ってのは俺、あんまり良い事だとは思わない」
 答えが終わってもなお数秒ほどは、兄の顔を見詰めたままで固まっていたが、やがて大きく頷くと父の頭から逸れる。
「おりる」
「うん、おいで」
 と伸ばしかけた兄の手は、
「『父ちゃん』か」
 と呟いた父の苦笑に恥じて、引っ込められた。
「すみません。ついつられて」
「いや。構わない。だがここだけだぞ」
「はい」
 出した手を取ってもらえなかったので、弟は、声が発せられる度に父の顔、兄の顔に代わる代わる目をやっていたが、はい、とうつむいた兄の次にまた、父を見て、
「おりる、まえにとーちゃん」
 父の首に、両腕を回す形で抱き付くと、
「だいすきっ」
 と父の頬には唇を押し当てた。
「そんでにーちゃんだっこー」
 はいはい、と受け止めながら義視は、身構えていたわりにいきなりズシリと来ないな、と気が付いた。
 父の身から少しずつ、重みを乗せ替えて来たようだ。すごいな木登りしている間に身に付いたんだろうけど、調子に乗ってそうしたところでケガする子、この近所にだってたくさんいるぞ。
「にーちゃんも、おりる」
 両足を畳に付けた子供から、後ずさった父は赤くなった頬を遮二無二こすっている。
「男の子が、何をしているんだ……」
 子供とは言え頬程度とは言え、男から。父の人生に、そうした教育は存在しない。
「教会に、異国の方が見えられたの」
 ああ、と大筋を理解したが、迷惑なことだ。舌打ちした父に、母はわずかだけ眉をひそめた。
 異国の神を信じているのは今のところこの母親だけで、教会には時折子供たちも連れて行くようだが、父は内心快く思っていない。下の子を、身ごもった後に入信したもので、父としては咎める事も、やめさせる事も出来ずにいるが。
「すきは、しゃべっていいんだー」
 とことこと下の子は、母がいる六畳間の方へと歩いて行く。その後に続く形で父も、母の傍らに移りあぐらで座り込んだ。
「いっぱいしゃべって、おもったらそんときにしゃべって、いいんだってー」
 母が日夜拝んでいる、和箪笥の上に据えられた陶器で出来たマリア像の、正面に立ち止まり、見上げた御尊顔に口元だけのにんまりした笑みを広げてから、
「ってかしゃべってなきゃダメだって、シンプさん、いってた」
 くるりと身を返し、元いた部屋の兄のそばまで駆け戻って行く。
「だからにーちゃん、すきー」
 抱き付いて「だいすきー」とほっぺたに、口付けしてくる弟に、「こら」と返しながら義視もまんざらではなさそうだ。父がこの場にいなければ、もしかするとすでに四、五回程度は、「俺も潤吉が大好きだよー」とでも返してやっているに違いない。
「やめなさい。はしたない」
 子供たちに向けられる、苦い声色に母は、手元まで煙草盆を引き寄せた。
「ハシタナイ」
 一つ大きな瞬きをして弟は、隣を見上げる。
「ってなにオレそのコトバまだしらない」
「恥ずかしい、みたいなものかな」
「ハズカシイ、じゃダメなのそれ。ハズカシイとどうちがうの」
「恥ずかしい、は自分で思う事だけど、はしたない、は他の人を見て言うんだ」
「ほかの人が、なんでハズカシイの。ほかの人は、ほかの人なのに。オレじゃないのに」
 ひとしきりのやり取りの間に用意して、葉を詰めた煙管を母は、父に手渡す。「ん」と受け取った父は盆からの火を差して、一服喫んだ後で口を出した。
「異国の者達は異国でのやり方を、話しているだけだ。真似をする必要は無い。国の人間は国のやり方を通しなさい」
 すると下の子は父を向き、ぱか、と口を開け首をななめよりも深く、ほとんど落っことしそうなほどに傾けながら、
「kdi,diekia? Koaofagkadojadass?」
 くにょくにょとうねるような声を上げてくる。聞き慣れていない父は多少面食らったが、
「何を、言っている?」
「クセです」
 大して気にならないような長男の言い方に、むしろ機嫌を損ねた。
 その間も下の子は、兄を真横から見上げ、兄の手を握って「kdaoiadajagla」とまだ続けている。
「分からなさ過ぎて混乱するとコイツ、いつも……」
「やめさせなさい。聞き苦しい」
 ぎゅ、と弟の側から、握り込む手の力が強くなった。
「言いたい事をはっきり言えない者に、口を出す権利は無いぞ。そうした甘えが許されるのは家の内の、子供の間だけだ」
 ムッときてるな、と義視は目の端に弟の横顔を見て思ったのだが、黒眼が大きいせいか、怖くもなければ伝わりにくい。かばってやりたいが、上手い言い方を考えなくては。兄としても親に対する口答えとは受け取られたくない。
「無理よ。貴方」
 義視には丁度良く母が、にっこりと笑みながら言い出した。
「その叱り方だと潤吉には、伝わらないの」
「何がおかしい」
 笑っているその様子を非難されたものと、母は口を結ぶ。
「伝わらないのはコイツの問題だろう。お前に義視が普段、甘やかすから」
「義視のせいにしないで」
 さらりと差し込まれたひと言だったが、父にはクッと突き刺さった。
「潤吉」
 呼ばれて下の子は、まず兄の横顔を見上げて、つないだ手を、ぱ、と放してから母のそばまで歩いて行く。兄もその後に続き、父に向き合いながらも少し離れた、間仕切りに近い辺りに正座する。
 弟は母の正面を、二、三歩ほど空けた所で立ち止まる。
「やめなさい。出来るわね」
 うん、と聞こえてくるような大きさで、頷いた。
「お父様はお父様に聞こえる言い方を、して欲しいの。潤吉を、心配して仰るのよ」
 うん、と頷かれて母は、笑みを強める。
「おうちの外には、潤吉みたいに、お顔をじぃっと見詰めながら、しっかり話を聞いてくれる人は少ないから、お顔にはっきり見えているものでも、言葉で聞こえないと無かった事に、されてしまうの」
 一つ、瞬きをして持ち上げた右の手を、母の顔辺りの高さでふわふわとかき混ぜる。
「これ。ぜんぶ」
「そう。なくなっちゃうのよ」
 ぱか、と大きく開けた口を、ぱふ、と下唇から閉じてそのまま、空気を抜く。もしかして溜め息か? と間近に見ていた父は思った。
「コトバって、フベン」
「そうね。だからしっかりお勉強して、上手に使わなきゃね」
 くにょ、とまた出掛けた声を、父の顔を見て止める。両手で口を押さえ飲み込むようにしてから、放し、
「分かった」
 と答えたところに土間の奥から、女中の声が聞こえてきた。
「お風呂が、沸きましたですよ」
 聞くなり「おばさーん!」と、暗がりに向かって駆け出して行く。
「みみ、かいて、みみ」
「後で、よろしいですか。まずはお風呂に、入らなくては」
「うん、あとでー。かあちゃんのとなりで、ひざまくらー」
 暗い中にいて他の家族に見えはしないが、前掛けにまとわり付きくるくると、女中の周りではしゃぐような声色だ。心地良い響きのように母は微笑む。
「大丈夫。あの子は、良い子よ。良い子に育ってる」
「勝手気ままのように思えるが」
「貴方と、義視のおかげで」
 噛み合って聞こえない両親の会話を、近くで聞きながら、義視もどちらかと言えば弟に関しては、母の評価に軍配を上げていた。
 風呂に入り夕飯も済ませた後で弟は、母の隣に座った、女中の膝枕で耳掻きをされる。母の微笑みに全身を向けて横たわり、反対側の耳の時も寝返りを打つのではなく、わざわざ起き上がり身体全体の天地を変えて寝そべり、また母を見上げる。
 母は膝枕がどうしてもダメなのだ。膝の上に乗った髪の毛が、くすぐったくってじっとしていられないの、おトヨさんには手を焼かせてごめんなさい、といつも詫び、いえいえ、といつも笑いながら返されている。その間も弟は母の顔を見上げ、にんまりと口元で、笑み続けているうちに寝入ってしまう。
 見慣れた家族の光景を、義視は今のうちに心に刻み入れるつもりでいた。次の春、遅くとも四月には、義視は上の学校に進むため本宅へと移され、正妻の養子になる。そうなればこの家には、顔を出す機会すらごくまれになるだろう。
 潤吉にいつ伝えるか、その時にどうなだめるかが兄の当面の悩みと言えた。


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