聖書読書記録(39週目273日間)

2023年10月1日~10月6日
  ルカによる福音書16−14〜24−52
  巻末「旧約聖書からの引用個所一覧表」中の、
  「ルカによる福音書」部分も合わせて読了。

内容:
  四種の福音書の一つであり第三番目。

  各種文芸作品や絵画作品に、
  取り上げられるエピソードが多数。

  ラザロ出てきた。
  徴税人ザアカイも出てきた。
  弟子たちの「俺が一番偉い合戦」が増えた。

  ピラトから尋問された後、
  イエスはなんでかヘロデに送られて返されて、
  ピラトとヘロデそれ以降仲良し、
  って何やねんそのエピソード。

  民衆たちが強硬に、
  イエスの死を願ったイメージが強められている。
  ここは極めて要注意。
  後にユダヤ民族差別の正当化に利用されたけど、
  私には根拠のあるものに思えないから。

  イエスの最期の言葉が、
  「父よ、私の霊を御手にゆだねます」
  に変わった。

  イエスが最初に復活した土地が、
  「エマオ」になっている。


ざっくり感想(実にざっくり):
  ユダにサタンが入った事になり、
  悪人感が薄まった。
  最後の晩餐でも名指しされないし、
  マルコ版から続いて自殺が明記されていない。

  裏切りに遭うオリーブ山で、
  なぜイエス一行が剣を持っていたか説明が付けられ、
  弟子が切り落とした大祭司側の手下の耳を、
  イエスが癒やされた描写が付け足された。
  きっと気の毒だという非難が当時から多かったな。

  で、ヘロデは急になんで出て来た?

  婦人たちの描写が薄まったかと思いきや、
  最後あたりでマグダラのマリアに、
  ヨハナ、ヤコブの母マリアといった、
  個人名が出て来て、

  婦人たちが復活の一部始終を知らせたが、
  使徒たちは信じなかった旨が明記された。
  しかしペトロだけは墓に向かい調べた旨が追加されて、
  使徒の中でも随一感が増している。

  エマオではなぜか二人の弟子(12使徒じゃない)が、
  議論しながら歩いているところに、
  こっそりと正体を見せない感じにイエス登場。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

『ルカによる福音書』24−30〜32

  これは単純に私の関心事なんだけれど、
  「心は燃えていた」という表現が違和感。
  イエスだったと信頼する根拠に思えるほどか?
  その感覚は現代と同じものに理解していいのかどうか?

  二人の弟子そこからエルサレムに向かって、
  ユダを除いた11人の使徒にイエスの話をしているところに、
  イエス御自身がその真ん中に立ったって、

  何やねん。その演出。
  そいでもってわりかし回りくどいな。

  ただそこでのイエスの第一声が
  「あなたがたに平和があるように」
  ってところはルカ版で初めて記載されて、
  しかも復活した者として相応しいな。

  しかも肉のついた手や足を見せたばかりか、
  皆の前で焼き魚食べてみせた!

  これは、かなり、嬉しい!

  私はキリスト教徒じゃないけど、
  当時イエスに従ってきた人たちが、
  相当嬉しかっただろう事が想像に難くない!

  そしてルカ書では改めて、
  参照すべき文書が指定される。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、
必ずすべて実現する。

『ルカによる福音書』24-44

  正直『詩編』は私の感覚では、
  いまだに神殿で唱えるためにダビデが作った詩、
  って印象でしかないんだけど、

  キリスト教徒や古代社会、
  その感覚から築き上げられた西欧社会では、
  文章そのものが我が国以上に、
  神聖な感覚を持つのかもしれないな。
  言霊、ともまた違う感じに。

  そんでみんなでちょっと離れたベタニアまで移動して、
  皆を祝福した後天に上げられる、って、
  マルコ版で薄まった神々しさがルカ版で復活した。

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