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清門別会『道成寺』

 何のかの言って私にとって、
 NHK教育テレビは、
 普段接する機会も御縁も無いような世界に、
 片鱗だけでも触れさせてくれる、
 大変貴重かつ有難いもので、

 2023年10月29日に放映されていた、
 
  古典芸能への招待
   観世流 第一回清門別会より
   『道成寺』

 を11月も末になって鑑賞した。

(文字数:約4000文字)



って書き始めたけど能知らんけど

  能っぽい舞を身につけた主人公を、
  自作の小説にまで出しといて、

  能大好き知ってるっぽそうな文章も、
  作中に書き込んでおいてなんだが、

  芸能人など来てくれやしない、
  故郷の限界集落周辺にまで、
  能狂言は来て下さって、
  城跡のそばで薪能なんかやって下さって、
  一般平均より観る機会はあったと思うけれど、

  何せ小・中学校時代に、
  時には学校からのほぼ強制で観させられて、
  何やってんだか内容も言葉も分からんから、
  当時はそりゃ寝たよ。

  狂言パートくらいは面白く観られた。
  だからいまだに野村家三代(万作・萬斎・裕基)には、
  恩義を感じて有り難く思いながら鑑賞する。


そもそも『道成寺(ドウジョウジ)』

  歌舞伎や人形浄瑠璃の演目、
  『娘道成寺』や『傾城道成寺』は、
  前から知っていて、
  私にはかなりそそられるストーリーなんだけども、

  ってか恋の情念が迸り出て、
  大蛇に変化したばかりか、
  男が隠れ潜んだ大鐘ごと、
  絡み付いて焼き殺す(自らも死ぬ)って、
  パワフルにも程がある。

  どっちかというと個人的な好みで解釈するけど、
  そこまで思い詰めさせるほどの何をした安珍。

  確かに思い込みの激しい女性っているけど、
  流石にここまでの情念は、
  引き出すだけの何事かがあっただろ白状しろ。
  (とは言え全くもって何事も無かったなら、
   焼き殺されてもいるし申し訳ないんだが。)

  更に物凄いのは道成寺、
  実際に和歌山県に存在して、
  高野山に向かう途中で、
  鐘に蛇が絡み付いた看板を見るって事だな。

「清門別会」って?

  観阿弥・世阿弥の流れを汲む、
  観世流の家元が創設したとは言え、
  要するには「若手の育成・研鑽の場」です。

  それ以上でも以下でもなく、
  必要以上に敬うべきでも見下すべきでもない、
  と私は認識します。

  先代家元の名から一字取って、
  長く「正門別会」だったんだけど、
  代替わりしたので改めて、

  現在の家元の名から一字取って、
  「清門別会」になった。


  というわけでこれより先は『道成寺』について、
  詳しいところまでは知らんなりに、
  ど素人なので専門用語とかもぶっ飛ばして、
  疑問に思ったところや面白く感じたところを、
  記録していきます。

  全く興味なかった人には何か引っ掛かるかも。
  観てみてもさっぱりだった人には興味出るかも。


ここから『道成寺』

幕が無いから

  鐘が出て来るところから始まって、
  鐘が仕舞われるところで終わる。

  四人掛かりで運んできて
  (実際四人掛かりで運ぶくらい重いらしい)、
  思いっきり設置して吊り下げるところから、

  演者が退場した後に、
  鐘を吊り下げる縄を元通りに巻きつけて、
  また四人掛かりで運んで行くところまで。

  何せ能舞台には幕が無いんだから、
  そんな設営なんか見せちゃダメ、
  みたいに思う方が野暮。

  観てるけど(観られるけど)見えてない、
  みたいな絶妙な鑑賞感覚が求められる。

  能舞台の真ん中に、
  ずっとでっかい鐘がどどんとあるけど、
  演者はどうやら鐘なんか見えていない、
  全く別の場所にいるっぽい台詞言ってるからね。


超絶ゆっくりな乱拍子

  道成寺の失われた鐘を復興したんだって、
  新しく作った鐘の供養するんだって、

  御住職が使用人頭の僧侶に、
  「供養してる間は女人禁制だからね」
  って言っておいたのに、
  どうもこの僧侶大して気にしてない。
  (とは言え御住職も理由を話してない。)

  和歌山県のどこかから来たっていう白拍子に、
  乱拍子(当時流行りの舞)舞ってくれるならって、
  寺に入れちゃうし鐘に近付けちゃうよ。

  なんだけどもこの「乱拍子」が……。
  かつての私ならここで確実に寝た。

  小鼓の音色に合わせて動くんだけど、
  足の爪先上げて、下ろしたり、
  足のかかとを上げて、下ろしたり、
  超絶ゆっくりで、

  これが、舞?
  これのどこが、舞?
  どこが華麗だったり見応えあったりするの?

  と長らく思ってきたんだが、
  太極拳を習い始めて3年も経てば、
  なんとなくだけども分かるな。

  次の一歩へのエネルギーを溜め込んでいる。

  なのでいきなり踏み出された時には、
  「うわ」と思ってちょいゾッとする。

  ソイツがひたすら繰り返される、
  と思いきや徐々に鐘に近付いている。

  最終的には「あ。なんか違う」って、
  鼓の拍子が変わるタイミングが見極め切れたぜ。

  「道成卿が建てた寺だからって、
   道成寺(道が成る)なんて名を付けやがったか!」
  ってぶち切れる寸前のな。


「アイキョウゲン」って読むんだってさ

  間狂言と書いて、
  能が演じられているその途中に入ってくる、
  滑稽な寸劇。

  ごく最近「アイダキョウゲン」って読んで、
  恥かいちゃった。てへ。

  それはそれとして鐘が落ちたからすごい衝撃で、
  使用人の僧侶たちが慌てる慌てる。

  「地震か?」「雷か?」
  って鐘楼に向かったら鐘落ちてるし、
  手で触れようとしたらめちゃ熱い。

  もちろん室町時代用語でしゃべってるんだが、
  私は狂言には強いから聞き取れるぜ♪

  「一体何があって落ちたんだろう」
  「あ……。俺、白拍子通しちゃった」
  「マズイよそれ。ってかそれじゃん」
  「ごめんごめん。住職に報告してきて」
  「なんで俺が。お前が責任者だろうが」
  「ちょっと口先で上手い感じにごまかしてよ」
  「いや。ごまかせるレベルの話じゃねぇだろ」
  みたいなやり取りで押し出された、
  使用人頭の僧侶、

  「鐘落ちちゃってまーす!」
  ってしらばっくれようとするんだけど、
  そりゃ黙っておけないしガチ叱られる。

  だけど退場の時には胸を撫で下ろして、   
  「心がゆるりとした」
  ってなんだコイツ。
  (;・∀・)テメェのせいじゃん。

  室町時代は笑いどころだったんだろうなぁ。

つまり回想シーンが挟まれてる

  ここからは道成寺の御住職と、
  さっきまでの使用人頭とはまた別に、
  衣装から位が高いと分かる従僧二名の、
  計三名で鐘を見に行って、

  そばに立っただけでめっちゃ熱い。

  ここから鐘が失われた経緯が語られるんだけど、
  従僧二人の動きが変?
  なぜここで動いてみせるの?
  と思っていたら、

  (・∀・)ははーん。

  実際は三人向かい合って話しているものを、
  御住職が回想している間は、
  舞台の端に下がっているのか!

  ごめんな。能に慣れてる人には、
  分かり切っててどうしてそれが分からんのかも、
  分からんとこだろうけどな。

  まぁとりあえず鐘を元に戻そうって、
  そこからひたすらに祈り続け。

  「すはすは動くぞただ祈れ」
  って台詞の繰り返しが妙に可愛らしく感じた。

  偉い僧侶たちの割に、
  どっか他人事だし他力本願だな。
  

大蛇登場

  衣装と面が変わっただけだけどな。

  あと何か変な形の棒持ってるだけだけどな。

  だけども能の世界では、
  この棒を持って振ってみせる様が、
  「暴れ回って襲いかかっている」事を表すそうなので、

  そうなんだ、
  とまずは受け止めながら観て下さい。

  そしたらなんだか観ているうちに、
  これ多分トグロ巻いてんだな、とか、
  僧侶の法力が効いて倒れたっぽい、とか、
  囃子や歌詞にも助けられてですけど、
  察せられてくる。


結局また燃え盛る

  大蛇は日高川に飛び込んで、
  僧侶たちがとりあえず勝った、
  本坊に帰ろう、で終了。

  なんだけども。

  大蛇はそれでいなくなったのかね。
  そもそもどうして再び鐘に近付いて、
  どうしてまた身を燃え上らせたかね。

  ってか僧侶たちも退散させただけで、
  大蛇の情念に向き合っちゃいないよな。

  生前に何かしが、
  言いたい事がありまくったと思うんだよ。
  あくまでも私の個人的な(以下略)。


附祝言

  最後は縁起の良い謡で終わる。

  そう。能って祝言なんだ。

  と言うより能を上演できる事自体が、
  室町時代にあっては既に目出たかったんだ。

  だからこそ一日ぶっ通しだったり、
  三日続けての興行だったりしてたんだ。

  時間の流れに感じ方も、
  当時とは違ってしまって当然。


  これは何も『道成寺』だけじゃなくて、
  人生全体を通しての感想だけども。

  清門別会に所属している人の、
  日常に常識と、
  私のような地方農村出身者の、
  日常に常識とでは、

  全く別物で、
  時に一切理解し合えないだろうけども、
  それはそれで構いはしないんだ。

  清門別会の日々の研鑽には、
  頭が下がりそうになるが、

  一般庶民の中にあって私は、
  鑑賞とこの記事を書くために、
  計6時間以上という、
  実に悠長な時間を使わせてもらえている。

  他人には他人の世界があり、
  私には私の世界があり、
  両者に優劣は存在しない。

  明らかに平均より見劣りするだろうと、
  嘲笑う何者かがいたとしても、

  金にもならない時間を無駄にする怠け者と、
  そしる何者かがいたとしても、

  それらはヒトの視点に過ぎない。

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