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幸せって何だっけ

 「美味い醤油がある家さ」
 という回答は販促目的ながら至言の一つだと思うけれども。

 高野山大学にて毎年、
 4月〜11月までの月1回開かれている市民講座の、
 7月22日の第4回

   『大楽と現代社会』
      高野山大学副学長 松長潤慶先生

 の内容が面白かったので、
 資料ももらいましたし講義メモも取りましたが、
 あくまでも私の記憶と感覚でざっくりまとめます。

 受講された方の中には
 「そんな内容じゃなかった」「理解が足りない」と、
 思われる方もいるかも分かりませんが、
 あくまでも私という人生経験も含めたフィルターを通した理解であり、
 内容構成すらわりと変えていますので、
 以下の文責は私が負います。

 ところで余談ながら注意事項。
 松長先生のご専門は哲学、という事で、
 僧服で僧侶としての立場ではなく、
 スーツ姿で講義します、
 と前もって明言されていました。



まず「大楽」について

  密教においては重要なお経、
  一般的には『理趣教』と呼ばれる経典に出てくる文言。

  各章の最後には必ず、
  章ごとに現れる様々な仏様が、
  それぞれにニッコリと微笑まれるそうだ。

  日本語は漢字をしかも輸入して使っているものだから、
  本来の意味と取り違えて雰囲気で分かった気になる事が多い。

  「大楽」の「大」は「大小」ではなく、
  サンスクリット語の「マハ」、計り知れないという意味なので、

  「大楽」とは「人それぞれの微笑み」

  人それぞれに穏やかな微笑みを浮かべ切れる状態が、
  すなわち「しあわせ」でしょう。
  では現代社会においてどうやってその境地に至りましょうか。

罠その1:煩悩

  身体を得たその時から煩悩が始まりますよと。
  煩悩には三毒(むさぼり、怒り、愚かさ)がありまして、
  三毒を抑える事が重要ですよ。

  みたいな用語に文脈はわりかしあちこちで、
  聞く事があると思うんですけど、

  しかしながら密教においては、
  我々一人一人、この教室にいる約200名皆が仏でありまして、
  この世においてはそれぞれに、
  異なる名前と顔と身体をもって現れ出ただけの違いです。

  身体を得ている、という事はすなわち、
  それぞれに異なる使命や役目を持っているという事。
  身体を維持するための「欲」は必要なわけです。
  では「欲」と「煩悩」との違いは何か。

  貪…… むさぼりの心。
     ここで大学なので合宿中の学生K君に質問。
     先生「今無人島に連れて行かれたらどうしますか?」
     K君「瞑想します」
     先生「……いかにも高野山大学生らしい優秀な答えですが、
        瞑想でお腹がふくれますか」
     K君「あ。食べ物探します」
     先生「どこでどうやって」
     K君「海に行って魚取ったり、果物とか」
     先生「なるほど。食べ物は取れました。次は?」
     K君「えと。飲み水探します」
     先生「そうですね。海の水飲めませんからね。次は?」
     K君「タンパク質を確保します!」
     先生「火をおこして寝床作らんかい。
        お前が野生生物に喰われるぞ」

     つまり無人島でまずは生き抜くという状況においては、
     実に優秀に思えた最初の「瞑想」という答え、
     「瞑想したい」という欲の方が「むさぼり」なわけです。

     そこを飯も無い状態やあっても与えない状態で、
     「まず瞑想」で済ませる宗教はわりと多い。
     気を付けましょう。

  瞋…… 怒り
     再び学生の、次はH君に質問。
     先生「今日何かイライラした事はありましたか」
     H君「ありました!」
     先生「何ですか?」
     H君「K君のいびきがうるさくて眠れなかったです!」
     先生「なるほど。つまりK君が後輩だから、
        自分の思い通りになって欲しかったわけだね」
     H君「あ」←K君をからかったつもりがH君に、
           ブーメランになって返ってきた。

     つまり「他人を思い通りにしたい」という欲。
     でも思い通りになるわけないんですよ。
     80億人の人がいるので常識も80億通りなので。

  痴…… 愚かさ。
     先生「良いですか。今ここにいる皆さん、
        皆さんは講義が始まった10時半から、
        それぞれが、確実に、老けました」
     
     そこを「老けたくない」と言う欲です。
     確実に、老けているのでどうしようもないので。

  きちんとそれぞれがどういうものかを分かっていれば、
  それぞれに考えて対処のしようがあるでしょう。
  ふんわり「煩悩」でまとめているから、
  修行しなきゃ無くせない難しい事に思えるんですよ。

知の四種類

  知識・知恵・知能・知性。
  この四種類の違いを、
  山登りで例えた話が大変に分かりやすかった。

  知識…… どんなルートがあるか、
      どのくらい時間がかかるか、当日の天気は、
      などを調べて持って行く物の準備をする。

  知恵…… 実際に一歩ずつ山を登ってみる。
      思っていたより勾配きついとか、
      景色の良い場所発見、とかの経験の蓄積。

  知能…… 人によって目的によって知識や知恵の運用を変える事。
      「花見ながらゆっくり行きたい」とか、
      「いや。山頂でのイベントには間に合わなきゃ」とかで、
      ルートを変えたり雨が降ったら休憩所に避難したり。

  知性…… 知識・知恵・知能はとりあえずおいといて、
      山頂でいい景色を見て感動したり、
      いい景色に感動できる今の自分の状態を、
      有難く思ったり。

  仏教で言うところの「智」とは「知性」の事。
  本質を見抜く力。

  だから知識に知恵に知能があるからって別にえらくないし、
  知識に知恵に知能が無いと思っていたり思われている人にも、
  知性は備わっているんだよ。

罠その2:「人は鏡」どころじゃ無いから

  ここで過去の恨み言を述べますけれども、
  私偏光は幼少期に、
  キリスト教系新興宗教と仏教系新興宗教二種類から、
  それぞれに精神が破壊されるほどの虐待を受けまして、

  何を訴えても「人は鏡ですよ」で済まされた事を覚えています。
  つまり私が抱いている不満はそのまま、
  私の至らなさを周りが映し出し教えてくれたものであるから、
  私一人が反省し考えや行動を改めろと。

  しかしながら先日教えられた文言は、
  「人は宝珠ですよ」と。

  一人一人はただ一つの宝珠、ですけれども、
  周りにある360℃全ての宝珠が映り込んだ状態、
  この映り込み、つまり関係性も含めて、
  一人の人間なわけです。

  しかし物質としてはただ一つの宝珠。
  関係性は目に見えません。
  そしてここが何より重要(に私は思えた)なのですが、

  宝珠はそもそも宝です。
  平面でもなく立体です。


  ここで私は過去と似通った文脈にトラウマを刺激されつつも、
  過去とは明らかに異なる事に、
  今ここで気付けるのも過去のアホ宗教に縛られ続けたからだなと、
  有難いやら悲しいやらで。

  過去の数多の教義とやらはとにかく、
  「私」の存在は無視するかとことん見下してくれて、
  周りのお陰で生かされているんだから、
  周りが望む通りの周りに役立つための人間に変われと、
  ひたすらに「私」を潰されてきた感覚だったんだが、

  まず大前提として私が宝珠

  「慈悲心を抱け」だの「養え」だのも、
  散々説教されまくってもきたが、
  今回の先生に言わせると、

  「慈悲心は皆さん最初から持ってますよ」と。

  「自分をその宝珠だと思えたなら、
   自然と湧き出てくるものですよ」と。

  ……だよなぁ!

  そうじゃねぇのか、
  経典や聖書じっくり読んでたら、
  お前らの私に対する扱いの方が間違ってねぇか?

  って私はほとんど人生の序盤から、
  周りから散々全否定されまくってる間から思ってたんだが。

  ほぼ独力でそこにたどり着けて、
  こないだ書き上げた作品ともわりと内容かぶってる、
  自分すごい(キラーン)。


  しかし恐ろしいのは頂いた資料の文脈に、
  キーワード的に使われてた文言は、
  ホンマに過去の諸宗教でも使われていたそのまんまで、

  こうした内容って本気で様々なところで、
  ねじ曲げられて教えられまくってんだなって確信を持ったから、
  せめてこの記事で多少なりともお伝えしたい。

  人はみな一人一人が宝珠
  今この記事を読んで下さっている貴方も宝珠


  あと今朝の寝起きにしみじみ思い浮かんだけども、
  周りが求め期待する自分しか認めない事は、
  自分を大事にする事にはならない。

何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!