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カメラを止めるな

ようやく、映画「カメラを止めるな」を観た。
前評判通りとても楽しめたのだけど、見終わった後、つくづくと「創作」というものに必要な、果てしないしんどさ、途方もない労力を感じて、どっと疲れてしまった。

さて、私には、長編小説を書き上げたいという希望がある。あるけれども、どうしても最後まで書き切ることが出来ない。
そもそも、「小説を書き上げる」までには、いくつかの段階がある。まず、世の中には、小説を読まない人がいる。小説そのものに興味がないというか、生活の中に物語がなくても平気な人たちだ。そういう人たちに比べれば、他人が書いたものを受け身で読むだけでも、小説を読む人は、小説に近い。

ただ、多くの人たちは、小説を読むけれども、決して自分で書いてみようとは思わない。その中で、ごくごく一部の人が、「自分にも小説が書けるのではないか」と思い付く。
ただ、「なんとなくこういう主人公が出てきて、こういう恋人がいて、こんな感じのラブストーリーが書けるかも」と思うことは簡単だけれど、思うだけで終わる人と、たった一文字でも、実際に書き出してみる人との間には、大きく横たわる河がある。

そして、一文字目を書いてみると、いかに物語の書き出しというものが難しいかを感じる。その壁を乗り越えて、少し話を書き進めると、あれ?自分にも書けるんじゃないかしら?と思えてくるかもしれない。
しかし、だ。原稿用紙200枚とか300枚とかいう途方もない枚数の中で、物語に起承転結をつけて、落とし前をつけて、矛盾なく、違和感なく、誰にでも分かるように最後の一文字まで書き終えるなんていうのは、本当に至難の業であることが、途中から嫌というほど分かってくる。一文字目を書くことと、途中まで10枚書くのと、300枚書き切ることの間には、地球一周分くらいの距離がある。
面白い長編小説を書くこと……ミッション・インポッシブル……。

そうだ、その「ミッション・インポッシブル」を観終わると、「あー、すごかったなぁ」とは思うけれど、決してこの話を自分が生み出せるかな?とは思わない。アメリカの大きなスタジオで、アメリカ人たちが、ワイワイと作ったんでしょ?ハリウッドだね、想像不能(インポッシブル)となる。

しかし、「カメラを止めるな」は、「ミッション・インポッシブル」ほど私たちの遠くにいない。「ゾンビ映画の撮影中に、本物のゾンビが現れる」という筋書きから、多くの人は、何となくの絵を思い浮かべることが出来る。映画の撮影中、ガラッとドアが開いて、ゾンビが現れる。最初は、またまた~冗談やめてよ~!とか言ってる俳優たちだが、じきにそれが本物のゾンビだと気づいて、キャー!!という悲鳴。容易に絵が浮かぶし、なんだか誰にでも作れそうだ。

しかし、実際のこの映画は、37分間のノンストップシーンの裏に、実際にはあれやこれや背景があって……ということで進むのであるが、作者は、そのあれやこれやを一つずつ思い付き、順番を組み立て、最後の一ピースまで、逃げずに伏線を埋め込んだということだ。
ああ、果てしない。
「ゾンビが出てきてキャー!」というシーンを思い付くのとは、天と地の差がある。

物語を完成させることは、とにかく辛く苦しそうだ。でも、逃げずにすべてのパズルを完成させ、ひとつの作品として完成させた時の恍惚感といったら、何事にも代えがたいものなんだろう……そんなことを帰り道につらつら考えた。

ところで、ゾンビ映画を見たら、寝る前に思い出して少しは怖くなりそうなもんだけど、そういう意味では全く見事に怖くなかった。

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