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橙色に頬をぶたれる

真理子の部屋の窓からは、東京タワーが望める。と言っても、目の前を通る首都高の急なカーブに、見事に遮られている不完全な姿。けれど、真理子はこの景色を手に入れる為に、かなり無理をして、毎月の家賃を払っている。東京タワーの灯りは、真理子にとっては、神様みたいな、お守りみたいな存在で、寝る前にその姿さえ確認出来れば、静かにカーテンを閉めて、その夜をそっと終えることが出来る。
エッフェル塔は洗練され過ぎた冷たい白い光、スカイツリーは下町っぽさが隠せない紫色の光で、そんなに好きじゃない。東京タワーの、あの橙色の暖かさとオーラは世界一だと、真理子は固く信じている。

もうだいぶ前のことのように感じるけれど、東北で大きな地震があったあの日、真理子は会社の後輩である理恵と一緒に、三時間近く歩いて、この部屋に戻って来た。あの日は金曜日だったし、高いビルが並ぶオフィス街にはどうしても泊まる気がしなかった。埼玉の実家にはどう頑張っても帰れない、とうなだれていた理恵に、「じゃあうちに泊まりにおいで。私も一人で歩くより、相棒がいた方が心強いから」、そう声をかけると、理恵は黙って頷き着いて来た。

真理子はいわゆるバブル世代、八十年代後半に総合商社に入社した。理恵とは二十も年が違う。いつもファストファッションしか身に着けず、会社にもズックのような靴でやって来る理恵とは、おそらく同世代だったら友達にはなっていないだろう。理恵は、真理子が身に着けている、エルメスやティファニーのリングやピアスにも「わー、可愛い形ですねぇ」などと、まるで駅ビルで買ったアクセサリーを誉めるような調子で目を輝かせる。けれど、ここまで年の差があれば、後輩というよりは、もはや母娘のような存在で、真理子は理恵の、もっさりとあか抜けない様子が、かえって好ましかった。

そんな理恵と共に、あの日、真理子は、不安と恐怖と、そして非常時特有の少しばかりの高揚感を抱いて、東京の街を改めて味わうように歩いた。大きな通りはいずれも、何とかして家に帰ろうとする人々の行列が出来ていて、まるでパニック映画のワンシーンのようだった。とにかく寒くて、そして歩いている間も、数えきれないほどに足元から余震を感じたのを覚えている。
「かつてないことが起きてしまった。日本は、東京は、これからどうなるんだろう―――」
誰しもが、同じことを頭に思い浮かべながら、けれども決してそのことは口にせず、黙々と歩いていた。

飯倉片町の交差点で、信号が赤になり、真理子と理恵は立ち止まった。二人の間に気まずい空気が確かに流れたけれど、真理子はその空気を断ち切るように思い切り振り返った。大きくそびえ立つ東京タワーは、何事もないかのように、今日も暖かな光を放っている。この光が明日も明後日も、これから先もずっと絶えませんように―――東京の運命を担っている橙色に、真理子は強く祈りの気持ちを捧げた。

週明け、真理子は、会社の廊下で理恵が若い同僚と話しているのを耳にした。理恵はこちらに背を向けていて、真理子には全く気づいていない様子だ。
「金曜はマリババの家に泊めてもらったんだけど、あの人って、かなりオカシイ。こっちは命懸けで歩いてるっていうのにさ、通る場所、通る場所で、バブル時代に遊んだ思い出を語りだすんだから。そうそう、飯倉にある『キャンティ』っていうイタリアンのそばも通ったけど、あそこ、恥ずかしい思い出があるんだよね。ずっと前、マリババがあの店に私を連れて行ってくれたことがあったんだ。青い草の味がするパスタを食べながら、あの人、『ここは昔々、芸能関係者が集まるサロンのような場所だったんだよ。高校生だった無名のユーミンが八王子からここに通い詰めて、大人たちに自分を売り込んで、それで歌手としてデビューするキッカケを掴んだんだって。ねえ、本当に夢みたいな場所だと思わない?』って熱く語っちゃって。そうしたら隣のテーブルにいたヒゲの生えたおじさんが、『僕はちょっと面白いことをしてるから、今度時間があったらスタジオに遊びにおいで』なんて話しかけてきたの。そのおじさん、明らかに酔っぱらってたから、私はちゃんと、そのおじさんの求めてることを言ってあげたよ。「わぁ、そうなんですかぁ!すごいですねぇ!」って。おじさん、得意気に名刺を渡してきたけど、自分で印刷したみたいな薄っぺらの紙に『プロダクション何とか』って、聞いたこともない名前が書いてあった。それで終わりにするのが、どう考えたって正解なのに、マリババったらすっかりその気になって、次の日そのおじさんに電話したら、とっても冷たくされたって。当たり前だよね。マリババも私もユーミンじゃない、何の才能もないただのOLなんだもん。あ、マリババの部屋は思ったより狭かった。なんか中途半端に東京タワーが見えたよ。でも、あの人にとっては、そこ、大事なポイントなんだろうね」

それ以来、理恵とは部署も離れ、疎遠になってしまったけれど、東京は程なく活気を取り戻した。キャンティにも灯りはともっているし、酔っぱらってタクシーの車窓から見上げる巨大な東京タワーを見上げる時、真理子は万能感に満ち溢れる。

良かった、私の大好きな東京に戻って、本当に良かった。

 だけど、今年―――日本だけじゃない、今度は、全世界を信じられない恐怖が襲った。
「こちらは港区です。緊急事態宣言発令中です。不要不急の外出は控えましょう」こんな放送を聞きながら、毎日家でパソコンに向かう日が来るとは想像もしなかった。
東京中のお店の灯りが再び消え、皆が家に閉じこもっている。

緊急事態宣言が解け、昨日、久しぶりに出社をしたけれど、丸の内の景色がすっかり色彩を失ってしまったことに、真理子は愕然とした。地下鉄の駅から地上に出た瞬間の空気がまるで違う。OLたちは見事に誰もヒールを履いていない。ルブタンは、セルジオ・ロッシはどうしたの?―――真理子と同世代に見える女たちも、険しい顔をマスクで覆い、白髪染めをサボった頭で、スニーカーを履いている。
 イヤだ、イヤだ。十年前のあの日、元気を取り戻したみたいに、東京は再び、派手で、猥雑で、元気で、綺麗で汚くて、親切で冷酷で―――そういう姿に戻るはず、戻らなくてはならないはず。ねえ、そうでしょう?
真理子は目の前を通りすぎる、見知らぬ女一人一人に駆け寄り、肩を揺すぶりたくなった。

ふと、理恵のことを思い出した。大量生産されたペラペラの服を着て、ペッタンコのスニーカーを履いて、炭酸で割ったハイボールで手軽に酔っぱらう。若さをそんな安い思い出でしか彩れないなんて、なんて可哀想なんだろう。「キャンティ」にかつて流れていたであろう甘美な東京の時間に思いを馳せ、酔いしれることも出来ない、想像力と感性の欠如。
私の知ってる東京は―――シャンパンから吹きこぼれる泡、女たちの長い髪の毛と嬌声、強い香水の香り、男たちの甘い囁き―――むせ返るような、そんな東京への思い出がないなんて、本当に可哀想。
ちょっと前まで、私は勝ち誇るように、そう確信していた。なのに、今は、あの狂乱の東京を味わったはずの女たちも、皆、一様に浮かない、青白い顔で歩いている。

先ほどまで真理子は、バブル時代を共に過ごした女友達と、銀座の老舗フレンチにいた。久々にルブタンを履いて行ったら、どれだけ高揚するかと思ったのに、踵の皮がベロンとめくれて泣きそうになった。キラキラに光るシャンパンが喉を通る時、どれだけ甘美な思いがするかと想像したのに、焼けるような痛みが走っただけだった。気取ったギャルソンの料理の説明も作り笑顔も、何ひとつ真理子の心をかすらなかった。
もしかしたら……という、魚の骨が喉にずっと刺さっているような嫌な予感は、ここのところずっと続いていたけれど、それが今日、ハッキリとした痛みに変わった。

真理子はそっとカーテンを開ける。静まり返った首都高が、やっぱり今日も東京タワーの橙色をハッキリと遮っている。
この街には、高いところから、東京タワーを、いや、東京の夜景すべてを見下ろす部屋に住む人がいる。華やかな場所を跳ね回り、自由奔放に暮らしてきたつもりでも、私はやはり、この街の隅っこで、何者でもなく暮らしているただの平凡なOLだ。パンデミックのせいで感傷的になっているのだろうか、この中途半端な景色が、急に憎らしく、自分の頬を打たれた気がして、真理子はキュッと涙ぐむ。

東京がこんなことになっちゃったから、まるで私が可哀想みたいじゃないの。お洒落をしても、フレンチを食べても楽しくないなんて―――どうしてこうなっちゃったのよ。
真理子の踵は、さっきよりジンジンと熱を持っている。

もしかしたら、今までずっと、私は滑稽で可哀想だったのかもしれない――暖かいはずの橙色が段々と滲んでいく。真理子はそっとカーテンを閉めた。

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