見出し画像

「マチネの終わりに」を観て

※少しネタバレあり

「まあ俺くらいになると、第一打からグリーン見据えてっから。フェアウェイだけ見てるわけじゃねえから、大事なのはその先だよ。うん……」ーーーゴルフ場のレストランで五目あんかけ焼きそばをすすりながら、私は目の前で熱くゴルフ論を語ってくる、初対面のおじさんを見つめていた。今頃、福山を見ているはずの私の目は、何故この金髪&ピアスの小さな黒いおじさんを捉えているのだろう……運命?ではない、私のミスだ。

一から説明します。私は先日、このnoteが募集していた「マチネの終わりに」試写会に応募したのだが、まさか当たるはずがないと思い、その日にゴルフのワンデイラウンドレッスンを申し込んでしまったのだ。試写会当選の連絡メールを頂いた瞬間の脱力……。折角当選させてもらったのに、既に申し込んでしまったゴルフをキャンセルすることも出来ず、泣く泣く茨城県まで向かったのである。

確かにレッスン参加者四名のうち、おじさんはダントツ上手かったけれども、「初心者対象、往復都内から送迎つきラウンドレッスン」にノコノコ参加しているくせに、「第一打からグリーンを見据え、最終パッドまで計算している」と言われても。タイガー・ウッズのことを「奴」と呼び、「奴は、グリーンから1mはみ出たところからだと、9番アイアンを使うんだよね、そのアイデア、俺も盗ませてもらってる」と言われても……。

一日のレッスンを終え、送迎バスを降りると、私は必死におじさんの姿を頭から追い出しては福山を思い浮かべ、車窓から見えた牛久大仏を追い払ってはエッフェル塔を思い浮かべた。世界はとてつもなく広い。

前置きが長い。とにかく今日、私は会社帰りにやっと、「マチネの終わりに」を観ることが出来た。さっきから福山福山言っているが、私は取り立てて、奴、いえ、彼のファンというわけではない。ただ、テレビで姿を見かけた時には、女として通常レベルに「格好いいなぁ」と思う程度の感じ。

それより、ゆりちゃん。石田ゆりちゃん。勿論、おじさんとウッズの関係と同じように、私と石田ゆり子さんにも何の関係もないけれど、もう大好き過ぎて、私の中では「ゆりちゃん」なんです。(私の方が年下ですが)
彼女を密着する番組で、「審美眼」という言葉が使われていて、これだ!と思ったのだが、私がゆりちゃんの何が好きかと言われたら、やはりこの「審美眼」に行き着くのではないかと思う。
いつも空気と光を味方につけているような素敵な装い、Instagramに載せる猫の構図とまろやかな色合い、そして背景に映り込む家具や絨毯、食器、リネン。
どこをとっても素敵過ぎて、私のような年増のうるさ方をもうっとりさせてしまう力。
確かな審美眼を持ち、丁寧な暮らしを送ることは、どんなにか心を豊かに満たすことでしょう、と心から思える、そんな力を持っている、ゆりちゃん。
向田邦子さんしかり、美しい女性が一人で、凛として猫と共に暮らす生活は、私にとって神秘的で憧れそのものだ。

そんなわけで、この映画を観ている私の視点は、終始、福山だった。「福山みたいなギタリストと運命的な出会いをし恋に落ちる、キャー」という女子目線ではなく、「ゆり子を逃したくない」という、男としての福山に全力でなりきっていた。

さて、福山が最初にゆりちゃんと出会うシーン。私は「男の人が、運命の女に会った瞬間」の表情が好きだ。映像として一番分かりやすいシーンは、その昔、海老蔵が、取材に訪れた小林麻央ちゃんに初めて会った時の握手のシーンだと思う。あの頃の海老蔵の目付きは常にトロンとしていて、世の中を見くびっているような雰囲気だったけれど、「初めまして」と麻央ちゃんが手を差し出した瞬間、海老蔵の瞳孔は明らかに広がり、鮮烈なヴィヴィヴィ感、こいつは一味違う感がこちらにも伝わってきた。

今回の福山も、ギターのコンサートを終え、楽屋のドアを開けてゆりちゃんを見た瞬間、そんな目をしていた、よし。それからは、ほとんど会っていないくせに「洋子さん(ゆりちゃん)が死んだら、俺も死ぬよ」とか言っちゃうわけなのだけど、え?いつの間にそんなに好きになったの?そこが描かれていない、なんてことは私は言わない。だって、ゆりちゃんだもの、ゆりちゃんに出会ってしまったのだもの。

画面のゆりちゃんは、年齢相応に皺が目立つ。目だって、さほど大きいわけでもない。だけれども、ちょっとした光の加減で、ゆりちゃんの頬には艶玉が宿り、資生堂が宿る。こんな女性に出会ったら、何はともあれ逃したくない、この出会いを一過性のものにしたくない!私は福山として強く思った。

その後、二人を故意にすれ違わせ、引き裂いた犯人であるマネージャーが福山の妻に収まる、という展開は、今度は女として腹が立つわけだが、確かに男の人って、ここまで捨て身で自分を想ってくれる女には、最終的には引きずられて結婚しちゃう可能性は大いにあるし、エンディングのセントラルパークで再びゆりちゃんと会えた後も、結局、福山は家庭に戻った気がする。自分を陥れた妻を恨みながら、同時にそこまでして自分を想う愛を捨てることも出来ず。

真面目なことをひとつだけ書くと、「未来が過去を変えることもある」という概念にはグッと来た。ゆりちゃんが小さい時におままごとをして遊んでいた、実家の庭にある大きな石。彼女にとっては、幼い日々を象徴する想い出の石だったのに、数十年後、彼女のお祖母さんがその石に頭をぶつけて亡くなることで、その石に対する想いは、全く別のものとなる。つまり、未来が過去を変えることもある、という考えだ。

例えば信じていた人に裏切られた場合、楽しかった過去の出来事は、一瞬にして暗いものに取って変わる。一方、浮かばれない辛い努力の日々があったとしても、その努力が報われ光を浴びた時には、過去は、現在の栄光の日々への尊い過程となる。
とかく、常日頃から、「過去は変えられないのだから、未来未来!」と言うけれど、自分の過去を輝かしいものに持ち上げるか、愚かしいものに下げてしまうかは、これからの自分の未来の生き方で変えることが出来るーーこの考えを知って映画館を出た私は、とても清々しい気持ちになった。

「第一打からグリーンを見据える」
過去、つまり自分の生きてきた歴史を価値あるものとするために、第一打の段階から未来を見据え大事に生きる……おじさん、結構いいこと言ったのかもしれない。と、「マチネの終わりに」という映画を見たことによって(未来)、おじさんの発言(過去)の印象が変わるという不思議。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?