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愛娘の「はんぶんこ」が教えてくれた、ほんとうの平等。


ドーナツを覗き込む「愛娘」。意味深な画像であるが、
特に意味はない(はず)。

「はい、はんぶんこ。」

もうすぐ3歳を迎える愛娘は毎朝、お皿に盛られているパンを分け与えてくれるようになった。「はんぶんこ」とは口頭で伝えられているものの、私自身が生きてきた世界で体験した「はんぶんこ」とは程遠く、実際には一握り、ラッカセイひとつぶんくらいのほんの一部である。

でも、愛娘の肌の温もりを感じられるパンを与えられて、なんだかとても、満たされている自分がいるのだ。

身も心も温かくなるパンを頬張っていたとき、「人や国の不平等を無くしましょう」という政治家の発言が、朝のテレビ番組のニュースで流れてきた。

カメラを向けられると、いつもひょうきんなポーズの愛娘。
後ろは、母と自閉症の兄・翔太。

愛娘が生きているこの国は、コロナ、貧困、格差が広がるなか、これからどのように育まれていくのだろうか。人や国の不平等がこの世界から全て無くなったとき、果たしてほんとうに全員が幸福になるのだろうか…物思いにふけながら、私は「平等」について考え始めていた。
 
私は、「異彩を、放て。」をミッションに掲げる福祉実験ユニット・ヘラルボニーという、すこし変わった株式会社の代表をしている。日本全国の福祉施設でアート活動をする主に知的障害のある作家たちとライセンス契約を結び、異彩の作品を軸にしながら、百貨店を中心としたプロダクトブランドを展開していたり、作品を販売するギャラリーを運営していたり、街をキャンバスに捉えたアートプロジェクトを企画したり、最近ではクレジットカード事業も手がけている。

「ハイアットセントリック銀座東京」のスイートルーム、ヘラルボニーがプロデュースしている。勢い余って「パパの職場なんだよ」と愛娘に対して、盛大に話を盛ってしまっている。
「パパすごいな」という顔で覗き込む愛娘。
ちゃんと違うよ、と帰りには伝えました。

思い返せば創業してから幾度となく「平等」という抗えない言葉の力によって、ご指摘を頂戴してきたように思う。「知的障害のある人が全員、才能がある訳ではないよ?」「賃金は均等割にした方が良いのではないの?」「福祉団体全体に寄付ができる仕組みは?」投げかけていただいた言葉の数々をあげれば、とてもキリがない。
 
それは全て「平等」という言葉が内包する力がもたらした善意の鉄槌だと、私は思っている。その言葉が発せられる背景には、「ダイバーシティ」「インクルージョン」「SDGs」等々、現代社会を象徴する言葉たちが大きな広がりを見せていることも一因しているように思う。

世界が、この指とまれ!的思想の登場により、大きく前に進もうとしていることに力強さを感じると同時に、なんとも言えない不気味さを感じはじめている自分がいるのも事実だ。その不気味さの正体は、抗えない「正解」が生まれてしまうのではないか?という恐怖である。

2022年10月にオープンしたホテル・マザリウム(岩手・盛岡)の佐々木早苗ルーム。ピースサインの自閉症の兄・翔太と、変顔する愛娘。

「誰しもが生きやすい世界をつくる」という誰しも批判することのできない強い正解は、想像を絶するスピードでこの世界を席巻している。「1+1=」とテストでの出題があれば、私たちは迷わず「2」と答案用紙に明記するだろう。そんな単純明快な正解としてこの思想がこの世に周知されたとき、思考の多様性は消えていく可能性がある。この世界を「正解」が支配しはじめているという感覚に襲われる瞬間が、私にはある。
 
しかし、私の身近には正解に支配されない人物がいる。それは、実の兄・翔太である。彼は4歳上で、重度の知的障害を伴う自閉症がある。彼には、彼独自の正解が存在していて、すごくおもしろい。ほんの少しだけ、紹介させて欲しい。

爆睡する親父「65歳」。寝ながらにして言葉遊びを仕掛けてくる自閉症の兄「34歳」。容赦なく二人を叩き起こす愛娘「3歳」。『ほんとうにアートホテルか!?』と三度見するほど賑やか。

彼は何年もの間、日曜日のランチには「ラーメン(花月・ニンニクげんこつラーメン)」を食している。そして、日曜日の夕方には「ちびまる子ちゃん」を必ず観ている。土曜日の夜に放送されていた「ブロードキャスター」というニュース番組が打ち切りになったときは、家族会議が開かれるほどに憤慨し、発狂していた。更には、月火水木金土日、自らが袖を通す洋服の上下セットまで決まっているのだ…つまり、自閉症の特徴である「強烈なこだわり(本人なりの正解)」が兄のアイデンティティであり、その「強烈なこだわり(本人なりの正解)」が存分に発露できる環境が生まれているのだ。
 
彼は、時代の潮流を理解して今現在の最適解を導きだそうとはしない。平等を振りかざして誰かを傷つけることもしない。当たり前だが政治的な忖度は存在しておらず、完全に松田翔太という一個人の正解のみでこの世界をサバイブしている・・・彼の生き方は、「社会」ではなく「個人」に向かっている。自分の価値観を最優先する生き方はとても清々しく、美しい。少しの羨ましさすら感じてしまう。

現代社会の正解に支配されることのない兄・翔太の存在を思ったとき、愛娘がくれた「肌の温もりを感じる一握りのパン」のことを、改めて思い返した。

番組コメンテーターとして生放送に出演する父親(私)を背に、
一生懸命「塗り絵」に励んでいる愛娘。

「ほんとうの平等」とは、同じものを同じ量だけいただくということではないのかもしれない。

それ以上に、必要な分を必要なだけ貰うことの方が、圧倒的に大切だと気付いたのだ。自閉症の兄が、ミシュラン3つ星のフレンチレストラン以上に、花月のニンニクげんこつラーメンを求め続けているように。私自身が愛娘から、ラッカセイサイズのパンを「はんぶんこ」にしてもらい大満足しているように・・・。

寸分たりともズレのない均等な権利以上に、個別最適化された一個人にとっての安心感や満足感こそが、「ほんとうの平等」なのかもしれない。
 
「国籍」「人種」「民族」「宗教」「肌の色」「年齢」「性別」「性的指向」等々、世界は多様性の問題で溢れている。いくつもの情報のシャワーを浴びながら、私たちの感情は揺られている。そして、そんな世界で今日も必死に生き続けているのだ。

パパ(私)と、兄・翔太に挟まれてパシャリ。

「誰しもが生きやすい世界をつくる」という抗うことのできない美しすぎる思想は、社会をもちろん前進もさせる。しかし、後退もさせるのではないだろうか。障害福祉の領域で勝負する人間としての一意見でしかないのだが、別の角度から見たとき、「誰しもが正解しか言えない世界が生まれる」可能性も内包しているように思えるからだ。
 
現代社会に整然たる正解としてこの思想が堂々と君臨したとき、それは果たして「誰しもが生きやすい世界」に繋がっていくのだろうか。均等割の権利よりも、個別最適化された幸福に寄り添える社会。

私は、もうすぐ3歳の愛娘の与えてくれた「はんぶんこ。」が肯定される世界を望む。

本執筆記事は「東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」の〈哲学×デザイン〉プロジェクト「 Booklet」に代表・松田崇弥が2022年1月に寄稿した執筆記事です。許可を得て掲載しています。

東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP)


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