日記のメモ書き2022/09/08

随分と覚書をサボっていた

この間にも、いくつか動いたこと感じたことがあったはずなのに
日々の疲れの中に時間が溶かされていく
(私の怠惰であるけれども)

さて、3週間ぶりの広島に帰ってきた
記録をする人々に背中を押され、おじいちゃんと話をする時間をつくることができた
明後日、会いに行く
結局、昭和史の勉強をできていないから、明日ざっとみてみよう

朝から、碑や資料館をめぐる
平和大通りを母とあるく
伝承活動を始めた母とそれぞれが見聞きし考えた話を渡しあう、重なり合う話に見聞きした事象が重なってまた引き出されていく
先輩方の姿から学びつつ、自分が感じていることを、留まらずに執着せずに柔軟に、と思う
いろんな話を説明してみれば自分の頭も整理されてくる

私は、被爆とその後の暮らしの実相とともに、被爆された方がなぜ、どのように、語る/語らないのかそのこころに何があるのかを記録していたい。加えて、その周囲にいるひとびとのこころも残しておきたい。
本のまえがきやあとがきの部分があって、内容がぐっとまた感じ取られるのだと思う

最近思うのは、当初考えていた「感じられる表現」だけが目指すべき場所ではないかもしれないということ
それが引き継がんとしているのは、きっと、叫びのようなそういうエネルギーで、同時に補強してくれる記録が必要なように思う
傷ついて二度とみられなくなること、アイコニックになってそのひとりが消費されてしまうこと、メッセージだけが浮遊してしまうこと
(「感じられる」をどう図ったらいいんだろう)

もうひとつ、ここ最近思うのは「平和」を簡単に使えないということ
平和を自分の中で咀嚼して、私がどういう意味で使うのかを言えるようにならないと使えないと思う
戦争の文脈で、体験者のかたのいう「平和」と、非体験者のいう「平和」はまったく違う
カンタンに言葉を借りてきては、いろんなものが崩れてしまう気がする
体験者のかたの想いやヒロシマの向かう先や自分の生活の抗いが

さて、今日の振り返りに戻ってまいりまして、そんなこんなで平和大通りを比治山の方にむかい、途中で引き返して平和公園へ。いくつかの碑と慰霊碑、慰霊塔に手をあわせ、本川小学校の資料館へ。
存在を知りつつも、行ったことがなかった。被爆建物のなかに、学校に由来する方の6日を語るパネルと掘り出されたガラスやお骨。2年後の授業風景ー窓枠の曲がった吹きさらしの教室で授業をする様子の写真ー。かつて平和記念資料館にあった被爆後の広島市街のジオラマ。被爆樹木の展示。付近の被爆状況。こじんまりとした資料室だけれども、充実した展示。
本川小では、高学年が低学年に向けて資料館の案内をするらしい。今日も5年生が資料室へ来るのだそうだ。
平和記念資料館だけではなく、各学校の資料展示を観に行くのがいいと思った。暮らしていたことがより深く感じ取られるから。

その後はまた平和公園に戻り、お昼を食べてから、追悼記念館で地図や学校史、写真などの資料にあたる。市街地から少し外れた、曾祖母や祖父の暮らしていた町をたどろうとする。正確に、もっと情報を、と思う。
被爆後の街の写真をみてもいつもいまいち、今の街と重ねられないのが、記憶に近づいていきづらくて悔しいから。聴いた話を、読んだ話をできるだけ、その人が思い浮かべているみちや建物を想像しながら聴きたい、と思う。土地だけではなくて、学制なんかも勉強しなくては。

満腹のまま、資料にあたっていると胃が気持ち悪くなってくる、ただの寝不足と疲れかもしれないが、資料にあたるのがだんだんしんどくなってくる
あたまに入らない。あそこの資料室にいると最後の方はいつも、莫大な資料に呆然としてあたまが動かなくなってしまいそうだ、という感じになる。

そんななかでも、面白い記録があった。被爆後20年で出版されたもの。手書きの原稿か、出版はガリ版印刷だったようだけれど、聞き書きのまとめと句集、それから被爆後に著者がインタビューした「やけどに効くもの」「原爆症に効くもの」の一覧。薬草よりもきゅうりやトマト、慈姑のすりおろしたものなど。たんまりあった。生活がみえてくる。そして市民のうわさを含めたような雑多な言説もあって、その当時見方が、目線が聞こえてくる。手作りの本。辞書ほどの分厚い本だった。

その後市立中央図書館で被爆当時に近い地図を探す。レファンレスお願いしたらとてもいい資料を探してくださって、ありがたい。
調べる中で、街の様子ももっと見えてきたらいいなと思う


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