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助けてもらう人になる

今朝の「オンライン聖書を読む会」では
ルカ福音書1025節〜37節を読みました。

全ては書き切れませんが
以下のような分かち合いが出ました。

「果たして自分は
ちゃんと神を愛せているのだろうか、
隣人を愛せているのだろうか」

「盗賊は裁かれていなくて、いいのだろうか。」

「祭司やレビ人は、
汚れないようにする必要があった
という注釈を読んだことがある」

「宿の主人もちゃんと介抱したのだろうか」

「傷を負った者次第で
癒しへの道が開かれる」

「自らを正当化しようとした律法学者と
アダムとイブが重なった」

「怪我をした人は
イエスさまかもしれない」

「この話は日曜日から今日で3回だから
神さまは何かを自分に伝えたいとしか思えない」

「昨日一人で読んだ箇所が
申命記の6章の愛しなさいというところだったので
こんな風に重ねて同じ聖句が与えられることで
不思議さを感じている」

「誰が怪我をした旅人の隣人になったか」
というイエスの問いかけから考えたい。

「隣人になったか」ということは
誰もが隣人であるというのとは
違うのだろうか。

怪我をしたユダヤ人が
汚れて蔑んでいたサマリヤ人に
助けられたという話であり
この後、この旅人は
自分を助けたのがサマリヤ人と知ったら
どうしたのかは書かれていない。

自分自身、嫌な人に助けられたら
素直に受け取れるだろうか?

神さまが自分を助けてくるているのに
自分の思いと異なるときに
助けの手を拒む自分もいるのではないか。

などなど
新たな氣づきが与えられて感謝でした。

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