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“失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ(It’s ability, not disability, that counts.)。”

これは、“パラリンピックの父”と呼ばれるルートヴィヒ・グットマンさんのお言葉です。

これからの時代を生きる上では、この言葉がより大きな力を与えてくれそうですが、それを身を持って体現してきたロックバンドがいます。

イギリスのハードロックバンド、デフ・レパードです。

ドラマーはリック・アレンさんです。

デフ・レパードは元々はNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)のムーヴメントから出てきたバンドの1つです。

なので、アイアン・メイデンやヴェノム、メタリカ、スレイヤーといった数多くのメタルバンドと同じ土俵の上で切磋琢磨していたバンドです。

シンガーのジョー・エリオットさんは“メタルじゃなくハードロックだ”と以前から主張していますが…。

一応、NWOBHMを代表するバンドとして紹介されることも多いバンドです。

1980年に『オン・スルー・ザ・ナイト』でデビューし、2ndアルバム『ハイ&ドライ』に続く1983年の3枚目のアルバム『炎のターゲット』が全米ビルボードのアルバムチャートの2位まで上昇しました(人類史上1番売れたマイケル・ジャクソンさんの『スリラー』が当時1位に君臨していました)。

『炎のターゲット』は、アメリカだけで1000万枚以上の売上を記録して大ヒットし、バンドの勢いはピークに達しました。

その勢いでワールドツアーを大成功させて、順調に次の作品の制作をスタートしました。

その矢先、1984年12月31日に当時21歳のリック・アレンさんは交通事故を起こし、左腕を肩から切断するという大怪我を負ってしまいました。

右腕も粉砕していましたし、何より生きるか死ぬかの状況が長く続いたので、復活は不可能とも思われました。

そして、片腕がなくなるということは、当然のことながら、ドラマーとしては致命傷です。

ドラマーとしての復帰は無理と判断したリック・アレンさんは、引退を覚悟しましたが、バンドの仲間たちは彼の復帰を待つことを選びました。

その結果、死の淵から奇跡的に快復したリック・アレンさんと、彼以外のドラマーは考えられないと結束していたバンドは、“左腕を失っても、右腕と両脚がある”というポジティヴな発想により、シモンズ社の協力を得て、左腕で叩くべき部分をフット・ペダルでの演奏で補うことが可能な彼専用のエレクトロニックなドラム・セットを開発しました。

バンドは、その誰もが未体験のシステムの中での演奏に馴染むことから取り組んでいきました。

リック・アレンさんは血の滲むような練習を積み、メンバーはそれを見守り、支援しながら3年近くの歳月をかけ、バンドは復活しました。

当時としては、若手のバンドではあり得ない大きなブランク…前作から4年が経っていましたが、その後に発表した4枚目のアルバム『ヒステリア』は、全米ビルボードアルバムチャートで1位になり、アメリカだけで1200万枚以上、全世界で2500万枚以上の売上を記録して前作以上に大ヒットしました。

デフ・レパードは前代未聞の作戦でリック・アレンさんの復活を待ち、それまでのファンやそれ以外の人たちまでもが、デフ・レパードの復活を持ち望んでいたという劇的な実話です。

今もリック・アレンさんはデフ・レパードのドラマーとして活躍中で、世界中のスタジアムで演奏し、バンドも新作を作り続けています。

ロックの歴史上、最高の美談です。

そこで、本日の“こずや”のBGMは、デフ・レパードの1996年の名盤『スラング』です。

発表された当時は、聴く側の多くの人が混乱したようですが、あれから月日が経って実はこの作品こそがデフ・レパードの最高傑作だと感じている人も多いはずです。

1990年代は、80年代にスター級の人気を得ていたハードロックやヘヴィメタルのバンドにとっては厳しい時代でした。

グランジの大流行により、ガラリと世界が変わりました。

その結果、ヴァン・ヘイレンやボン・ジョヴィ、モトリー・クルー、ポイズン、スキッド・ロウといったバンドがダークでヘヴィな路線に方向転換します。

モトリー・クルーやスキッド・ロウは90年代のロックを牽引していたメタリカやパンテラなどの影響をあからさまに受けた作品を出しました。

モトリー・クルーなんて、わざわざシンガーをクビにして、交代させていますから…(汗)。

それでも、その作品が実は最高傑作級の完成度を誇っているのは皮肉な話です。

アンスラックスなんかもシンガーを変えて時代に適応しようと必死でした。

ボン・ジョヴィやヴァン・ヘイレンは自分たちのサウンドを完全に破壊することはなく、できる限り90年代のトーンに近付けました。

そうすることで、古いファンは離れず、新しいファンも少し獲得みたいな安全な路線を歩むことができました。

デフ・レパードもまた、90年代は少し苦労したのかな?

『スラング』は、途中でレコーディング作業をやめるという荒業に出ました。

それでも、さすがにデフ・レパード…、完成度が高く圧巻の“90年代のデフ・レパード像”を示してヒット作品になりました。

このように、ニルヴァーナやサウンドガーデンといったバンドが主流になったグランジの大流行により、消滅したアリーナクラスのメタルバンドの多くとは異なり、90年代もずっと、デフ・レパードは自らの存在意義を保ち続けました。

ギタリストのスティーヴ・クラークさんを亡くしたことに嘆き悲しんでいる間に、1992年のアルバム『アドレナライズ』が大ヒット、それに続いた1996年の『スラング』でも、時代の流れに飲まれつつもうまく適応したということです。

1996年と言えば、グランジの一時代も終わり、その中から派生したバンドが活躍していた時代です。

イギリスではブリットポップの絶頂期であり、オアシスが頂点に立っていた時期で、他にもブラーやパルプ、スウェードなどが活躍していました。

アメリカでは、新しいタイプのオルタナティヴ・ロックのバンドが活躍していました。

トゥールの『アニマ』やスマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終りのない悲しみ』を筆頭にレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの『イーヴィル・エンパイア』、マリリン・マンソンの『アンチクライスト・スーパースター』といったアルバムが次々とリリースされていた時期です。

その中で、デフ・レパードの『スラング』が発表されました。

それまでのプロデューサーであったロバート・ジョン・マット・ラングさんの制作チームから離れて、ピーター・ウッドロフさんと組みました。

メンバーは現メンバーと同じ…
ジョー・エリオットさんがボーカル、フィル・コリンさんがギター、亡きスティーヴ・クラークさんに替わって加入したヴィヴィアン・キャンベルさんもギター、リック・サヴェージさんがベース 、そしてリック・アレンさんがドラムです。

余分なものを取り除いたオーガニックなサウンドのアルバムを作ることを目標にしていました。

“90年代中盤に、典型的なデフ・レパードのアルバムを作れないとはわかっていた。グランジが絶頂期だった当時、僕らの音はシーンには受け入れがたいものだった。”

…とは、メンバーの話ですが、しっかりと時代と向き合っていました。

それまでの細部まで作り込んだ作品ではなく、“ありのまま”を意識していたようです。

リック・アレンさんは『ヒステリア』以前の交通事故以来、初めてエレクトリック・ドラムをアコースティックのセットに替えて、デフ・レパードは新たなサウンドでの制作を始めました。

しっかりリハーサルを行って、『ヒステリア』や『アドレナライズ』で制作したような個々の音を繋ぎ合せるものではなく、スタジオでバンド一体で音を出してレコーディングを行いました。

01.トゥルース?
02.ターン・トゥ・ダスト
03.スラング
04.オール・アイ・ウォント・イズ・エヴリシング
05.ワーク・イット・アウト
06.ブリーズ・ア・サイ
07.デリヴァー・ミー
08.ギフト・オブ・フレッシュ
09.ブラッド・ランズ・コールド
10.ホエア・ダズ・ラヴ・ゴー・ホエン・イット・ダイズ
11.パール・オブ・ユーフォリア

U2が『ヒステリア』に収録されている「シュガー・オン・ミー」のサウンドに衝撃を受けて、90年代の『アクトン・ベイビー』以降の路線に進んだことは有名ですが、『スラング』に収録されている「ワーク・イット・アウト」は、『アクトン・ベイビー』に収録されている「ザ・フライ」の影響が濃く出ています。

その他にもナイン・インチ・ネイルズやスマッシング・パンプキンズ、マッシヴ・アタック、ビョーク、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデンなど…いろいろな90年代の音楽に影響を受けた作風になっています。

それでいて、デフ・レパードのサウンドですから、英国の紳士のような雰囲気と言いますか…都会的な雰囲気になります。

何をやっても格好良いデフ・レパードです。

その後もずっと、第一線で活躍中です。

リック・アレンさんもパワフルにドラムをプレイし続けてます。

そう言えば、テイラー・スウィフトさんも大ファンで2008年にはテレビ番組でコラボしてました。

“失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ”

このグットマンさんの言葉を体現したバンドのデフ・レパードからは常に勇気とか希望みたいなものをたくさんいただいています。

福祉ですね…あぁ~ステキ♪

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